第十二章
テストが終わった。
帰宅部の連中は狂喜し、運動部員は文句をたれながらさび付きかけていた体を再び動かしている。
そしてさらに翌日。その日が、やってきた。
「どう、緊張してる?」
肩越しに尋ねてくる先輩に、鈴は硬い笑みを返して見せた。
ちなみに今の彼女はメイドではない。実弥と同じ、学校の制服にエプロンを引っ掛けただけの格好をしている。このほうがむしろここでは自然だし、鈴にとっても楽だ。
「……すこし」
マヤにはこの店の場所を教えておいた。心の準備というか、落ち着いていたかったので鈴の後から来てもらうことになっている。
「ふふん、そうなの」
にやにやと実弥が笑う。何かやらかしそうで怖い。
「……やめてくださいよ、変なことするの」
じとりとした目を向けると実弥は肩をすくめる。
「いやだなあ、何もしないって」
「……」
「でもまあ」
カウンターの向こうから店長が口を挟んできた。
「別にだまそうっていうのが目的じゃないんだからさ。普通に仕事してればいいし、失敗だってあっていいし、そう硬くならなくてもいいと思うけど」
「あ……はい。そうですよね……」
「そうそう。てきとーにやってりゃいいんだよ。バイトなんてさ」
本物のウェイトレスの発言に、それはどうだろうと思いながら鈴は晃を見た。遠い目でコップを磨いている。もう諦めてしまったのだろうか。
ちなみに今日もこの店にお客の姿はない。鈴が来るといつもこうなのだが、心配だ。
「いつくるんだっけ?」
「えっと……二時です」
鈴は時計を見上げた。午後一時半。あと三十分でマヤはここにやってくる。
「こなきゃいいのにな……」
ポツリとそんな言葉が口から漏れた。そんな自分に違和感を覚える。
「来て欲しくないの?」
「あ、いや……」
うつむいて頬をかく。
「そりゃ、ウソなんてつきたくないから、来ないのが一番いい、と思う……ような、気もしなくはないんですけど」
「どっちよ?」
「でも、来て欲しいような気もするんです」
自分でも自分がよくわからない。相反する二つの感情がない混ぜになって、そのままずるずると今日を迎えてしまった。
「人と……その、関われるのが……あの」
「ん、なんだって?」
ぼそぼそと発した声は実弥の耳に届かなかったようで、顔を近づけてきた。鈴は真っ赤になる。
「なんでもないです……」
うつむくと、頭にぽんと手が置かれた。上目遣いに実弥を見る。にやにやと笑っていた。
「ふむ……」
「なんですかっ」
またも手を振って、置かれた実弥の手を押しのけた。にやけた実弥の顔がいっそう緩む。
「さ、最後の復習しようか?」
「あ、はい」
鈴はカウンターの上にあるトレイを一枚手に取った。
「はい、まずはお客さんが来た!」
実弥が入り口のところまで歩いて行って、ぱっとこちらを振り向いた。お客の役だ。
「い、いらっしゃいませ!」
必要以上に大声での歓迎だ。実弥に鍛えられた結果、とにかく叫ぶ事が身についてしまった。でも普通ここまでされると逆に引く。
「い、一名さまでしょうか?」
「悪いですか?」
役なのに感じ悪い。
「い、いえ。どうぞこちらに」
テーブル席の一つを勧める。黙って席に着くと、すかさず水とお絞りをサーブ。
「ご注文はお決まりですか?」
「……お勧めはなんだい?」
横柄な態度でウェイトレスに尋ねる。渋めの声を作って、柄の悪いおっさんを演じているらしい。必要もないのに。
「え、えっと。ブレンドコーヒーがすごくおいしいお店なんですが、カプチーノとか、カフェラテなんかもお勧めです。お好みで豆の種類もお選びいただけますよ。モカにキリマンジャロ、グアテマラやコロンビア、いろいろあります」
すらすらぺらぺらと答える。淀みなく。ほんの二日間しか店の業務に携わっていないにも関わらず、コーヒー関係のことはあっという間に把握してしまった。
「……おれは横文字に弱いんだよ、ねえちゃん。もっと分かりやすくできねえのか?」
変な汗をたらして文句をつける実弥。彼女より鈴のほうが、今はずっとカフェのスタッフらしい。向いているのかもしれない。少なくとも実弥よりは。
「え、ええと……」
鈴は言葉に詰まる。こんなイレギュラーな客はあまり来ない。
「いや、来るのは鈴ちゃんの友達なんだから」
