二章 1
東の空が、うっすら明るくなり始めた頃。
いつもの習慣で目が覚めたベアトリスは、軽く伸びをして起き上がる。静かにクローゼットから取り出した、見習い騎士の制服に恐る恐る袖を通した。
「うー、おっきいなぁ……」
子供が騎士に憧れて、頼み込んで無理矢理着させてもらったような。目に入る自分の姿が、ひどく不格好に映る。
袖は指先から十センチははみ出して、だらしなく垂れ下がっている。上着の裾は、かろうじて膝より上だ。ズボンの腰回りも裾も、かなり余っている。このまま歩いたら、裾を踏んで転ぶこと請け合いだ。
仕方なく、一旦脱いで袖を目測で折り曲げ、ボタンは下の二つを外したままにした。ズボンの腰は、ベルトでギュッとしっかり固定。ズボンの裾は二回折り曲げ、軍靴に強引に押し込む。
最後に剣帯を着け、愛用の剣を下げる。弓と矢筒は、チェストの上に置いたままだ。
腕を大きく振り回す。軸足を変えつつ、軽く回し蹴りもしてみる。全体的に余裕があって、動きを意味もなく阻害することはなさそうだった。
「これなら大丈夫かな?」
独りごちると、ベアトリスは鍵を握り締めて、そっと部屋を抜け出す。なるべく音を立てないように、慎重に鍵を閉めた。
落とさないよう、制服のポケットに鍵を滑り込ませる。
(後で、鍵は紐に通そうっと)
足音を殺して、静かに静かに。階段を下りたベアトリスは、建物を回って王城を取り囲む塀のそばに立つ。
昨日はゆっくり見ている暇がなかった。ここがどれだけ広いか、何がどこにあるのか、何一つわからない。
身を隠せて、しかも狙撃に適した場所があるのかどうか。それが何より知りたかった。
塀に沿って、キョロキョロ見回しながら歩く。
外部からの侵入を警戒しているのか、塀のそばに隠れられそうな植え込みはない。木々も適度に枝を落とされていて、こっそり潜むことはできそうになかった。
(王城だし、やっぱりちゃんとしてるなぁ……)
これでは、城内に隠れて窓から狙撃するしかない。しかしそれでは、狙える範囲が明らかに限られてしまう。第一、万一死角に逃げられたら、追うこともままならない。
不意を衝くから、精神的にも大きな打撃を与えられるのだ。相手に気づかれていないから、ゆっくり狙いを定めて射ることができる。
自身の安全が確保されなければ、逆に格好の獲物として標的にされてしまうだろう。
「……隠れて、が無理なら……」
「おう、ずいぶんと朝の早い嬢ちゃんだな」
「──っ!」
突然かけられた声に、考え込んでいたベアトリスの喉から、音にならない悲鳴が漏れた。
「君はエリカ騎士の一員だろ? こんなに早起きしてるのなんて、他の騎士団でもごくごく少数派だぞ」
今度は別の声だ。
恐る恐る振り返ると、黄と赤の制服を着た男性が二人立っていた。帯剣した黄色い服の男は、見たところ三十そこそこか。とび色の瞳に好奇心をたっぷりとあふれさせ、服越しでも筋肉質であることが十分見て取れた。
赤い服の男はひょろりとした印象で、三十を超えているようだ。ベアトリスが片手で包んで隠せそうな大きさの、透明な紫色と濁った緑色の宝石。それらを交互に、二つずつ並べた首飾りを身につけている。
敵ではなさそうだ。しかし、味方とも言い切れない。
迂闊なことを口走らないよう、しっかり考えてから話をしなければ。
「あ、はい。早起きというか、いつも家のことをやっていたので、この時間に起きるのはもう習慣ですね」
「そっかそっか、ずいぶんちっこいのに頑張り屋なんだな」
背が低いことも、体つきが幼いことも、年相応に見えないことも。今までの経験で、嫌と言うほどわかっている。その上、数回折り返した袖と、大きくずれた肩の位置をかんがみれば無理もない。
「一応十七になってるので、子供扱いはしないでくださいね」
他団の騎士にこんな口を利いて、あとでこってり怒られるかもしれない。そのことに思い至り、言葉が音になった後で慌ててしまった。
「そっかそっか、十七なら立派な淑女だ。失礼した」
アマリリス騎士が騎士の礼を取る。
「見たところ、君は剣を扱うようだが」
今度はガザニア騎士が尋ねてきたので、ベアトリスは頷く。
「今日の午前は、ガザニア騎士の方に剣を教えていただくことになっています」
「そうか。楽しみにしてる」
ヴァーノンを思い出させる人懐こい笑みに、ついつい笑顔を返してしまう。
(ひょっとして、ガザニア騎士の方ってこんな方ばっかり?)
