二章 3
団長用の食堂でサッと昼食を済ませたベアトリスは、王城と騎士宿舎の間にあるちょっとした空間へ足を運んでいた。そこでオリオンの講義を受けるよう、食事中にメイベルから言われたのだ。
職人棟を出てすぐ。真っ黒な髪と赤い服という、目立つ組み合わせの誰かが立っているのが見えた。ベアトリスに気づいていないのか、今は背中を向けていない。ピンと背筋を伸ばし、近くにいるアマリリス騎士に指示を飛ばしているようだ。
ひどく怯え、ひたすら縮こまっている。そんなオリオンしか知らないベアトリスは、意外な姿に思わず足を止めた。
(オリオンさんって、ちゃんと真っ直ぐ立てるんだ……)
失礼なことを考えつつ、ぼんやり見つめていると、オリオンが一瞬だけ顔を向け──あっという間に、見慣れた姿になる。
よくあることで、慣れているのか。そばにいたアマリリス騎士に、豹変した彼を気にかける様子は一切ない。
かえって安心したベアトリスは、急いで彼らに近づいた。
「だーんちょー、この子ですか?」
「はい、そうです。まずは実際に見てもらった方が、知識も頭に入りやすいかと思いまして」
「あー、ですよねー。今日の子たちも、実際にやったらすっごい興味持ってましたし」
しゃがみ込んで震えているオリオンに受け答えしているのは、恐らく副官だろう。明るい茶色の髪と、それより少し濃い瞳が、クルクルと楽しげに表情を変える。どことなく幼い印象を受けるが、二十代前半くらいか。
透き通った薄紫色の石と、濁った淡い緑色の石が二つずつ、交互に並ぶ首飾りが光をキラリと反射する。
「とりあえず、団長がこんななんで、僕から軽ーく説明しますねー。魔法使いはいくつかタイプがあって、割とよくいるのは、僕みたいな攻撃関係が得意なタイプ。戦場では遠距離でえげつない攻撃ができて、敵には嫌われるけど味方だと心強い……ですよね?」
「そうですね。ただし、攻撃タイプは時と場所と場合を選ばなければ、ただのはた迷惑な殺戮兵器にもなりますよ」
なぜか最後の最後で、いきなり自信をなくしたような語調になる副官。対してオリオンは、援護とは思えないことを淡々と話す。だが、副官は納得したのか、うんうんと大げさに頷いている。
「で、割と貴重なのが、治癒が好きなタイプ。団長含め、割と優しい人が多いのが特徴ですね。特に大ケガをパーッと治せる人は、戦況をひっくり返すことができるから重要……ですよね?」
「はい。その代わり、敵にはどのタイプよりも嫌われます。正直なところ、命がいくつあっても足りません」
「それから、補助タイプってのもあって、防御したり、相手の足止めをしたり。味方の行動を支援するものが得意……なんですよね?」
「そうです。大まかにはその三タイプを覚えておけばいいと思います。まれに複合タイプもいますが、理解できないほど極端ではありませんから」
オリオンを見て話す副官と、地面に話しかけているオリオン。だんだん、二人の話を立ち聞きしている気がしてきた。
何だか、無性に居たたまれない。
攻撃、治癒、補助……と呟いているベアトリスに、副官は右手の人差し指と中指をそろえて立てる。
「百聞は一見にしかず、と言うでしょ?」
ニッ、と口角を持ち上げて笑った副官は、二本の指を空中ですうっと滑らせた。上から下へ一本、上部に重ねて右下へ一本。
それが何なのかを、ベアトリスが理解する前に。
「火炎!」
副官の指先から炎が噴き出して、こちらに向かってくる。ベアトリスには、そうとしか見えなかった。
「守護!」
オリオンの声と同時に、ベアトリスの目の前で炎が何かに弾かれて、ふわっと溶けて消える。驚いて彼を見るが、相変わらず震える背中が見えるだけだ。
「僕が見せたのが、攻撃タイプの呪文のひとつ。団長がやったのは、補助の中でも防御の呪文。団長のは、アマリリスの攻撃タイプが総攻撃しても多分壊せない、アマリリス最強の防御……ですよね?」
「だからといって、あなたが問答無用でベアトリスさんを攻撃していい理由には、絶対になりませんからね。先ほど言いましたが、彼女は他になり手のいない、エリカ騎士の貴重な団長です。メイベルさんより恐ろしいことになりますから、今のようなことは、この世のありとあらゆる地獄を体験する覚悟ができてからにしてください」
「……いったい、どんな家の鼻つまみ者で、お飾り団長なんです?」
ずいぶんな言われようだが、兄以外の身内にとって『鼻つまみ者』である事実は覆せない。
たくさんいるという兄や姉とも、存在しているだろう母の血縁者とも。いまだに顔を合わせたことがないのだから。
他になり手がないと言われては、お飾り扱いでも仕方がない。だいたい、実際に戦う姿を見せていないのに腕を信じてくれ、と言い出すほど、面の皮は厚くないつもりだ。
だから、ベアトリスは腹が立たなかった。これからゆっくりと、けれどしっかりと、証明してやればいい。そう考えている。
「お飾りではありませんよ。少なくとも、ガザニア騎士のグレアムさんを相手に、息を切らさず一本を取れる腕があります」
(いつの間に……?)
