第十三章
車の後部座席で少女は震えていた。
「おとなしいな、お前」
まだ若い男が運転席から話しかけてくる。自分を迎えに来た男。母と話している最中に見た。冷たい目つきの男だった。
「泣かないし、騒がないし。ちっこいのにまあ、偉いもんだ」
「……」
沈黙。何を言うべきか分からない。何を言えば傷つかずに済むのか、わからない。
「……俺は八樹優っていうんだ。分かるか?」
「……うん」
「そっか。お前、名前は?」
「……すず」
背中越し。窓の外には流れていく夜の光。
「……いつ、かえれるの?」
小さな、ほんの小さな声で少女は尋ねた。男は少し間を置いて、そうだな、とつぶやく。
「今みたいに、泣かないでいい子にしてたらすぐに帰れるぞ」
信号待ち、男が肩越しに少女を振り向いた。冷たいと思っていたまなざしがやけに優しく見えた。
「……うん」
少女は頷いた。
本当は、知っていた。もう自分には帰る家がないこと。
母も、父も。自分のことを見てくれてはいないということ。
泣き叫んでも、戻ってはくれないこと。
だから母に『行け』と言われたときも、素直に従った。
「……」
男はそんな少女を、じっと見ていた。
まだ文字もろくに書けないのに、諦観を覚えていた。
信号が変わる。車は静かに、夜の街を滑り出す。
茜色は薄まって、夜の色があたりを包み始めていた。
明かりの灯った町並みを、鈴は淡々と歩いていく。
それまで抱えていたもやもやはなくなった。ような気がする。
だから背筋を伸ばして、歩けばいいのだ。
駅のすぐ近く、人通りの増えた商店街には活気があふれている。駅を利用するもの、買い物に歩き回るもの。中学生くらいの男の子達が、肉屋の横でコロッケを頬張っていた。
「……」
屈託のない笑顔と、笑い声。鈴には彼らがひどく遠くに見えた。
「お、じょうちゃんか」
「?」
横手からかかった声に振り向く。どこかで見たことのあるおじさんがこちらに向かって手を振っていた。その前にはずらりと並んだ魚介類、まだ生きているやつもいる。
「あ……ええと、魚屋の?」
「おう、元気ねえな!どうした!」
ガンさんは相変わらず威勢のいい声で心配してくれる。
「いえ、なんでもないです」
ふるふると頭を振って、鈴は微笑んだ。
「……そうか?」
「はい。じゃあ」
「あ、待った」
歩き去ろうとした鈴をガンさんは引き止めた。背中を向けてがさごそとやっているガンさんを、後ろから鈴が覗き込む。
「なんですか?」
「ほら、これ持ってけ」
そう言ってガンさんはビニール袋を差し出した。中を覗くと、三匹の鯖が氷に包まって入っている。
「食えば元気出るからな、持ってけ」
「でも……悪いです」
なんとなく受け取れない鈴に、ガンさんは無理やり袋を持たせた。
「いいから気にすんな。誰だって元気なほうがいいに決まってるんだから」
「……ありがとう、ございます」
「おう。気をつけて帰れよ」
それでも心配そうなガンさんは、最後まで手を振ってくれた。
「……」
ビニール袋をがさごそと揺らしながら、鈴は再び歩き出す。
手に持ったその重みが、なぜか彼女をいたたまれない気持ちにさせる。
晃もそうだが、こんな自分によくしてくれる。それが嬉しい反面、素直に喜べない自分がいる。何故だかわからなくて、気持ちが悪い。何故だかなんて、知りたくもない。
マヤもそうだ。どうしてか、自分に優しい。なんだかんだ言って実弥もそうだ。
どうしてなんだろうか。
ぼんやりと考えながら歩いていた。
「……うっ」
そうしてふと気付いたとき、自らの奥からこみ上げてきたものは嗚咽だった。
「……うっく……ふぇ……」
視界がぼやける。感情が自分の奥から湧きあがってくる。
足早に、家までの道を急いだ。必死で顔を覆って、声を押し殺して。人ごみの多い商店街を通り抜け、うつむき加減で歩を進める。
ぽたり、と熱くなった頬に冷たい水滴が触れた。足を止めて空を見上げる。
家まであとすこしのところ、アパートが散在する住宅地。
先ほどまでと変わらない景色に天気雨が落ちてきた。
「……雨……」
顔を覆っていた手を下ろした。目じりが熱かった。
風が使えても、何にもならない。むしろこの力のせいで、今のような自分がいる。
そんな気持ちをずっと押し殺してきた。今のままの自分で生きていくには、それしかないと思っていた。
今の自分が望むのはなんだろうか。