後ほど、と言い残して、彼らは去っていく。見送りながら、ベアトリスは、つかみどころのないヴァーノンを思い出していた。
地形や建物の配置など、散歩しつつ一通り確かめた後。部屋に戻ろうと階段を上っていたベアトリスの耳に、知っている声が届いた。
「朝でしてよ。もうすぐ朝食の時間ですわ」
バンバンと、ドアを叩く音もする。
「メイベルさん? おはようございます」
階段を上りきったところで声をかけたベアトリスを、メイベルは上から下までじっくりと眺めた。念には念を入れるように、二度も。それから、ふうっと小さく息を吐いて、白くほっそりした指先で額を押さえる。
「マラキアに、あなたの分は特に早く作るよう伝えておきますわ。本当に騎士見習いと間違われては、さすがに困りますもの」
百歩譲って、エリカ騎士と思ってもらえても、その団長には見えない自信はあった。
「そうですね。さっき会った人たちはエリカ騎士と思ってくれましたけど、そうとは限りませんよね」
「エリカ騎士には違いないですけれど、あなたは団長。ただの一兵卒ではなくてよ。もう、他の騎士と顔を合わせましたの? そうね……こんな時間に複数で外にいる騎士は、アマリリスのナイジェルとガザニアのオーソンでしょうね。毎日同じ時間に起きて、宿舎を出る前に顔を合わせるそうよ」
「早起きは習慣だって言ったら、ちっこいのに頑張り屋だって言われちゃいました」
「ナイジェルが言いそうなことね」
ふん、と鼻で笑ったメイベルは、ふと思いついた顔から真顔になる。
「もし、他の騎士団員に失礼なことを言われたりされたりした時には、遠慮なく言いなさい。ああ、コキア騎士とベロニカ騎士の時はわたくしかヴァーノンでかまわないわ。伝えておきますから。何より、あなたがエリカ騎士の団長となることは、すでに決定事項ですの。後ろ盾もしっかりしているのだし、どんな時も毅然とした態度をお取りなさい」
「わかりました。でも、まずは自分で解決を試みてもいいですよね?」
「かまいませんけれど……失敗したと思った時には意地を張らずに、大きくこじれる前に周りに頼りなさい」
「はい」
表情も目つきも、見るからに穏やかではない。そんなメイベルに、ベアトリスは素直な返事をした。
何もかもを、すべて自力で解決できるとは思っていない。これまでにも、無理だとわかった時点で、他人に間を取り持ってもらうようにしてきた。
それでも、自分の言葉で、自身の気持ちを理解してもらいたい。そのための努力は、ひとつも惜しみたくはなかった。
「では、食堂へ向かいましょう」
「あれ? 他の方はいいんですか?」
残る四つの部屋は静まり返っていて、在室なのかどうかさえうかがい知れない。
もし起きていないのなら、起こした方がいいのでは。
そう書かれているベアトリスの顔を、まじまじと見つめた後。メイベルは奥の壁へ視線を投げかけた。
「あなたを食堂へ案内してから、ゆっくり起こして回りますわ」
「だったら、今起こしちゃいましょうよ。何度も行き来するのって手間ですし」
「……そうしましょうか」
呟いたメイベルが、朝から華やぐ美貌をグッと近づける。あまりの迫力と、ふわりと漂うバラの香りに、ベアトリスは思わず左足を半分下げた。
「ただし、あなたはオリオンとヴァーノンに、部屋の外から声をかけなさい。反応がなければ、後でわたくしが叩き起こします」
「は、はい!」
敬礼しながら答え、ベアトリスはまずオリオンの部屋に向かう。
「オリオンさん、朝ですよ」
遠慮がちにドアを叩いてから声をかける。それを二度行ってから、同じことをヴァーノンの部屋でも実行した。
(これで起きてくれるかな? それとも、もっと大きな声で、ドアもしっかり叩いた方がいいのかも?)