きちんとフォローを入れてくれる店長がとても頼もしい。
「……うおっほん。生一つ」
「だめです」
「私来年で十八だよ?」
「じゃああと三年はダメです」
お酒は二十まで飲んではいけない。十八ではだめなのだ。
「だいたい、うちは五時以降じゃないとアルコール出さないよ」
横から口を挟んできた店長に、実弥が鋭い視線を向ける。じゃまするな、と言いたいのだろうが、どちらのほうが邪魔なのだろうか。
「と、とりあえず、こちらがメニューになります」
話が進まないので、メニューブックを開いて実弥に渡す。受け取ったお客はあごに手を当ててなにやら真剣に悩み始めた。
「……アイスココア。生クリームのせで、特大」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ぼそり、と小さな声でオーダーを受け、鈴は晃にそれを通した。
「アイスココア一つ、生クリームのせで特大。お願いします」
「はい」
愛想よく返事した晃は水の入ったジョッキを鈴に突き出した。きょとんとした顔を晃に向けると、一つ頷いてさらに水を差し出す。
仮想の客なので、これをもっていけ、ということらしい。
鈴はそのジョッキと、小皿に盛ったクッキーをトレイに載せて実弥の元に向かった。この店ではドリンクワンオーダーにつきクッキーが三枚付く。
「お待たせしました」
コースターを置き、その上に水の入ったジョッキを置く。
「……ちょっと」
続いてクッキーの乗った小皿を置こうとしたところで、実弥が不機嫌そうな声を上げた。
「……なんでしょう?」
またなんくせか。
そう思ってかしこまると、以外にも彼女は本当に渋い顔をしていた。
「あの……?」
恐る恐る尋ねてみる。
「……誰が、水なんて頼んだ?」
「え、あ……いや」
「ココアって言ったでしょう!なんで水が出てくるの!」
立ち上がって両手を振り回し、激昂。
「いや、練習ですから」
「甘い!甘いよ!練習だからって気を抜いてたら、一流になんかなれないよ?」
駄々っ子のようにじたばたと暴れてわめき散らす実弥。要するにココアが飲みたかったらしい。
「……わかりました。ちょっと待っててください」
ため息一つ、鈴はお辞儀を一つした。
「わかってんじゃん。頼むよー?」
とたんいい顔になった実弥は、びしっとクッキーを突きつけて念を押す。
「……たぶん、六百円くらいになると思うんですけど」
「金取るの!?」
「一流ですから」
「練習なのに!」
「練習ですけども」
「うー……あー」
わずか二日ばかりだが、しっかりしたウェイトレスに仕上がっているようだ。
そしてとうとう、鈴の友人によって『カフェ・更級』のベルが鳴らされる時が来た。
「い、いらっしゃいませ!」
いざとなると震えてしまう声を絞り出す。ドアを開けた向こう、つい数時間前に学校で会ったばかりのマヤがいた。
「お、やってるね。来たよー」
相変わらずのサバサバした口調でマヤが片手を上げた。
「い、いらっしゃい。どうぞ」
カチコチになりながらも、鈴は笑顔で彼女を迎えた。にこりと笑ってマヤが後ろを向く。
「どうぞー」
「え?」
後ろに呼びかけるマヤをいぶかしむ。
「あのね、みんな暇だって言うから、誘ったら来るって」
「え……?」
マヤに続いて、三人の少女がドアの向こうから顔を覗かせた。
「……あー、ほんとだあ。春岡さん、マジでバイトしてたんだねー」
先頭の一人が声をかけてきた。髪をポニーテールに結わえた少女。顔は知っている、同じクラスの女子だ。当然というか何というか、鈴はあまり話したことがない。
続いて入ってきた、メガネとおかっぱの二人も同じクラスの娘だった。その名前さえうろ覚えなのはいかんともしがたいところではある。
「え……えっと。ども……」
意表をつかれて、鈴はしどろもどろになってしまう。マヤの顔を見たあと、さらに後ろを振り返って実弥を見た。実弥はなんだかおもしろそうな顔をしていたが、鈴と目が合うと口元を結んで一つ頷いた。
鈴もこくりと頷いて、マヤたちのほうに視線を戻す。
気合いだ。
「じゃ、じゃあ……えっと、こちらへどうぞ」
若干予定は狂ったが、やることは同じだ。
四人を奥のテーブル席まで案内する。わいのわいの、静かだった店内を一瞬で騒がしい色に染め上げながら、一同は席に着いた。