少し勢いを増した雨が全身に当たる。涙と一緒に頬を滑り落ちていく。
ざわ、と背の筋がくすぐられるような感覚。
「……!」
今のは。
雨。そういえば、学校で能力者の存在を感じたときには雨が降っていた。
鈴はきょろきょろと周囲を見回す。人の姿はない。
力の感知は能力の規模で変わる。今感じたのは以前よりも強く、禍々しいものだった。
精神を集中して、感覚を研ぎ澄ませる。
他の者がどうだかは分からないが、『力』は鈴にとって第六の感覚といえる。触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚。それに加えて、彼女は風というものに付属する『なにか』を感じ取ることができるのだ。
人は感覚を頼りに生きている。究極のところ人間に出来ることは、もとをたどればこの五感、触れ、聞き、見て、味わい、匂いを感じ取るという五つだ。
そしてプラスのもう一つが『力』の源だ。風に触れる。風を感じる。そうして風をどのように操るかは体が知っている。歩き方を人がみな教えられるまでもなく知っているように。
そんな感覚を持った人独特の『匂い』とでも言うのだろうか。気配があるのだ。
上ずった気持ちを押し殺して、その気配を探る。
鈴は顔を上げて、自分の家とは違う方向に目を向ける。
学校へ、彼女がいつも通る道。
学校に行けるようになったのは七歳からだった。五歳のときに組織に引き取られ、丸二年は八樹に引き取られて生活していた。
八樹の住むアパートと組織の保有する施設を行き来する毎日。施設ではカウンセラーや医師に囲まれ、時に体を機械に繋がれた。
怖かった。
それでも、八樹がいた。小さなころのおぼろげな記憶だが、二人の生活は楽しかった。
徐々に施設に通う頻度が減った。保護されて二年が過ぎたころ、施設からの帰り道で八樹が思い出したかのようにこう言った。
「学校、行くぞ」
何のことかよくわからなかった。彼女にとって世界は八樹と施設だけだったから。
首をかしげる鈴の頭に手を置いて、八樹は続けた。
「友達できるんだぞ。喜べよ」
友達、というのがまだ何か、よく分からなかった。それでも八樹がどことなく嬉しそうだったから、きっといいものに違いないと思った。
実際に通い始めた学校。緊張していたりもしたが、同い年の子供たちと一緒にいるのは楽しかった。
嬉しかった。
それがずっと、続くと思っていた。
雨足は徐々に強まって、鈴が学校にたどり着くまでにはあちこちに水溜りを生んでいた。
本格的に降り始めた雨の中、途中のコンビニで傘を買って歩くこと十分弱。空から暖色が消え失せ、さっきまで綺麗だった雨粒を重たげに見せる。
学校に人影はまばらだった。夏の大会が近い今の時期はこの時間でも運動部員の姿を多く見られるが、雨が降ってはそうもいかないのだろうか。
帰宅部の鈴は知らなかったが、本当のところはテストがあったため授業が午前中で終わり、夕方遅くまで部活をしていく生徒があまりいないというだけのことだ。もちろん雨が降っているというのも影響しているのだろうが。
「……弓道場」
心当たりのある場所はそこしかない。気配も近い。
ぴちゃり、と水溜りに足を踏み出す。
『力』を持ってしまった以上、その人間が生きる道は限られる。鈴のような、組織に育てられた人間であればなおさらだ。
だが、放っておくことは出来ない。『力』に目覚めた人間は、それを隠し通さねば決して普通には暮らしていけないのだから。そのために少々強引な手を使ってでも『保護』する。
そして、そのために鈴のような人間がいる。八樹のような人間がいる。
思えば、八樹の力になりたくて、自ら手伝いを買って出たのだ。
だが本当に、自分が欲しかったのはこれだったのだろうか。
「……ダメだ」
鈴は首をふるふると振った。この期に及んでそんなことを考えていてはいけない。
『力』があるせいで普通には生きていけない。
だから普通に生きていけなくてもいい。同じような呪いを背負ってしまった人を助けてあげたいと思う。それが八樹のためにもなる。
足を進める。武道館に真っ直ぐ視線を向ける。
学校に近づくにつれ、気配は強烈な存在感を現していた。今まで一度だけ、自分以外の人間が『暴走』してしまったところに立ち会ったことがある。これはそのときの雰囲気に酷似していた。
