三章 3
夜回りの際にオリオンから言われたとおり、ベアトリスは朝食時の話題に母の話を持ち出した。それらは幼い頃の毎日だったため、ベアトリス自身はたいしたことではないと思っていたのだが。
「あぁ、まさに二番街の弓姫だね」
よほど感心したのか。普段はどんな会話にも無関心なテレンスにまで、そんな感想を呟かれてしまう。
おかげで、かえって呆然とさせられた。
(あたしが生まれる前からずっと、母様ってあの調子だったんだ……)
子供と二人きりだから、わざと子供っぽく振る舞っているのだと思っていた。まさか、あれが素だったとは。
「ああ、そうですわ。今日の午後は、少し趣向を凝らした遊びをしようと思っていますの。いつもいつもお勉強ばかりでは、ベアトリスも退屈でしょう? エリカ騎士たちにはマナーにうるさい人間を派遣しますから、ベアトリスも午後は訓練場へいらっしゃいな」
「遊び、ですか?」
団長が、そろいもそろって遊んでいていいのだろうか。
不思議そうに、ベアトリスはこてんと首を傾げた。意味がわかっている顔のヴァーノンたちは、小さな笑いをこぼしている。
それがまた、無性に腹立たしい。
「その時になればわかるからね」
どれだけ頼まれても、懇願されても、決して詳細は語らない。そんな笑みで、ヴァーノンはにこやかに言い放った。
午後になり、ベアトリスは期待と不安を抱え、メイベルたちと訓練場へ向かう。
持ってくるように言われていたため、ベアトリスの腰には珍しく弓がある。コーデルとテレンスは、それぞれの身長と同じくらいの、刃先の形が違う槍を手にしている。
午前中は、リナリア騎士たちの、意外な武器と戦い方を見せつけられた。同じ場所だが、今は誰もいないので、しんと静まり返っていて少し薄気味悪い。
「さてと、最初は誰と誰からかな?」
「最近の定番は、この僕とコーデルだったけど?」
「どうせだったら、オリオンとベアトリスで見てみたいと思わない? 二人とも、基本は遠距離同士だよね?」
「あら、面白そうですわね。二人とも、いかが?」
話がつかめず黙って聞いているうちに、おかしな方向へころんと転がってしまった。そんな気持ちがして、ベアトリスはすぐに返事ができない。
「私はかまいませんよ」
思いがけない言葉に、つい勢いよく振り返る。オリオンはフッと顔を背けはしたものの、今までのように体ごと向きを変えなかった。
間近で見た首飾りの赤い石は、服の赤を通した透明ではない。片方は、半透明のくすんだ赤色だ。もう一方は、一部がうっすらと濁っているだけで、服の色を通した白っぽい石だとわかる。
「話でしか聞いていないので、実際にどの程度の腕があるのかを知りたいと思っています」
言葉で理由を説明されても、即座に頷くことができなかった。
背中しか見せなかった人が、いきなり顔を背けるだけになる。その理由がさっぱりわからない。推測も無理だ。
他はどうだろう。そう考えてメイベルたちを振り返れば、彼らは瞬きを忘れてオリオンを凝視している。
やはり、相当珍しい現象らしい。
「……最短記録だね」
ぼそりと呟いたヴァーノンの声で、我に返ったのか。メイベルたちはスッと表情を改め、今見たものを頭から必死に追い出そうとしているように見えた。
「ベアトリスは、オリオンとの対戦でよろしいかしら?」
問われて、深く考え込む。
カーティス曰く、アマリリス騎士団最強らしい防御の魔法。他にも、足止めなどの、敵対者にとってとにかく不快な魔法が使える。
そんなオリオン相手に、勝機があるのか。
(やってみなきゃ、わかんないよね)
防御の魔法が発動する前に、うまく攻撃が仕掛けられたら。一方的に追い込まれる展開だけは避けられる可能性くらい、万に一つはあるはずだ。
「はい、やってみます」
オリオンからそれなりに距離を取り、背後の壁からもきっちり余裕を持たせて立つ。
腰の金具にはめ込んでいた弓を外す。真ん中に蝶番のついた矢筒のふたを下半分だけ開け、矢を一本だけ抜き出してしっかり番える。
「じゃあ、オリオン対ベアトリスの一本勝負。相手の動きを封じるか、命を奪える状態に持ち込んだ側の勝利だよ」
始め、とヴァーノンが告げたとたん。
ベアトリスは番えていた矢を、ギュッと強く引き絞って放った。読んでいたのか、オリオンの指がサッと動く。
上から下へ。左上から、最初に描いた直線に。そこから右上へ。
「守護!」
キン、と甲高い音を立てて、矢はあっさり弾かれる。
それの行き先を見守る暇などない。
「捕縛!」
直感で、横に大きく飛び退く。
たった今立っていた場所に、キラキラ輝く銀色の茨が数本。獲物を捕らえようと、うねうねユラユラと揺れている。
そんな光景を、視界の端にとらえた。
判断が少しでも遅れていたら、あれに捕まっていたに違いない。捕まったら、その時点で敗北が決定するだろう。
一気に緊張感が高まる。
オリオンは次々と空中に線を描きながら、同じ呪文を唱えている。矢を番えつつ、ベアトリスはあれこれ考えを巡らせた。
(アマリリス騎士団が、一斉に攻撃しても耐える……でも、それを同じ場所に集中させたら? 一箇所に集中攻撃されても、オリオンさんの防御は耐えられるの?)