「でも、けっこういい感じの店だよねー。通っちゃおうか?」
「あ、あはは……」
メガネの少女の一言に、変な笑いを返す。
「……な、なんにしますか?」
渡したメニューを手に手に取った一同に尋ねる。
「……店員さん、お勧めは?」
さきほどの実弥と全く同じことをマヤが尋ねてきた。出そうになかった練習の成果が出るのかもしれない。
「えっと。ブレンドコーヒーは、とりあえずおいしいです。あと、店長さんのお勧めでカフェラテとかカプチーノとかも。豆別でオーダーもできますよ。ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカとか、あと他にも」
「……そーだねえ」
聞いてはみたが、あんまり参考にする気がないらしい。
そもそも大半の人間はコーヒーの種類なんてあまり気にしないわけで、それが女子高生ともなればなおさらだろう。
「……春岡さんって、意外と喋るんだね」
ポニーの娘が言うと、一同がうんうんと頷いた。ついでに言うと、一同若干引いていた。
「じゃあ、アイスティーで!」
一同の中でそれをあんまり気にしていないマヤが一番に注文した。
「……コーヒーじゃないの?」
不満を隠そうともせずに鈴は聞き返す。やっぱりウェイトレスには向いていないかもしれない。
「えっと……アイスココアひとつ」
ポニーの娘が続く。なんとなく恐る恐る、といった雰囲気だ。
「……コーヒーは……?」
指をくわえて寂しそうに呻く鈴。聞いてもらえない。
「じゃあ私はオレンジで!」
「ええっ!?」
メガネの娘に対しては、もはやスタッフの反応ではない。居酒屋の中には「はい、よろこんで!」と過剰に反応してくれるところまであるというのに。
鈴は一人残ったおかっぱの少女に目を向けた。キラキラ光る目を向けた。
「じゃあ……」
ゆっくりと口を開く。どきどきしながら鈴はその続きを待った。
「……生一つ」
「ダメ!」
「もう十六だよ?」
「じゃああと四年はダメ!」
予行演習が、奇跡的に役に立っていた。
カウンターのところへ戻り、オーダーを通す。内訳はアイスティーのレモン一つ、アイスココア一つ、オレンジジュース一つ、そしてノンアルコールビール一つ。ついでにケーキ四つ。
「お願いしまーす」
「はいよー」
カウンター向こうの晃が答えて、ドリンクの用意を始める。しばしそれを待つ間、横手から実弥がわき腹をつついてきた。
「どうよ?好調?」
「……先輩の指導が、奇跡的にものすごく役に立ってます」
全くもって不本意だが、ものすごく役に立っている。
「それはよかった、うんうん」
満足げに頷く。それから実弥はテーブル席で談笑するマヤたちを指差して言った。
「私いるし、混ざってきちゃえば?」
「いや……それはちょっと。一応バイトの体裁なんですから」
「そうでもないよー?たまに友達来るけど、そうなったら私働かないよ?」
「働きましょうよ……」
この先輩を見習ったらきっとダメな人になる。
「……でもまあ、こういうときぐらい、ねえ?てんちょ」
「いいから、ケーキぐらいつけてよ」
向こうでせわしなくドリンクの用意を進める晃に言ってよこすと、情けない声色で非難の声が飛んできた。本来ならホール係にもやることはたくさんあるのだが、実弥は店がヒマだと自発的に動こうとしないし鈴にはどう手伝っていいものか良くわからない。必然的に晃が一人でやることになっているが、よく考えれば必然でないような気もする。
そのとき、からんとドアベルが鳴った。扉を押し開けて二人連れの女性客が入ってくる。
「あ、いらっしゃいませー」
「い、いらっしゃいませ」
ここはさすがに正規のスタッフか、実弥がさっさと席に案内する。ちょうどマヤたちのテーブルと正反対の位置だ。
実弥がトレイにお絞りと水を乗っけて、お客のほうへ行ってしまった。
ふと、ひとりぼっちになる。
「……」
なんだか落ち着かない。そわそわしていたところに、後ろから晃の声。
「鈴ちゃん?できたよー。お願い」
「は、はい」
グラスの並んだトレイを持って、よたよたと鈴は歩き出した。
重い。練習で水の入ったグラスを何度か運んだが、四つ同時だと結構な重量になる。
「大丈夫?」
「大丈夫です!」
心配そうな晃に、鈴は笑って応えた。その動きはぷるぷるしていて、自分でもやばそうなのがわかる。