八樹には学校に来る途中で連絡を取った。すぐには駆けつけられないらしく、鈴は一人でこの気配の主の保護に当たることになった。
武道館の明かりはなかった。入り口に傘を置いて、壁を手探りで電気のスイッチを探し当てる。二階へと続く階段が暗闇の中から浮かび上がった。
「……」
靴を脱いで、裸足でヒタヒタと階段を上っていく。弓道場は目の前だった。
二階にも明かりはない。目を凝らすと、射場の真ん中に誰かが立っていた。
「……誰?」
人影が男の声で言った。若い声。ここの生徒だろうか。
「一年の、春岡といいます。あなたを……保護しに来ました」
電気をつける。雨が降りしきる矢道を背に、一人の男子生徒がこちらを向いていた。
どこか疲れたような目をしていた。
めちゃくちゃになった教室を、半ば人事のように見ていた。
自分を中心になぎ倒された机と椅子。驚いた顔のクラスメイト達。
倒れて動かなくなった友達。
何が起きたのか、鈴は覚えていない。
ただ、涙が出た。とめどなく流れた。
怖い。
自分が怖い。みんなの目が怖い。
意識がだんだん朦朧としてきた。それでも立っている。立ち尽くしている。
頭を抱えて、絶叫した。
その後のことも、彼女の記憶にはない。
「保護……?」
抑揚のない、静かなトーン。
「君は……?」
「……あなたと同じ、おかしな力を持った人間です」
「……!」
うつろな目が見開かれる。鈴を凝視して、次に深く視線を落とした。
「……教えてくれ」
「……?」
「俺はどうしちゃったんだ……? 弓が、射れないんだ」
春、部活に一年生が入ってきてすぐのことだ。射場で弓を手にしたとたん、めまいを起こして倒れた。すぐに保健室に運ばれ、そのままずっと寝ていた。目が覚めたのは部活が終わって少したったころだった。
養護教諭に礼を言って保健室を出て、武道場へ戻った。
雨が降っていた。
薄暗くなった弓道場にはすでに誰もいなかった。
何とはなしに、的場に並んだ的を眺めていた。真ん中の一つ。雨の向こう、ぼんやり見ているうちに妙な気分になってきた。
不思議な高揚感だった。遠いと思っていた的が、目の前にあるような気がした。
あのころと同じように。
荷物の中から矢を取り出して、弓に番えた。弓射の型。弓を引き絞る。
その次に起きたことを、彼はよく覚えていない。
ただ、気がついたとき、手元にあった矢が突き刺さった的が、ずたずたになっていた。
「あなたの能力が、『覚醒』した瞬間だったんです。それが」
『力』は人にとって異質なものだ。ゆえに、手にしたものはそれに怯える。恐れる。
得体の知れない疾患を抱えたかのように。
「それから二度、撃った。なにも起こらなかった」
それで一度は安堵して、いつものように練習に参加した。
雨の日だった。
帰り支度をしていると、あのときのおかしな高揚感に包まれた。一人弓道場に残って、弓を引いた。
全く同じように、的が破壊された。
弓を射るのが、怖くなった。
「……大会、近いんだ。でもこのままじゃ、出られない。雨は……怖い」
どこまでも静かな武道場に、降りしきる雨の音と彼の言葉が響く。
「なら、どうしてここに? ……今日は」
雨。
かすかな沈黙。
「雨が降ると、頭がぼうっとして……。ここに来て、弓を射なけりゃいけない。そんな気がするんだ。誰かに呼ばれてるみたいに」
覚醒したときに雨が降っていたせいなのだろうか。それとも別の何かが原因か。
「大丈夫です」
鈴は口を開いた。微笑みかけた。あのときの八樹のようになりたかった。
「あたし達のところできちんと訓練を受ければ、その『力』をコントロールできるようになりますから。心配しなくても大丈夫です」
一度は、八樹のこんな言葉に救われたのだったろうか。
「――どれくらいかかるんだ」
「え……?」
思いがけない問いだった。
「その訓練って、どれぐらいで終わるんだ?……大会、間に合うのか」
「それは……」
自分のときは、丸二年かかった。『力』の源となる第六感は心の動きに影響を受けやすい。それゆえ、精神を安定させていなければコントロールができなくなる。
訓練やカウンセリングはそのために行うのだ。大まかに言えば何らかの非常事態で心が揺らいでも、乱れた自我の中に理性を保っていられるようになる。これが最低限の目的だ。
そしてそれは、一朝一夕では終わらない。
さらには、彼固有の『力』を研究することにもなる。鈴が見た限りでもどのような能力かはまったく分からない。
