二章 2
昨日は結局、彼と会えなかった。今夜は夜回り番があるから、確実に会える。だが、その前に、一度くらいは顔を見たい。
ベアトリスはそう思うのだが、そういう時に限ってうまくいかないようだ。
朝食の時間は、オリオンがモデスティー伯に呼び出されて不在。午前の訓練は別々の場所で、午後の現在、ベアトリスはマラキアによる採寸が終わったところだった。
オリオンの今の居場所は、まったくわからない。
(……会いたいと思うと、会えないなんて……)
服を着ているベアトリスの口から、はぁ、とため息がこぼれ落ちる。それを、マラキアは目ざとく見とがめた。
「ため息が出るくらい、大変なことがあったの?」
ハッとして、ベアトリスは表情を引き締める。
自分の部屋に一人きりでない限り、この身はエリカ騎士団の団長だ。らしくない姿を、不用意に人目にさらすことは避けなければ。
「ふふっ、今は私しかいないから、そのままでいいけど? 自称十七の図太いメイベルと違って、あなたは本当に十七歳の女の子だもの。いつも気を張っていると、そのうち疲れて倒れちゃうわ」
「い、いえ、ここには団長として来ているので」
「いいからまずは、肩の力を抜きなさい。今のあなたに必要なものは、たっぷりの休息と、思いっきり甘えて落ち着ける時間。それから、何が起きてもへこたれない、強い心よ」
まだ上着をきっちり止めていないベアトリスの両肩を、マラキアがグッと押さえつける。そうしてやや強引に、手近な椅子へ座らせた。
甘えてはいけない。
頭ではわかっていても、ニッコリ微笑んでいるマラキアに、なぜか抵抗できなかった。
椅子に座り込んだベアトリスは、ぼんやりと、マラキアを見上げる。
「……ずいぶん昔のことだけど、メイベルは私の味方をしてくれたわ。だから私は、メイベルの味方を助けたいの。ただ、そんな態度を出すと、メイベルは気にするでしょ? だから、普段はあれでいいのよ」
確かに、メイベルは素直ではない。育った環境もあるのだろうが、感謝や好意を真っ直ぐ向けられることに、まったく慣れていないようだ。むしろ、他人の好感を、あえて遠ざけようとする節すら見られる。
晴れやかに笑うマラキアは、そんなメイベルをしっかりと理解しているらしい。
「メイベルは早く大人にならなきゃいけなかったから、自分の感情を隠すことが上手なの。今の団長たちは理解があるし、リナリア騎士たちもわかってくれているみたいだから、昔みたいにおかしな笑い方もしていない。一番問題児だったアマリリスの団長も落ち着いたようだし、どの団長たちも、やっと安心して見ていられるようになったわ」
すうっと目を細め、口角をわずかに持ち上げて、マラキアは微笑んでいる。その表情からは、深い母性を感じられた。
とはいえ、マラキアは、見たところ三十前後の女性だ。オリオンとそう変わらないか、せいぜい少し年上といった年齢だろう。
(母様みたい、って思ったら、やっぱり失礼よね)
「……あ、私のこと、お母さんみたいって思ったでしょ?」
「え、えっと……その、すみません!」
座ったまま、ベアトリスはペコリと頭を下げる。だが、マラキアは、ひどく楽しそうにケラケラと笑うだけだ。
「そうねぇ……あなたくらいの子供がいてもおかしくない年齢だもの。そう思うのはしょうがないわ」
「え……?」
ベアトリス自身の母親に当てはめたとしても、三十半ばだ。おかしくない年齢ならば、さらに上、という可能性もある。
とてもそんな年齢には見えない。
「言っておくけど、いてもおかしくないのはあなたの年齢くらいまでよ。コキアの団長にしたって、私の子供というには無理があるし。アマリリスの団長なら、ちょっと年の離れた弟といった感じね」
サラリと続けたマラキアを、ベアトリスはぽかんと口を開けたまま、ジッと見つめる。
「……あたし、マラキアさんは、オリオンさんと変わらないくらいだと思ってました」
「ああ、若作りだってよく言われるわ。主にメイベルからね」
常に、永遠の十七歳だと言い放つメイベルに、マラキアを若作りと呼ぶ資格があるのか。
そこが引っかかったものの、突っ込めば容赦なく返されるとわかっている。だからベアトリスは、今ここでマラキアに聞くことも、後でメイベルに問うこともしないと、こっそり決めた。
「騎士になる貴族子息っていうのはね、家では邪魔者扱いされていた場合が多いの。家を継ぐのは長男。手助けするにしても、せいぜい次男まで。三男以下は、自力で食い扶持を確保する必要が出てくるわ。王都の王国騎士団と、東西南北の各地方に置かれた騎士団があるでしょ? 騎士っていうのはね、国のため、って大義名分を掲げてはいるけど、実際にはあぶれた貴族子息やその縁者の受け皿なの」
