二章 2
食後、部屋には戻らず、ベアトリスはヴァーノンの案内で訓練場へ向かっていた。
「この職人棟の隣は鍛冶場でね、個人の癖に合わせて調整もしてくれるよ。で、その向かいが女性騎士用の宿舎。まあ、今はエリカ騎士の候補生ばっかりだけど。あと、職人棟の正面にあるのが、騎士の宿舎でえぁっ!」
妙な語尾とともに、ヴァーノンの姿がフッと消える。
朝の階段で散々慣らされたベアトリスは、まず足下を確かめた。手で支える間もないほど勢いがいいのか、彼は顔面から芝へ突っ込んでいる。
昨日の広間でも、いきなり転んでいたことを思い出す。
(ヴァーノンさんって、何で転んだり落ちたりするのかな?)
やや足が長くやわらかな芝には、砂利さえ落ちていない。かといって、絡まるほど長くない。もちろん、足にを引っかけるものも見当たらない。
ひたすら、鮮やかな緑色が広がっている。
転がっている姿をぼんやり眺めていると、ヴァーノンはすっくと立ち上がった。
「これから行く訓練場は、宿舎に囲まれた場所なんだよ。まあ、実際には、他に場所がなくて女性用宿舎をそこに建てたから、結果として囲まれちゃっただけなんだけどね」
ポンポンと服を叩きながら、何もなかったように説明を続けている。
見える範囲に目立つ傷はない。しかし、あれだけの勢いで転んだからには、きっとどこかしら痛いだろうに。一度も苦痛を訴えないことが、どうにも不思議でならない。
(痛いって、思わないのかな?)
それとも、心の底から痛くないのか。
「結構広い訓練場だし、みんな好き勝手にやっちゃうことがあるけど……今日は指導があるから、ガザニアで使うことになってるんだよ。他の騎士団は、しょうがなく王城の外でやってるんだ。ほら、君が入団試験の受付で並んだ場所」
王城の周囲にある塀と、街を囲む壁の間にある、地面がむき出しになった場所。王城から出たばかりだと、街の音が一切聞こえない程度に距離がある。そこで訓練を行ったり、人や馬車が通ったりしているのだ。
変わりなくのんびりした歩調で、ヴァーノンは歩き続ける。転んだこと自体が、ベアトリスの白昼夢と言わんばかりの態度だ。
実際、朝からことごとく階段を滑り落ちたというのに、擦り傷ひとつない。
「あ、そうそう。エリカ騎士たちはメイベルが連絡して、僕の副官に頼んで集めてもらってあるはずだから、安心してね」
いつもにこやかな笑みを絶やさない人だが、それは本物の笑顔なのか。時々、よくできた仮面に見えてしまう。
まるで兄のように、何もかも先回りして済ませてくれる。それはそれでありがたいのだが、万事この調子ではいけないだろう。いずれ正式に団長と呼ばれる立場になる以上、自分がきちんと賄わなくてはいけないはずだ。ベアトリスはそう考えている。
ベアトリスの渋い表情から、思考をするっと読み取ったのか。
「正式にエリカ騎士団が発足して、君が団長に任命されたら、全部君の両肩に乗ってくるよ。まあ、補助してくれる副官は指名できるけど、いきなりじゃあわかんないよね、きっと。あ、明日の連絡は君がみんなに伝えるよう、メイベルがちゃーんとやり方を教えてくれるからね」
「はい。お手数をおかけします」
数歩どころか、何十歩も先を歩いている彼らに、少しでも追いつきたい。そんな思いから、ベアトリスは深く頭を下げた。
新築ゆえの真っ白な外壁が眩しい女性騎士用宿舎。対して、薄汚れた印象が拭えない宿舎。その間を抜ける。
石を積み上げ、隙間をしっかり埋めた壁。雨風が凌げればいい程度の、薄い赤茶のレンガを敷いた三角形の屋根。窓はあるが、建物や城壁に囲まれたこの場所で、風が中に吹き込んでくれるかはわからない。
環境としては微妙だが、建物は確かに大きかった。