午前中、ベアトリスはずっとヴァーノンと行動を共にしていた。オリオンは、アマリリス騎士と新人教育に当たっていたはずだ。
昼食を慌ただしく済ませて、すれ違うように席を立った。そのオリオンが、なぜ知っているのか。
「ガザニアのグレアムって、ガザニアだったら五本の指に入るって噂ですよ? こんな小さくて、しかも見るからに弱っちい小娘が勝てる相手じゃないですって。あり得ないほど油断してたか、思いっきり手加減してもらったに決まってます」
「いえ、ベアトリスさん相手に少しでも油断していれば、グレアムさんは負けます」
「それはあくまで、団長の個人的な見解でしょう? ほとんどは僕と同じ意見になり……ますよね?」
ガタガタと震える背中しか知らなかったオリオンの、思いがけない強い口調。
驚きを隠せないベアトリスは口を挟めず、二人の言い争いを黙って聞いている。
「確かに私は、ベアトリスさんに対して好印象を抱いています。しかしそれは、あくまで私個人の勝手であり、一騎士団の団長として、黒を白と言うことはありません」
「じゃあ、この子の何が、団長にそんな評価をさせるんですか?」
ここでオリオンは、短い時間口ごもった。
(あれ? オリオンさんって、もしかして……)
母が『二番街の弓姫』だったと言えば。兄がモデスティー伯であると教えれば。この副官だけでなく、相手が誰でも簡単に話が通じるはず。
だが、オリオンはそれをしたくないのでは。
自力でやっていきたいと訴えたこともなければ、家のことを話さないで欲しいと頼んだ記憶もない。恐らく、オリオンの推測に基づく独断だろう。
そう考えた瞬間、自分の素性を話そうとしないオリオンに、深い感謝の念を覚えた。
「実は昨日、ベアトリスさんは、背後からいつものあれをしでかしたコーデルさんに、正確に剣を突きつけました」
人形のように無表情の副官の視線は、ゆっくりとベアトリスの頭からつま先を往復する。念入りなことに、二往復だ。
視線が頭の先に戻ったところで、ハッ、と鼻で笑う小さな音が聞こえた。
「……ベロニカ騎士団長は、相当焼きが回ったみたいですね」
副官は、どうあってもベアトリスを『厄介者でお飾りの団長』としたいらしい。
いきなり作られた騎士団の団長に、見るからに弱々しい小娘が就いたのだから無理もない。しかし、それを甘んじて受け入れることはできなかった。
団長になってしまったのは、確かに予定外だ。とはいえ、エリカ騎士として生きていくことは、自分の意思をもって決めたこと。それを無茶苦茶な屁理屈であらぬ方向へ押し曲げられては、さすがに黙っていられない。
大きく息を吸い込んだベアトリスが、おもむろに口を開こうとした矢先。
「カーティスさん、口を慎みなさい。正式なお披露目はまだ先のこととはいえ、エリカ騎士団の発足及び彼女の団長就任は、すでにモデスティー伯の承認を受けた決定事項です。それがどういう意味か、もちろんわかりますね?」
すっくと立ち上がったオリオンの背中から、強い憤りがあふれている。
彼の言う内容を理解したのか、カーティスはわずかに青ざめていた。けれど、ベアトリスには、オリオンがこれほど怒りを露わにしている理由がわからない。
「ベアトリスさんには無礼をお詫びします。申し訳ありませんでした」
言いながら、背中を向けたままあらぬ方向へ頭を下げる。そんなオリオンに、ベアトリスは小さく噴き出してしまった。
「気にしないでください。ガザニア騎士の方々も、コーデルさんの件は、最初は疑ってかかってましたから。それに、グレアムさんは模擬剣で、あたしは使い慣れたこの剣だったから、あたしの方が有利に運べたと思うし」
ひと息に言葉を吐き出したベアトリスに、がっくりとうなだれていたカーティスが勝ち誇った表情を見せる。
急に生き生きとした彼が吐くだろう台詞が、何となく読めた。
「「手加減してもらったんじゃないか」」
ベアトリスの声が綺麗に重なり、カーティスの顔色がザッと音を立てて変わる。語尾には、オリオンのため息が乗せられた。
「カーティスさんは、口を慎んでください。私としては、特注で短く作られた小剣を使うベアトリスさんに、既製の模擬剣を使わせて挑むガザニア騎士がいるのでしたら、むしろぜひお目にかかりたいものです」
(……あれ?)