どうするべきか悩んだ結果。メイベルに聞いてみようとしたベアトリスの耳を、すさまじい轟音がつんざいた。
驚いてそちらを見たベアトリスは、耳を疑う言葉に目を丸くする。
「コーデル、さっさと起きなさい。それとも、またわたくしに添い寝で優しーく起こして欲しいのかしら?」
ごく普通にドア越しに話す、静かな声音だ。相変わらず、濃厚な色香もポロポロとこぼれ落ちている。しかし、内容とはかけ離れた冷たさがあった。
メイベルの右の軍靴の底は、ドアのほぼ中央ににべったり張りついている。
彼女のところへ行くべきか、それともここで待つべきか。
ベアトリスが迷ってオロオロしている間に、すぐそばでドアノブが動く音がした。ドアからヒョイと、ヴァーノンが顔を出す。
「まーたやってるの? もう、毎朝問答無用の添い寝で、やさーしく起こしてやったらいいと思うよ? いい加減嫌になったら、コーデルが自力で頑張るでしょ」
「メイベルさんの添い寝で起きられるのですから、コーデルさんも本望でしょう。私も、ヴァーノンさんの意見に賛同しておきます」
ドア越しだからか、オリオンの声は遠くて少しくぐもっている。
二人の呆れ果てた声に頷きかけたベアトリスは、不意にコーデルがどんな男であるかを思い出した。
いくら肉弾戦が得意とはいえ、やはり女性だ。間違いがあったらどうするのか。
「で、でも、メイベルさんが危ないんじゃないですか?」
あたふたしているベアトリスを尻目に、夜着姿のヴァーノンが欠伸をかみ殺す。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。コーデルは、メイベルにだけは、多分絶対おかしな真似はしないから」
「昔のことで懲りているでしょうから、今さらメイベルさんに何かしないと思いますよ」
「え? だけど、間違いがないとは……」
「ない、マジありえない。あれはトラウマレベルのはずだからね、やれたら逆に褒めてやらないと」
のんきで、ホッと癒やされる微笑みのヴァーノンの口から、次々に飛び出てくる言葉。それらの意味をゆっくりしっかりかみ砕き、ベアトリスは拳で額をギュッと押さえた。
もしかしたら、メイベルはコーデルより強いのかもしれない。けれど、必ず勝てる保証などどこにもないはずだ。
何かあってからでは遅いのに。
(コーデルさんらしい行動をしたら褒めるだなんて!)
沸々と、抑えきれない憤りが込み上げてきた。
「じゃあ、僕はちょっと着替えてくるから。そしたら、オリオンと一緒に食堂に行こっか。オリオンも急いで着替えてね」
「わかりました」
パタンとドアは閉まり、近かった気配は遠ざかる。
メイベルは取り立てて苛立った様子もなく、今度はテレンスに声をかけているようだ。
「テレンス、鏡があなたのことを夜通し待っていてよ。これ以上待たせるのは、さすがに酷でしょうに」
(えぇー、そんな起こし方でいいの?)
軍靴から推測して、ドアを思い切り蹴り飛ばしただろう後の添い寝宣言とは、あまりに違いすぎる。
テレンス相手は、断然優しい。
「ああ、ありがとう、メイベル。んー、待たせてゴメンよ、この僕を美しく映し出してくれる、素敵な鏡さん」
呆然と突っ立っていたベアトリスは、ほんのり漏れ聞こえた声に肩を落とした。ヨロヨロと壁に手をつく。
崩れそうになった膝はかろうじて堪えたが、どうしようもない脱力感は隠せない。
「まったく、コーデルもこのくらいすんなり起きて欲しいものですわ」
腕を組んだメイベルは、再び「添い寝」発言を繰り返す。しかし、コーデルは起きてくる気配さえ感じられなかった。
「ベアトリス。申し訳ないのですけれど、ヴァーノンたちと先に食堂へ行ってくださいませ。わたくしはコーデルを叩き起こしますから、ご一緒できなくなってしまいましたの」
ズボンのポケットから出てきた鍵は、短い青い紐が通されている。同じところから、紫色の紐がチラッと顔を覗かせていた。
「え、でも、大丈夫なんですか?」
ギュッと眉根を寄せ、軽く首を右に傾けている。そんなベアトリスに、メイベルは艶やかな微笑みを向けた。
「わたくしは心配無用ですから、安心なさって。わたくし相手にコーデルがやる気になったら、全力で褒めて差し上げますわ。むしろあなたに何かしでかされる方が、こちらとしては寿命が一気に何十年分も縮みますの」
「あ……」
怒髪天を衝いた兄は、容易く想像できた。とっさにメイベルを見上げる。
自信と色気に満ちあふれた、メイベルの華やかな笑顔。本人だけでなく、ヴァーノンやオリオンも「大丈夫」と太鼓判を押したこと。
きっと、メイベルだけが知っている、無事でいられる方法があるのだろう。
「わかりました!」
ビシッと敬礼を決める。