その建物の中に、人が集まっていた。黄色の制服はガザニア騎士で、見習い騎士姿の女性はエリカ騎士となる者だろう。
自分を含め二十人と聞いたエリカ騎士だが、この場にいるのはせいぜい十二、三人だ。
「団長、点呼完了してます」
「はーい。オーソン、ご苦労様。説明はまだだよね?」
頷く騎士は、ベアトリスが今朝遭遇した騎士の片割れだった。
「じゃあ、一気に説明しちゃうよ。質問は後からね。とりあえず黙って聞いてて。まず、数人を除いては、明日はベロニカで長物の、明後日はリナリアでいろいろと、体験してもらうね。その中で、一番続けられそうなとこを選んでくれればいいよ。あ、アマリリスは素質がないと無理だから除外ね。それから、今日ここにいない子は、もう他に割り振られてみっちり叩き込まれてる頃だから」
ここで一旦言葉を切ったヴァーノンは、不意にベアトリスを見つめる。
何となく、激しく嫌な予感がした。
「とりあえず、剣を選ぶならどの程度が実戦レベルかというと……おいで」
名前を呼ばれなくとも、手招きされなくとも。目線だけで、自分に言いたいのだと理解できてしまう。この状況で抵抗する空しさも、よくわかっている。
渋々、ベアトリスは数歩前に出た。
「まあ、彼女はある意味サラブレッドだから、すぐにここまではできないだろうけど。最終目標がこのくらいってことで」
「どういう意味ですか?」
「そのままだよ」
詳細を語ることはしたくないのか。はたまた、今は話せないのか。
ヴァーノンは話を無理矢理切り上げ、彼の部下たちにふいと顔を向ける。
「えーっと、彼女、見た目は小さくてか弱そうだけど、油断しないように。昨日、馬鹿丸出しで最接近してたとはいえ、コーデルが避けるのに精一杯だったからね」
そのひと言で、ガザニア騎士たちがどよめいた。しかし、基準にされたコーデルの強さを知らないエリカ騎士たちやベアトリスは、ただただ首を傾げるばかりだ。
「手合わせの相手は……そうだね、グレアムがいいかな」
一人のガザニア騎士が、スッと一歩前に出る。
癖のない栗色の髪がふわりと揺れた。体格は平均よりやや細身で、恐らく三十歳前後だろう。栗色の瞳にも表情にも、感情が一切見られなかった。隙がまったくうかがえないことも、ひどく怖い。
「ガザニア騎士団所属グレアムだ」
「エリカ騎士団団長予定のベアトリスです」
「予定じゃなくて確定だよ」
反射的に名乗り返した直後、ヴァーノンにサラッと突っ込まれた。
「じゃあ、二人とも武器を手にしてね」
右の壁に向かって歩き出したグレアムは、訓練用に刃を潰した長剣をサッと選んで帰ってくる。ベアトリスは彼にならい、壁際に立てかけられている武器を眺めていく。
ごく一般的な小剣を手にしてみたが、自身の剣より刀身が長く、ずっしりと重い。短剣の類は逆に、軽すぎて扱いにくそうだ。
(訓練用の剣に重りをつける、なんてできないよね……)
仮にできたとして、持ち手にばかり重心があっても意味はない。
小剣と短剣の間を行き来しているベアトリスに、徐々に業を煮やしたのか。ガザニア騎士の一部から「早くしろ」と、遠慮のない野次が飛ぶ。言った騎士を、腕組みしたヴァーノンがきつく睨みつける。
たったそれだけで、ガザニア騎士たちは静かになった。
「昨日はよく見てなかったんだけど、もしかして、腰のやつ、ただの小剣じゃなくて、君専用に作った剣だったりする?」
「あ、はい。兄様が頼んでくれたので。小剣は長いし重いし、短剣は軽くて……」
「やっぱりね」
ぼそっと呟いたヴァーノンは、瞬きながら考え込む。
「本来はルール違反なんだけど」
もったいぶって前置いたヴァーノンの顔は、あからさまに楽しげだった。
「グレアムが納得してくれるなら、彼女は自分の剣で、っていうのはどうかな?」