腰の剣が特注だと口に出したのは、午前の一件が初めてだ。そもそも、王城の外にいたオリオンが、誰かから聞き知る時間はほとんどなかったはず。ガザニア騎士、もしくは居合わせたエリカ騎士に聞かなければ、きっとわからない事実。
それをなぜ、こうも詳しく知っているのか。
「というか、何でオリオンさんがそこまで知ってるんです? ヴァーノンさんに聞いたわけじゃないですよね?」
あまりに詳しすぎて、ずっと見張られていた気がして。気味が悪い。
「情報源は、ベアトリスさんがよく知っている方、とだけ」
「それってまさか、に……」
言いかけて、あたふたと自分の両手で口をふさぐ。カーティスに知られれば、また「コネ」だの「贔屓」だのとうるさくなりそうで、正直面倒だ。
それからようやく、別の疑問が頭を過ぎる。
「あの人、ちゃんと仕事してるんですか?」
「昨日から、王城の住人になるほど忙殺されているそうです。ベアトリスさんへ、最低でも日に一度は顔を見せに来るように、との伝言は承っていますが」
「あーもう! ちゃんと帰ってって言ったのに!」
あまりに予想どおりで。思わず大声を出した後、ベアトリスはがっくり肩を落とした。
王城にいればいるだけ、次から次へと仕事が来る。そう言ったのは兄自身だ。それでも居残るのだから、忙殺されることも承知の上だろう。
とはいえ、体を壊されてはたまらない。
「後で叱りに行ってきますね……」
「お願いします。ではまず、魔法使いの基礎知識に関することから説明しましょうか」
切り替えの早さに目を見張る。
思い返せば、他の団長たちも、優先すべきことを見誤っていなかった。何気ない雑談からの急な話題の変化に、ついていけないことも何度かある。
それでも、母の話以外では、置き去りで放置されることはなかったように思う。
「魔法使いには、生まれ持った素質が必要です。これがなければ、どれほど練習しようと魔法を使うことはできません。魔法使いであれば、相手に素質があるかどうか、肌で感じることができます」
「ああ、だから、オリオンさんも面接に参加してたんですね」
「念のため、受付にもアマリリスから見習いを派遣しておきましたが、面接で見込みがないとわかった方は、他へ回してもらうことにしました。それから、魔法使いはこういった首飾りを身につけます」
言いながら、オリオンは自身の首にかけた首飾りに触れたようだ。シャラ、と細い鎖が涼しげな音を立てる。
「飾る石は四つ。私はこの組み合わせを選びましたが、ほとんどはカーティスさんのように、アメジストとエメラルドを二つずつで組みます」
「その二つを選ぶってことは、意味があるんですよね?」
「はい。アメジストは知性を高めると言われていますし、エメラルドは他人の魔法から身を守ると信じられています」
相変わらず背中に向かって話しかけているのだが、思いがけず会話は成立している。
首飾りに関しては、カーティスのものを見ればだいたい理解できるので、特に問題はないだろう。
「他にも種類があるんですよね? オリオンさんって確か、紫と緑の他に、赤っぽい石が二つありましたし」
遠目に見たから、赤と断言できるわけではない。もしかしたら透明で、服の赤を通していた可能性もある。
だが、オリオンが息を呑んだ。
「……どこで、見ました?」
「どこって……昨日、試験の受付で並んでる時ですけど」
残念ながら、間近でじっくり見た覚えはない。
そのひと言で疑問が解消したのか。オリオンがホッと息を吐き出したのがわかった。どうやら、あまり触れられたくない話題のようだ。
「機会があったら、他にどんな石があるか教えてくださいね」
「わかりました。ええと、石を身につけるところまで話しましたよね? 素質があり、石を身につけた後、魔法を使うための式と呪文を覚えます。先ほど、カーティスさんが空中に何か書いて言葉を発したでしょう? 書いたものが式、言葉が呪文です。式と呪文は対となっていまして、一致しなければ魔法は発動しません」
話の途中で、オリオンの指が直線をいくつか描く。それが何かの魔法の式だと、すぐに気づいた。