残していくのは幾ばくか不安だ。けれど、ここにいることで、かえって邪魔になるかもしれない。それよりは、彼女の望むとおりに行動しよう。
心を決めたベアトリスは、それきりコーデルの件には触れなかった。黙って大人しく、ヴァーノンとオリオンの支度が整うのを待つ。
「ゴメンね、待った?」
「お待たせしました」
ヴァーノンが部屋から出てすぐに、オリオンも出てきた。が、相変わらずの背中だ。
人見知りをしたことがない。そのため、他人に顔を見せることさえ怖がる、彼の人見知りは理解できない。だが、無理に見ようとは思わなかった。
(今のところ、顔さえ見なければ話はできるみたいだし)
近づいただけで逃げられて、会話も成立しないよりは、よっぽどいい。
「じゃ、ついてきてね」
歩き出したヴァーノンは、ベアトリスに歩調を合わせているのか。かなりゆっくりだ。散歩の感覚で、余裕を持ってついていける。
「ついでだから、ここの説明もしちゃおうか。最上階はここ五階で、見てのとおり僕らの部屋しかなくって。四階は、職人たちが泊まり込む時の仮眠部屋になってる。今だと、針子関係の子が寝泊まりしてるかな? 騎士見習いやら、従騎士やら、新騎士やらで、てんやわんやらしいからね。三階は湯殿と倉庫で、型落ちの服とか、分解したら使えそうなものが放り込んであるよ。二階は行ったと思うけど、針子関係。服作りだけじゃなくて、布やレースなんかも全部用意できる、敵に回せない集団だね。で、今から行くのは一階。厨房と職人用の食堂とうぁっ!」
落下防止の手すりがついた階段の、上から踊り場まで、およそ十数段だろうか。それを半分ほど下りた辺りで、ズザザザー、と何かが滑り落ちていく音がした。同時に、前を歩いていたヴァーノンが、忽然と視界からかき消える。
「え? な、何?」
ヴァーノンはどこに行ったのか。
キョロキョロと見回していたベアトリスが、ふと階段下に目をやった。踊り場には、服を両手でパタパタと叩いているヴァーノンがいる。
「それから、団長用の食堂があるよ。他の騎士は、宿舎の一階にある食堂で順番に食べるから」
多分、状況から推測するに、彼は階段を踏み外して落ちたのだろう。そのわりに、痛がっている様子がない。
それどころか、平然と話を続けている彼が不思議でならなかった。
「ベアトリスさん」
後ろから呼びかけられて、パッと振り向く。階段の途中なのに、彼は相変わらず背中だ。
「これから一階まで、全階でヴァーノンさんは半分を滑り落ちます。昔からですし、どういう落ち方をしているかは知りませんが、ケガをすることもまずあり得ないので、気にせず下りてください。上る時は踏み外して数段落ちてくることもよくありますから、ヴァーノンさんの後ろにはいないようにしてください」
「上る時はわかりましたけど、もしケガをしてたらどうするんですか?」
おかしな落ち方をして、激しく頭をぶつけるかもしれない。腕や足を、手すりに思い切り激突させてしまうかも。勢い余って、踊り場の壁に全身でぶつかる可能性だってある。
滅多にないのかもしれないが、ゼロではないはずだ。
「ヴァーノンさんが「痛い」と口にした時だけ、私を呼んでください」
「いくら僕でも、ケガをしたら痛いからちゃんと言うよ。オリオンは補助が得意だけど、治癒もできるから」
「補助? 治癒?」
聞き慣れない単語にこてんと首を傾げたベアトリスを見て、二人も首をひねる。
「あれ? もしかして、魔法使いには詳しくない?」
ひらめいた顔で問いかけるヴァーノンに、ベアトリスはコクッと頷く。
魔法使いの騎士団があることは知っていても、四番街では詳細を噂話で聞くことさえない。
騎士は、おとぎ話より遠い世界の住人だった。
「じゃあ、午後の講義でオリオンに聞くといいよ。魔法使いにもいろいろあるし、正確に教えないとマズいだろうからね。というわけで、やっぱ今日の担当はオリオンだって」
有無を言わさない、にこやかな笑顔のヴァーノンに、ベアトリスはもう一度頷いた。
一階の階段脇の大部屋は職人用の食堂で、華やかで賑やかな声が漏れている。廊下を挟んだ向かい側は厨房だ。食堂は団長用の個室二部屋分、厨房は三つ分と同程度の広さがあるらしい。職人用食堂のさらに奥に、団長用個室と同じ大きさの食堂があった。
六人でテーブルを囲んでも、十二分に余裕がある。そろいの椅子が、出入り口側と反対側に三つずつ並ぶ。テーブルの上には、すでに料理が並べられていた。スープもメインも湯気が立っており、大きなカゴには数種類のパンが積まれている。
騎士団長の食事だからか。ベアトリスが兄と食べる自宅の食卓より、品数も量も多い。
(兄様が、テーブルマナーを教えてくれててよかったぁ……)
隣のメイベルと向かいのヴァーノンの、粗を探す視線。そんなものにさらされた豪華な食事は、味がまったくわからなかった。