「それでかまいませんよ」
有利な立場にいる自信があるのか、グレアムは快諾する。それならば、とベアトリスは元いた位置へと素早く戻った。
ベアトリスは剣を抜かず、左手は棒を握っているような形だ。右手は自由にしている風にも、親指と人差し指、中指で何かをつまんでいる風にも見える。
「剣を抜かなくていいの?」
「はい。最初から抜くと、ちょっと勝手がわからなくなるので」
目を閉じてふうっと息を吐いたヴァーノンは、口元にかすかな苦笑を浮かべた。
「グレアム対ベアトリスで、一本勝負。相手の武器を飛ばすか、急所──首か胸に武器を突きつけたら勝負ありがルールだよ。……始め!」
グレアムが動いたとたん、ベアトリスは左手を腰の後ろに当てる。ほぼ同時に、右手がスッと剣へ伸びた。鞘から一気に引き抜かれた剣は、甲高い音と火花を散らしつつ、グレアムの一撃を受けて流す。その間に、交差したベアトリスの左手が、右腰側で奇妙な動きをした。
剣が滑りきる直前、ベアトリスが大きく後ろへ飛ぶ。グレアムは即座に追う。
何度も振り下ろされ、振り払われる剣を、ベアトリスは軽い身のこなしでかわす。もしくは、さらりと受け流し続けた。
「このっ!」
渾身の力を込めてグレアムが振り下ろした剣を、右斜め前に飛んで避ける。グレアムは隙だらけだ。
この好機を逃さず、ベアトリスは剣の切っ先を彼の胸に突きつけた。
「勝負あり」
剣をブンブンと振り回し、ドタバタと追いかけていたグレアムは、やや息が上がっている。だが、ベアトリスの呼吸に乱れはない。
「予想より体力があるし、面白いくらいちょこまか動くね。これは、オーソンを当てても結構面白かったかな?」
ギョッとした表情を見せるオーソンに、ヴァーノンが意地の悪い笑みを見せたのは、ほんの一瞬。すぐにいつもの人懐っこい笑顔を、蒼白のエリカ騎士たちに向ける。
「ここまでになったら、本気でガザニア騎士として迎え入れたいね。もちろん、この子よりもっとずっとできなくても大丈夫。あ、ちなみに、彼女の本業は剣じゃないよ」
最後のひと言で、グレアムに露骨な怒りの色が浮かんだ。それに気づいたヴァーノンだが、あえて触れずに話を続ける。
「接近された時の護身用らしいからね。だから、最初から剣を抜かなかった。僕はきちんと言ったよね? 彼女はか弱そうだけど、油断しないようにって。かく言う僕も、彼女の実力を見誤っていたから、みんなに偉そうなことは言えないんだけどね。まさか、本当にコーデルが全力で避けてギリギリだったなんて、さすがに思わなかったし」
またしてもガザニア騎士たちがどよめいたことで、ふと疑問が湧き出た。
騎士たちの反応を見る限り、コーデルはああ見えて実力者なのだろう。だが、彼の言動を見ただけでは、どうにもそれが信じられない。
「昨日のは、背後からって卑怯だし、団長してるくらいだから死ぬことはないかなって、思いっきりやっちゃったんですけど……コーデルさんって、やっぱり強いんですか?」
「割と強いよ。でも、団長の中では最弱」
「ということは、他の方もあれを避けるんですね」
背中か後頭部に目がついているのでは、と思わせるほど、的確に狙った剣を避ける。それが、団長最弱と評価されるコーデルでさえできるのであれば。
他も当然、できるに決まっている。
「テレンスは、顔を狙えば絶対に避けるね。マジ命懸け。もうあれは一種の曲芸か、芸術か、感嘆の域。でも、一見の価値はあるよ。メイベルと僕は武器で、オリオンは魔法で防ぐかな」
ヴァーノンの視線は、感心して聞いているベアトリスからエリカ騎士たちへと、さりげなく移動した。
「まあ、この子並に強くなるのは、相応の時間を注ぎ込んだとしてもかなり難しいから。当面は、自分の得意なものを見つけて伸ばすことに重点を置いてね」