全体にまんべんなく、であれば問題はなくとも、一所だけを狙えば。
(やってみてから、次を考えよう)
同じところを狙うのは、よく母とやった。しかも、次から次へと位置を変えては、前の矢を狙って射ることを繰り返したのだ。
あの経験が今、役に立つ。
「捕縛!」
ひたすら放たれる銀色の茨を、勘だけで避ける。
体勢を整えつつ番えた矢を、第一矢が当たった場所へ。目視だが、ほとんど同じところへぶつけられているはずだ。
矢筒から抜いた最後の一本を放った。
パリン、とグラスが割れるような、軽くて涼しげな音。見れば、驚愕に染まったオリオンがいる。
弓を金具にはめ、剣を抜く。矢筒のふたを、叩き落とすようにパタンと閉める。その間に、一気に間合いを詰めた。
「捕縛!」
まだ残っていると予想していたから、ベアトリスは右に左に揺れ動きつつ、グイグイ前に出ていく。呪文を唱えてから出てくるものに捕まるほど、鈍い動きはしていないつもりだ。
本当は首を狙いたかったが、身長差が大きくて、とても届きそうにない。仕方なく、剣を胸の中央にそっと突きつける。
キラリと光る剣を唖然とした表情で、しげしげと見下ろした後。オリオンは静かに目を閉じて、開いた両手を顔の横に持っていった。
「参りました。まさか、リサさんと同じ戦法が取れるとは、思ってもいませんでしたよ」
彼はベアトリスを真っ直ぐ見つめ、穏やかで優しい微笑を浮かべている。
色の白い肌に、切れ長だけど温かな印象の黒い瞳と、艶のある長い黒髪が映えて。鼻梁の通った顔だけ見ていると、どこか知らない国の人のようで。
ついつい、時間を忘れて見惚れてしまいそうだ。
初めてまともに見た彼は、リナリア騎士団に混ざっていても、きっと全然違和感がない。ベアトリスがそう思う程度には、端整な顔立ちをしている。
「ベアトリスさん? どうかしましたか?」
穴が開きそうなくらいに、まじまじと見入っていたらしい。怪訝なオリオンに問いかけられて、ハッと我に返った。
「あ、いえ、その……あたし、オリオンさんの顔、初めてちゃんと見たなぁって思って」
慌てていたためか。正直に、思っていたことを口にしてしまった。数回目を瞬かせたオリオンは、さながら葡萄酒を注がれた様相だ。
こんな反応を返されるとは思っていなかった。ベアトリスはただ瞬くばかりで、声のひとつも出すことができずにいる。
「……大丈夫。僕たちもそんなオリオン、初めて見たから」
やや呆けた声音の、ヴァーノンの呟きで。オリオンは引き止める暇もなく、訓練場を飛び出していった。
「あっ……」
とっさに追いかけようとしたが、メイベルに腕をグッとつかまれる。引っ張ってもびくともしないし、つかまれたところがかなり痛い。
思わず振り向いて見上げる。彼女は呆れた色を宿す瞳で、かすかに微笑みながら出入り口を眺めていた。
「今は放っておいてあげなさい」
「あれは、本人も相当混乱してるはずだから……今、君が顔を見せたら、逆効果かもしれないしね」
メイベルとコーデルの言っていることは、まさしく正しい。互いに、冷静になる時間が必要だ。それはわかっている。
ベアトリス自身も、オリオンの急な変化についていけずにいるのだから。
「オリオンも頭が冷えたら戻ってくると思うし、ここはひとつ、メイベルとコーデルの勝負でも見てみない?」
ヴァーノンに振られた話題に、少しだけ興味を引かれた。
コーデルが肩に乗せている槍は、幅が広く左右対称の穂先で、根元に突起がある。突き刺されたら被害が大きくなり、突起に引っかけられたら、武器をあっさり奪われそうだ。
対するメイベルは、日傘を剣帯に深く差し込み、指先を半分ほど出した革手袋をはめていた。見るからに硬そうな革手袋だが、表面は滑らかだ。
長い武器を持たないメイベルは、接近しなければ手も足も出ないことが予想できる。
(槍相手に、うまく懐に飛び込むのは難しそうなのに……)
顔に出ていたようで、気づいたメイベルが艶やかな笑みをふわりと浮かべた。
「黙って見てなさいな」
「じゃあ、メイベル対コーデルの一本勝負。始め!」
合図と同時に、コーデルが大きく一歩踏み込む。メイベルは日傘の持ち手に触れ、スッと引き抜く。妙に長い持ち手だと思っていたが、中から細身の刀身が出てきた。
軽く振り回されたコーデルの槍を、涼しい顔のメイベルが短剣であっさり受け止める。そうとしか見えない。
甲高く、耳障りな音がしたのは一瞬。
「相変わらず、甘くてよ」
ひょい、と短剣で槍を押した。そう見えたのに。
コーデルはわずかにバランスを崩す。一瞬の隙をメイベルが逃すはずがなく、瞬く間に一気に詰め寄る。短剣を左手に持ち替え、右の拳をコーデルの腹部に、ためらいも遠慮もなく叩き込んだ。流れるような動きから繰り出されたそのひと殴りで、コーデルがあえなく崩れ落ちる。
「はい、勝負あり。今日もメイベルの勝ちだね」
メイベルの右手が、落ちてきた髪を後ろへサッと払いのけた。
「当然でしょう? コーデルに負けた日には、わたくしがリナリアの団長を引退することになりますわ」
「あー、わかるわかる。僕も、コーデルに一本取られた時は引退だって思ってるし」
メイベルに同意したヴァーノンと、頷いているテレンス。見ていただけのベアトリスにも、コーデルが団長の中では弱いのだと理解できた。