聞いて初めて、オリオンやメイベルがどうして騎士になったのか。その理由が、うっすらとわかった気がした。
恐らく、ヴァーノンやテレンス、コーデルも似たようなものなのだろう。
「受け皿じゃない初めての騎士団が、エリカ騎士団よ。そりゃあ、他の騎士からしたら面白くないでしょうね。基本的に貴族じゃない上に、国から騎士になって欲しいと、強く望まれているんだもの」
「で、でも、そんな話……あたしは、初めて聞きました」
誰も彼も、マラキアが言うような素振りを見せたことはなかった。当然、妬みや羨望といった類いの感情を、向けられた覚えもない。
言い方は悪いが、あのコーデルですら、騎士として振る舞う時は間違いなく騎士だ。テレンスも、必要とあれば、きちんと人の話を聞ける。
もちろん、他団の騎士たちの中で、『騎士』の範疇から逸脱した者を見たことがない。
それぞれの家がどうであれ、彼ら自身はまぎれもない『騎士』だ。
「だって、そんなこと、口が裂けても言えないでしょ? 誰にだって自尊心はあるの。まして、庶民が主体のエリカ騎士にはね」
少しトゲのある言い草が、ふと引っかかった。
先ほどマラキアは、メイベルの味方だと言っていた。だが、聞かされる言葉は、まるでメイベルたちを敵に回せと言っているようで。
誰かにそんな揚げ足を取られてもおかしくない、妙な悪意を感じる言い方ばかりだ。
だからベアトリスは、マラキアの言葉に頷くことも、明確な否定を示すこともしない。ただ黙って、曖昧な態度を貫き続けた。
自室へ向かいながら、ベアトリスは深く考え込んでいる。
マラキアの言ったことは、恐らく正しい話も混ざっているのだろう。だが、あからさまな嘘も入っていた。
どれが真実で、何が虚偽なのか。
そもそも、彼女は本当に味方なのか。
思い返してみても、ベアトリスにはさっぱり判別がつかない。
(……こういう時は、一人で抱え込んじゃダメなんだよね)
ここで真っ先に伝えるべきは誰だろうか。
考えなくとも、マラキアの言葉の真偽を問うなら、メイベルしかいない。
部屋に戻っているだろうかと、それは心配していた。
メイベルの部屋のドアを叩くと、すぐに返事があった。顔を出したメイベルは、不思議そうに首を傾げている。
「珍しいですわね、どうかしましたの?」
「あの、メイベルさんに聞きたいことがあるんですけど……」
マラキアの名を出そうとしたベアトリスを、止めるためだろう。メイベルはピンと伸ばした人差し指で、ベアトリスの唇にスッと触れた。突然のことに驚いたベアトリスは、思わず息を呑んでピタッと動きを止める。
「申し訳ありませんけれど、その話は、今この場ではできませんの。すぐに知りたければ、オーソンかあなたの父君にお聞きなさい。夜まで待てるのでしたら、オリオンでもかまわなくてよ」
「……メイベルさんは、ダメなんですか?」
「今、この場では無理ですわ」
誰に聞くとしても、メイベルからここで聞くより、ずっと時間がかかってしまう。
そんなベアトリスの不満が、はっきり顔に出ていたのだろう。メイベルは、少しだけ微笑ましげに、呆れた苦笑いを浮かべた。
「あまり他人には聞かれたくない話ですの。かといって、わたくしの部屋にあなたを連れ込むわけにはいかないでしょう? 運の悪いことに、オリオンはまだ戻っていませんもの」
「じゃあ、あたしの部屋で……」
「それこそ、冗談では済まされなくてよ」
ピシャリと言い切られ、ベアトリスは瞠目したまま、メイベルをジッと見上げる。メイベルから返される視線は、凍えそうなほどに冷たい。
これまでは、ここまできつい言い方はされなかった。いきなり、何が変わったというのか。
それが一向に理解できず、ベアトリスはただひたすら戸惑うばかりだ。
「わたくし相手ですから、友人という言い訳はまあ、成り立つでしょう。ですが、あなたはすでに、婚約者を持つ身でしょう? おいそれと異性の部屋に赴いたり、逆に訪問を受け入れたりといった、軽はずみな行為は慎みなさいね? たとえ何もなくとも、人の悪意というものは、容赦なく邪推してくるものでしてよ。そしてそれは、あなただけでなく、あなたの周囲の人間も傷つけてしまうわ」
「あ……」
血筋は貴族であっても、育ちは違う。貴族らしく育てられなかったから、何も知らなかった。