「はい!」
エリカ騎士たちの素直な返事を耳に入れ、ヴァーノンは部下たちに命令を下す。
「じゃあ、昨日話したとおりにね。何かあったらすぐ報告。以上」
二、三人のガザニア騎士が、一人のエリカ騎士について指導を始める。彼女たちの大半は、刃を潰した訓練用の小剣だ。その中で、真剣で指導を受けている数人は、使用武器がすでに剣と決まっているのだろう。
その様子を横目で見ながら、ヴァーノンはベアトリスをちょいちょいと可愛く手招きしながら呼ぶ。そこに、オーソンがやって来た。
「この子はオーソンに任せるよ。本気で剣だけでもやっていけるくらい、徹底的に鍛えてあげてね」
「了解しました。俺はガザニア騎士団長の副官でオーソンだ。よろしく、ベアトリス」
後半はベアトリスをしっかり見つめ、スッと真っ直ぐ手を差し出す。おずおずとその手を握ったベアトリスは、まめができた硬い手のひらに驚いて、反射的に手を引っ込めた。
顔見知りの騎士たちと、別れ際に握手を交わしたことはある。だが、オーソンほど努力がうかがえる手と、これまで触れ合ったことはない。
三十歳前後で副官というのも納得だ。
「よろしくお願いします!」
元気よく、ぴょこんと頭を下げる。顔を上げると、なぜか怪訝な表情のオーソンがいた。
「ベアトリスの剣は、いわゆる特注だろ? 鞘は小剣のままだし、長さ以外にいじってなさそうだ。接近された時専用らしいが、短剣じゃちょっと役不足だったか?」
「短剣は、腰の後ろに鞘があるじゃないですか。兄様にも勧められたんですけど、あたしじゃうまく扱えなくて。だから、少しでも軽い方がいいだろうって兄様が、この剣を知り合いの方に頼んでくださったんです」
「鞘は小剣のままってことは、短剣が不便ってのは本業絡みだな」
探るようなオーソンの視線から、ベアトリスは不自然に顔を逸らす。
弓を母に教わったと言っただけで、オリオンは母の名前を引き出した。それほどに、弓を扱える女性が希有な存在なのだろう。見たところ、オリオンより年上だろうオーソンもまた、あっさり察してしまう可能性が高い。
自分の知らない母を知っている。わかっている人には『二番街の弓姫』で話が通じてしまう。
彼らだけが理解して勝手に盛り上がるのはかまわない。でも、同じ空間にいるのに置き去りにされるのが、たまらなく嫌だ。
ふとした拍子に思い出したのか、兄がぽつりと語った昔話のように。記憶にある以上は何も知らない母の話を、ただただ聞かせて欲しい。
「この子にはこの子の事情があるから。オーソンも、他人に知られたくないことくらいあるでしょ? だからあんまり突っ込まないように。話してもいいと思ったら、彼女から話してくれるよ……多分ね」
「わかりました。じゃあ、始めるか。まずは剣を抜いてみろ」
ヴァーノンに対する改まった態度から、サッと切り替えて彼自身の剣を抜く。ごくありふれた長剣だ。
手入れの行き届いた、オーソンの剣をジッと見つめる。それからゆっくりと、ベアトリスも剣を抜いた。
「やっぱり短いな。だが、ベアトリスは小さいし、体格を考えたら絶妙なバランスか」
「ですよね。あたしが一緒に行かないのに、作り直すたびにいつもいつもピッタリって、ちょっとすごいなって思ったんですけど」
その瞬間、オーソンが露骨に、ググッと眉根を寄せた。兄妹事情をわかっているヴァーノンが噴き出し、オーソンは冷ややかな視線を彼に向ける。
「団長、後でお話が。時間がもったいないからやるぞ!」
「は、はい!」
「まずは素振り百回!」
「はい!」
昼食の時間を知らせる、六時課の鐘が鳴るまで。ベアトリスはオーソンの指導の下、ひたすら素振りを続けていた。