「ではっ……よっ、と」
「あ、ああ……」
右へ左へ、危なっかしいことこの上ない歩き方で、よたよたとマヤたちの元へ。
「おまたせ、しましたっ」
奇跡的にも飲み物は少しもこぼれていなかった。
「おー、来た来た。ご苦労様」
マヤが鈴の頭をぽんぽんと叩いてねぎらってくれる。うれしいようなそうでないような。
「はい、アイスレモンティー、で、えっと……ココア、と」
「ありがとー」
にこにこした視線がなんだか気恥ずかしい。
「えと、オレンジと……ビール」
ごとりといい音を立てて、黄金色のジョッキが置かれた。当然アルコールは入っていないはず。入っていてはいけない。
実を言えばノンアルコールビールはアルコールがちゃんと入っている。ほんのわずかな量ではあるが。鈴はそんなこと知りもしなかった。
「……どうもです」
「いえ……まあ。あ、すぐケーキ持ってくるから」
とりあえずドリンクを置いて、ケーキを取りに戻る。カウンターの所では晃がトレイにケーキを載せて用意していてくれた。本日のケーキはレアチーズのタルト。レモンの風味が利いたオリジナルだ。
「ありがとうございます、晃さん」
「ん。どう、楽しんでる?」
「……はい」
「うん。ならいいや」
にこりと笑う店長。いい人加減が半端ではない。
ケーキを運んでいく。マヤたちのおしゃべりが聞こえていた。
「で、その映画行くの?」
「そりゃあ、行くでしょう。あたしバイト入れてないしね。マヤは?」
「あたしは部活だってば。大会近いしさあ、練習ばっか」
「さぼっちゃえって!」
「んー……そうしようかなあ」
マヤがあごに手をやったところに、鈴はケーキを滑り込ませた。
「おまたせ。チーズケーキ四つです」
「あ、来た!うまそう!」
犬みたいに皿を覗き込んでマヤは目を輝かせる。
ケーキの皿を四つ置き、伝票をテーブルの上に裏返しでセット。
完璧だ。
ひそかな満足に浸っていると、メガネの娘が言った。
「ね、春岡さんって映画見る?」
「え?」
思いがけない質問にちょっと困惑してしまう。
「あさって日曜、みんなで映画行こうかって話しててさ。ヒマだったら一緒にどう?」
「あ……」
なぜだか、言葉に詰まった。
予定としては、日曜日は何もない。厄介なことに駆り出されない限りはヒマだ。
ヒマなのだが、
「……あの、ごめん。その、バイト入っちゃって」
気がついたら、そんな風に答えていた。
なんだよー、という声が上がる。マヤのほうを見た。彼女は笑っていて、急だったもんね、とメガネの娘の頭をぽんぽんと叩いていた。
「ほんと、ゴメンね」
謝りながら、鈴は一生懸命、笑顔でいた。
「お待たせしましたー。ブレンド二つです」
ひょいひょいと慣れた手つきで、実弥はコーヒーをテーブルに置いた。
「以上でよろしいですか?」
トレイを小脇に抱えてカウンターのところに戻ろうとしたとき、ふと鈴たちの会話が聞こえてきた。
「バイト入っちゃって」
鈴の言葉に眉をひそめる。もちろん彼女はバイトなんか入っていない。
振り返って鈴の表情を見た。笑っていた。
笑っているのに、泣いているように見えた。
「……」
カウンターまで戻り、実弥はどっかと椅子に腰を下ろす。それを見た店長がまた非難の声を上げる。
「実弥ちゃん、働こ?ね?」
注文をとってコーヒーを運ぶだけがホールの仕事ではない。晃はもっと強く言っても罰は当たらないと、実弥自身でさえ思う。
「……ねえ、店長」
「なに?ココア?」
先に聞いてくるあたり、随分飲んだものだ。
「じゃなくてさ。……私の泣いたとこって、覚えてる?」
「……ああ、うん」
実弥が最後に泣いたのは、この店でのことだった。
それから二時間ほどでマヤたちは更級を後にしていった。みんなが鈴に手を振って、鈴もそれに応えていた。後ろ向き、実弥たちに鈴の表情は見えなかった。
マヤたちが帰るころ、五時あたりからカフェ・更級はバーとしての営業を始める。
鈴としては手伝っていく理由もなくなったわけだが、三組もの客が一度に入ってきたため成り行きでウェイトレスを続けていくことになった。
ひょっとしたらわりと人気のある店なのかもしれない。
「さ、三名様でしょうか?」
あたふたと慣れない接客に励む鈴。店は三組も入れば満席で、それでも二人だけだとなかなかに忙しい。