そんな言い訳が通用するのは、別の世界で生きている間だけだ。関わって生きていくと決めた以上、規律に従うのは当然の話であって、考えるまでもない。
ベアトリスにはまったくなじみのない規律だからこそ、きちんと覚えて守らなければいけないのだ。
「理解できましたら、オーソンか父君のところへお行きなさい。ね?」
こくりと頷いて、ベアトリスは階段を下りる。向かった先は、オーソンのいる騎士宿舎だ。
ツカツカと正面から中へ入り、オーソンの部屋を目指す。相変わらず、だらしない恰好でダラダラしている騎士が何人かいたが、ベアトリスは目もくれない。逆に、騎士たちが慌てふためく有様だった。
「オーソンさん、ちょっといいですか?」
ドアを叩いてそう呼びかけると、ひどく焦った様子で、椅子を蹴飛ばす音がした。さらに、何かをどこかにぶつけたような、痛そうな音も聞こえる。
「ベアトリス、どうした!」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど……あれ? ウルスラさんもいるんですね」
「私は私で、気になったことがあったので、オーソン様に確認を取りに来たところなんですよ。今日は真面目に中から訪問したんですけど、これならいつもどおりの方がよかったですか? ねぇ、オーソン様?」
意地の悪い微笑を浮かべて、ウルスラはオーソンにじっとりと問いかける。対するオーソンは、大げさな素振りでため息をひとつ、ふうっと吐き出しただけだ。
「お前だったら、どっちから来ても一緒だろうが」
「まあ、オーソン様と私じゃ、できてるとは思われませんからねぇ。こうして部屋に入っていても、誰も聞き耳を立ててないですもん」
「……あのなぁ、できてるってのは、嫁入り前の娘が使う言葉じゃないだろうに」
「他にいい言葉があります? もしあったら、ちゃんとそっちを使いますよ」
カラカラと笑うウルスラに、オーソンは呆れ果てた顔で肩をすくめる。それから手招きして、ウルスラ共々、部屋から出てきた。
「どうせ、ベアトリスの聞きたいことも、こいつと似たようなもんだろう? 報告ついでに、モデスティー伯のとこにでも行くか」
「え……?」
あっけらかんとしたオーソンの物言いに、ベアトリスは怪訝な顔で首を傾げる。このところ、執務室でひたすら仕事を手伝わされているウルスラも、ことさらに渋い顔だ。
「私、ついさっき、伯の執務室を出たんですけどね……」
スッと目をすがめて、ウルスラはオーソンに向かってボソリと呟く。
どうやらウルスラは、先ほどようやく解放されたところだったらしい。その足でここへ来て、すぐさま逆戻りとなれば、確かにいい気分はしないだろう。
「ここで話してもいいんだが、あっちの方が静かだからな」
「……ああ、なるほど。そういうことですか」
今度はウルスラが大きなため息を吐き出した。
状況が理解できず、ひどく戸惑っているベアトリスの手を、ウルスラがサッと握る。力は加減してくれているので、痛くはない。だが、すんなり振りほどくことはできそうにない、絶妙な力加減だ。
「じゃあ、行きましょうか。あ、オーソン様は後からでもいいですよ?」
「……お前、すっかりベアトリスが気に入ってるな?」
「そりゃあそうですよ。言動がホートン候そっくりで、わかりやすいですからね。でも、断然、団長の方が可愛いんですよ! こう、無駄に年を重ねた小憎たらしいところがない分、本当に可愛らしくて最高です!」
ウルスラが力説している内容を、うっかり理解してしまったからか。じわじわと、ベアトリスの頬がうっすら赤く染まっていく。同時に、顔が少しずつ下を向いてしまう。
「今言ったことを、そっくりそのまま、父上に報告してやろうか」
「ホートン候はすでにご存じですから、いくらでもどうぞ。というか、むしろ、私の意見に全力で同意してくださいましたけど?」
祖父としては、まだ一度しか会っていない。それでも、ホートン候は、惜しみなく愛情を示してくれたのだ。
その祖父が、今、目の前でとんでもないことを言い放ったウルスラに同意した、ということは。
ベアトリスは、とてもではないが、冷静でいられない。
(おじい様って、性格は母様寄りの方だったんだ……)
呆然とそんなことを考えるベアトリス自身が、元々そちら寄りだ。
無邪気でいられない環境に移ってから、我慢が苦痛ではなくなっている。それからずっと、一部の例外を除き、無条件に甘えることはしなくなっていた。
今でも、ベアトリスが甘えようと思う相手は、父親とオリオンだけだろう。その他は、信頼はしていても、甘えたい人間ではないのだ。