「……安心して弓道が出来るようになるには……たぶん、時間がかかると」
「それじゃダメだ!最後の大会なんだぞ。あと一ヶ月もないんだ……!」
無表情だった声に、興奮したような色が混ざる。禍々しい気配がいっそう濃くなった。
「落ち着いてください、大丈夫ですから」
「……助けてくれ……!」
ぞわり、と鈴の背筋を寒いものが撫でた。雨の勢いが増したように思えた。
「怖いんだ。俺が怖いんだ。……うああっ!」
錯乱したように頭をかきむしる。叫び声を上げる。
「……!」
鈴は歯噛みをして身構えた。
まずい。
こんな風になった人間を、能力者を見たことがある。すなわち暴走した者。不安定な精神が『力』を押さえつけられなくなって引き起こされる自然現象の暴発。
鈴の例を挙げれば、風が荒れ狂う。
「落ち着いてくださいっ!」
必死に叫ぶ、帰ってきたのはぎょろりと見開かれた視線。
背筋に感じていた悪寒が、最高潮に達した。
蛍光灯の明かりを裂いて何かが飛来するのが見えた。
「!」
いくつものつぶて。とっさに鈴は飛び退った。
後方の壁に、何かがぶち当たる音。
「……水!」
振り向いた鈴が見たものは壁面に作り出された数箇所のくぼみ。
ぽたり、ぽたりとそこから水が滴り落ちる。
少年の目は静かに鈴を見据えていた。
「水……に、呼ばれていたんですね」
「助けてくれ……!」
ゆらり、と体を揺らして少年が鈴を向き直る。
「う……うあ……」
空気が、狂気に満ちていく。肌がそれをまざまざと感じ取った。
「ああ――あああっ!」
少年の後方、芝の敷き詰められた矢道に雨が落ちる。
この少年は、水を使う。先ほどのつぶては外に降りしきる雨の粒だった。
その水が狂気を伴って、人を害する力に変わっている。
「あなたを、保護します」
想定してきた最悪の事態ではあった。しかし、そもそも鈴はそのためにいる。
普通に生活している能力者なら、こうして新たな能力者の保護に携わる必要はない。存在が感知できたなら、組織に連絡を入れて事情を話せばいいだけだ。
だが、鈴は違う。今は彼女が、頼られる組織の人間なのだ。
その能力者が暴走しているならば、力ずくでも押さえつける。
そのための力を、持っている。
鈴は両の手をかざした。
雨の矢が高速で飛来する。意識を集中した。
空気に付随する『何か』。かき集めて、練り上げる。
「はっ!」
空気が動く。作り上げられたのは強烈な風の壁。
真下から吹き上げた風に阻まれて、水があちこちに飛び散った。
相手を無力化すること。考えるのはそれだけ。
風の壁を消す。少年の目が見えた。
暗く、静かな狂気。『力』に呑まれているようにも見える。
「少々、痛いかもしれませんが。諦めてください」
静かに言ったこんな言葉も、もう通じてはいないのだろうか。
少年が一歩、足を後ろに。半身をこちらに向ける。
弓射の型。その手に弓も矢も持たず、流れるような動作で弓を引いた。
それはほとんど、予感といっていい。
右手で集中させていた風の素を、一気に目の前で破裂させた。
ほぼ同じタイミング。
水の矢が狙いを逸れ、左後方の壁に突き刺さる。今までのつぶてなど比べ物にならないほどの速度だった。
矢は一瞬で壁を抜け、綺麗に十円玉大の穴を壁に穿った。
「……外れた」
ぼそり、とつぶやく声は暗い。
「中らない……。何で……!」
流麗な動きとは裏腹の歪んだ表情が、ぎらりと鈴を見据える。
鈴はその視線を受け止めながら、頭の中で算段を練っていた。
あの矢はかわしきれない。速すぎる上に威力もある。風で吹き散らすには少々厄介だ。
近づいてしまえば、あの矢には捕まらないはず。
きっと見据えた視線の先、少年が再び矢を番える動作を見せた。
来る。
今度は左に動きながら、鈴は左手を大きく右に振り切った。
その掌に扇ぎ動かされるように横薙ぎの豪風が生まれる。
放たれた矢はまたも風にあおられ、左に避けていた鈴を大きく逸れて壁を貫通した。
「くそっ!」
歯噛みとともに頭をかきむしる。
その隙を突いて鈴は走った。一直線に、少年に向かって。もともとそう広くはない射場、鈴は一気に距離を詰める。
「な……!」
三歩の距離。鈴は右腕を振り上げた。
つむじ風が巻き起こる。
真空の刃を内包した小さな竜巻は少年を包み込み、巻き込まれた雨粒がその姿を覆い隠した。
少年の声は風に阻まれて聞こえない。