「へー、テストだったの、実弥ちゃん」
「そーそー。まあどうでもいいんだけどさ。勉強なんか」
カウンターに座ったお客さんと実弥が談笑していた。鈴は注意しようとしたのだが、晃は何も言わない。それを楽しんでいるふしさえあった。
鈴自身も常連さんから声をかけられた。
「あれ、新人さん?」
「え、えっと」
「ああ、今日一日ちょっと手伝いに来てくれたんですよ。実弥ちゃんの後輩で」
「可愛いねえ。あっちの娘と違ってさ」
「あんだって?」
小さな店だからか、お客さん同士でも笑ってあれやこれやと話している。
近い、店なのだ。
そう思うとすこし嬉しくなった。すこし、寂しくもなった。
晃の人柄と同様に温かみのある空間での時間はゆるゆると過ぎていった。
あがって帰ることになったのは七時に差し掛かったころだった。
「ほんとに、今日はありがとうございました」
鈴は晃に深々と頭を下げた。とんでもないよ、と晃は両の手を振る。
「だって、後に入ってきたお客さんたちの分まで手伝わせちゃったし。ちゃんと給料も出すからさ」
「え、ダメですよ。もらえません」
「じゃあ私にくれ!」
「もっとダメですよ」
実弥が口を挟むと、鈴がいい切り返しを見舞ってくれた。
「実弥ちゃんの分の給料だから、遠慮しないでね?」
「おい!?」
あのいい人ぶりはどこへ行った。
「大丈夫ですから。……それじゃあ、あたしはこれで。本当にありがとうございました」
「うん。気をつけてね」
再びへこりと頭を下げる。開けたドアから店内の明かりが漏れ出した。
鈴の表情も、よく見えなかった。ドアが閉まる。なんとなく沈黙が訪れた。
注文をとってビールを運び、料理を出し、片付け、洗い物をする。そうこうしているうちに八時を回った。客足は少し大人しくなっただろうか。
実弥は黙ってカウンターの上を片付けていた。すぐ向こうには洗い物をする晃の姿、リキュールやワインのボトルが幾本も並んでいる。
「……店長、ちょっと早いんだけど、あがっていいかな?」
「え、まあ、構わないけど。どうしたの?」
「……ちょっとね。あの、豆もらってっていい?」
更級ではコーヒー豆のテイクアウトもできる。ブレンドコーヒーは一〇〇グラム三〇〇円からで、買って帰るお客さんも少なくない。
ただ、実弥はコーヒーを飲まない。その一言を聞いただけで、晃は何かを察したようだ。
「うん。サービスにしとくから、持っていきなよ」
「……ありがと」
控え室に向かう。
少し薄暗く調整した店内の明かりはどこか優しい。この空間が、実弥は本当に好きだった。落ち着く、という言葉だけではない、安心感のようなものがあるからだろうか。
エプロンを外して、控え室のハンガーに引っ掛けようとした。もう一着、先ほどまで鈴が着ていたエプロンが先に掛けてある。
少しばかり、ぼんやりとそれを見ていた。
本当に短い間だが、始めは無表情だと思っていた鈴の、色々な顔を見た。
心にひっかかるものがあった。初めて会ったときの、必死だがどこか暗い顔。八樹がこの店を訪れたときに見せた寂しげな表情。ついさっき、マヤたちの前でのあの、笑顔。
マヤたちが来る直前の、そわそわした表情。
一番似合っていたのは、あのときの笑顔だったように思う。
けれども――
「……人は、みんな」
実弥は鈴のエプロンに真っ直ぐ指を伸ばした。
「手を伸ばせば、触れられる」
あの娘は――鈴は、おかしな力を使うけれども、普通の女の子だ。
だからあんな顔を見れば、どんな気持ちでいるのかぐらい、なんとなく想像はつく。
控え室のドアが開いた。豆の詰まった袋を手に、晃が立っている。
「はい、三〇〇グラム。鈴ちゃん家にはコーヒーメーカーあるんだよね?」
「うん。ありがと」
にこりと笑った晃から、袋を受け取る。
この笑顔に、自分も救われたのだ。それだけでなく、この店全部にも、商店街の連中にも、級友にも。
だから自分も、自分のような人の力になりたいと思う。鈴の持っているような『力』では、決してなしえないようなことができる力に。
この店で、この町で、店長の下で、生きていく以上は。
「それぐらいの距離に生きてる、だっけ」
晃は満足そうに頷いた。
「うん。鈴ちゃんにまた来るように言っといてね」