「見てのとおり、式だけでは何も起こりません」
「今のは何の式なんですか?」
「足止めをする魔法の式です。呪文は、まだ式が残っているので言えませんが」
ベアトリスの目には何も見えないのだが、書いた本人であればわかるようだ。オリオンは、線を描いた辺りをジッと見つめている。
「どうせ見せるのでしたら、これではなくて治癒にしておけばよかったですね。訓練の疲れも取れますし」
「ぅえ?」
不意に呟かれた言葉に、ベアトリスが出した声は困惑がそのまま現れていた。生き物がつぶれたような声に、オリオンも首を傾げている。
「私は補助と治癒の複合タイプなのですが……ヴァーノンさんから聞いていませんか?」
「そこまで聞いてないです!」
首を大きく左右に振り回した結果、クラクラする頭で必死に否定した。
確かにヴァーノンは、ケガをしたらオリオンに治してもらう、と言っていた。しかし、そのこととオリオンが複合型であることが、線でつならなかったのだ。
「魔法使いって、人によって得手不得手があるだけで、誰でもいろんなことができるんだって思ってました」
「さすがにそこまで便利ではありませんよ。素質次第では、本当に何でもできる人もいるかもしれませんが、ほとんどはどれか一種類が使えるだけです。現状、アマリリス騎士団でも、私以外に二人、複合タイプがいるだけですから」
「じゃあ、攻撃タイプと治癒タイプの複合っていうのもあるんですか?」
他人に危害を加える傍ら、味方を癒やす。この上なく嫌われそうな魔法使いだ。
そんなことを考えながら聞いてみれば。
「いますよ。ナイジェルさんがそうだったと思います。もう一人は、補助と攻撃の複合ですね」
「やっぱりいるんですね……あれ? ナイジェルさんって、早起きの人ですか?」
今朝メイベルに聞いた人物が、そんな名前だった気がする。
「会いましたか? ベアトリスさんも朝が早いのですね。その時、小さいのに頑張り屋さんと言われませんでしたか?」
ベアトリスは「そのとおりです」と頷いておいた。
他団の団長であるメイベルでさえ、ナイジェルらしいと言った台詞だ。そのナイジェルが所属する騎士団の団長ならば、予想できて当たり前か。
「社交界に出られる年齢以上とわかれば、すぐに態度を改めるはずです。それでも目に余る場合は、その場で思い切り怒鳴りつけてかまいません」
「あ、それで、十七は立派な淑女って言ったんですね」
年齢を言ったとたんに態度を変えた理由が、やっとわかった。彼なりの基準があったのだと理解できれば、その前の扱いも仕方がないと目をつぶることはできる。できるが、度を超えていた場合は、許しはしなかっただろう。
うんうんと頷くベアトリスを睨み、カーティスが顔をしかめた。
「十七? ホントに?」
「見えないってのは、よく言われてましたけど? 違ってても十六か十八です」
それでもなお、カーティスは疑いの眼差しを向けてくる。ベアトリスはベアトリスで、証拠になりそうな何かを家に置いていなかったかと、必死に思い出していた。
「ほぼ確実に、十七歳でしょうね。十六歳や十八歳では、明らかに計算が合いません」
とたんにカーティスは、援護射撃をしたオリオンに矛先を変える。
「さっきから団長は、何を知ってて隠してるんですか? ひょっとして、この小娘の両親がどこの誰か、わかってるんですか?」
「知っていますが、ベアトリスさんにお話していないことを、カーティスさんに話す謂われはありません」
「うっわー、団長ってそんな秘密主義だったんですね。すごく意外ですよ」
軽蔑の目を向けるカーティスに、グサッと刺さる強烈なひと言を言ってやりたい。言ってやりたいが、彼の性格や嗜好を一切知らないから、素敵なひと言が思いつかない。
「必要とあらば、何十年でも黙り続けますよ。もう二十年ほど、同じ出来事に関わった方以外には、何一つ話していないこともありますから」
後ろ姿を見上げるしかないのに、なぜかオリオンが微笑んでいる気がする。それほどに、穏やかで優しい空気が、彼をそっと包んでいた。