つむじ風の内部では、細かな真空の刃が舞い狂っている。決して深い傷は負わないが、全身にいくつもの傷を負う。
そして竜巻の中は空気が希薄だ。窒息死するまで行かなくとも、普通の人間なら弱りきって落ちてしまう。一個人を無力化させるにはうってつけの手段といえた。
一歩下がって鈴は風を収めた。
「……く……」
体のあちこちから血を流し、ひざをついて苦しむ少年の姿が現れた。
「……訓練は、あなたが再び元の生活に戻るために。すべて、あなたのためなんです」
「はあ、はあ……だまれ」
「後々のことを考えてください。今のままでは、いつか人を殺してしまいます」
「うう……あああ!」
絶叫。矢道に降る雨が殺気を持つ。
雨の針が群れて襲い掛かってきた。
「あなたは、あたしには勝てません」
薄い風の壁を瞬時に作り出して、水のつぶてを弾く。
「う……」
「すみません……。諦めてください」
けりをつけようと、鈴は両の手に意識を集中した。
その次の瞬間だった。
「――っ!」
左の肩口に、激痛が走った。
後方から撃ち抜かれるような衝撃。とっさに振り向く。
「穴……!」
水の矢が壁に開けた小さな穴が、こちらを向いていた。
あの穴、鈴の後方から水の針を飛び込ませたのだ。
そこまでを理解したとき、少年は立ち上がって矢道に飛び込んでいった。
「雨……雨だ」
何かにとり憑かれているかのような笑顔で、空を見上げた。強くなってきた雨に打たれて少年はずぶ濡れになっている。
「う……」
左肩がひどく痛む。水の矢は細く、動かせないほどの傷ではないが貫通していた。
「ああああ!」
張り上げられた声とともに、雨粒が方向を変えた。
来る。
もう何度目か、鈴は風の防壁を作り出した。痛みのせいで集中力が薄れる。
「うっ!」
向こうも傷を負っているはずなのに、威力は衰えない。むしろ増していた。
暴走している能力者は、能力を支配できていないぶん力に抑制をかけない。
乱れ撃ちされた水が荒れ狂う空気の壁を叩く。
鈴は歯を食いしばる。
風に流れた無数の水の矢が天井の蛍光灯を打ち抜いた。破片が飛び散り、たちまち弓道場は暗闇に包まれる。
ふいに、頬を何かが伝った。熱かった。
――どうして、自分はこんな所にいるのだろう。こんな苦しい思いをしているのだろう。
それは自分が選んだからだ。そう望んだからだ。
だが本当にそうだったのか。もしそうなら、なぜこんなにもつらいのか。
こんなにも、虚しいのか。
八樹に任せて、自分は実弥や晃と、マヤ達とこの学校で普通に暮らしていけばよかったのではないか。
実弥や晃と。
マヤ達と。
その名前に行き当たったとき、少しだけ力が湧いた気がした。
ここで倒れたら、もう会えない。悔やむことすら、出来ない。
「このっ……!」
痛みを意識の隅に追いやる。風が勢いを増した。
じりじりと、前へ。射場一杯に広げた風の壁を押していく。
「はあああっ!」
極限まで、感覚を研ぎ澄ました。
立ち上っていた風が津波のように走り出す。雨粒を押し返し、少年を押しつぶす勢いで矢道を駆け抜けた。
「くっ、うああっ!」
吹き飛ばした。
圧倒的な力が、少年を的場の壁に叩きつける。
「が!」
背中から打ちつけられ、少年は芝の上に沈んだ。
「はあ、はあ」
ふらつきながら、鈴は矢道に足を踏み入れた。雨が全身に当たる。
やっと、かたがついたか。
ずぶ濡れになりながら、並んだ的の下に横たわった少年に近づいていった。
ひとまず、自分の役割はここで終わった。あとは八樹が到着するのを待って、この少年を運んでいけばすべてかたがつく。
考えながら、鈴は雨の中に立ち尽くしていた。
――これで、この街ともお別れだ。
能力者を見つけ出して保護する。鈴がこの町に来た理由は、ただそれだけだ。
次にどこかで能力者の存在を察知したと聞かされれば、すぐに飛ばされることだろう。
人の気配に気付いたのは、そのときだった。
階下からヒタヒタという足音が聞こえる。
鈴は焦った。雨の中、倒れた傷だらけの少年とその横に立ち尽くす少女。この状況を誰かに見られるのはまずい。
辺りを見回しても、身を隠すような場所はない。
そうこうしているうち、足音が射場の入り口で止まった。その誰かは壁際にある伝記のスイッチをぱちりと押したが、砕けた蛍光灯は反応を示さなかった。
「あれ、電気つかない」
鈴は目を見開く。
よく知った、声だった。




