三章 2
普段は就寝の合図になっている終課の鐘を聞いて、ベアトリスはそっと部屋を出る。
それが何だか、隠れてこっそり悪いことをしているようで。さっきから、心臓がドンドンと飛び跳ねて落ち着かない。
「お待たせしました」
ランプを二つ手に、オリオンが部屋の鍵をかけた。それを見て、ベアトリスは慌てて自室の鍵を確認する。
(大丈夫、かかってる)
ホッと息を吐き、背中を向けたオリオンが差し出してきたランプを受け取った。
オリオンが振り返って確かめるのは、いろいろあってかなり難しいだろう。だから、ベアトリスが先に立って階段を下りる。
明かり取りの窓から、ほのかな月明かりが淡く差し込んでくる。角度が悪いのか、階段の上部まで光は届かない。ランプのわずかな明かりがなければ、ヴァーノンのように転がり落ちても不思議はなかった。
「足下には十分に注意してくださいね」
「はい」
右手を手すりに乗せて、ギュッと強く握る。左手のランプで少し先の足元を照らす。昼間よりゆっくり、下の段へそろそろと足を運ぶ。
最後の段を下りきった時、知らず知らず安堵の息がこぼれた。
「まずは、城壁の周りを見回りましょうか。どちら回りでもかまいませんからね」
ベアトリスは小さく頷く。
外に出ると真っ暗で、月明かりで辺りがかろうじて判別できる程度だった。夜目には自信があるが、反対側の城壁まではさすがに見えない。
あの闇の中、誰かが隠れていたら。
想像して、背筋がゾクッとした。頭を何度もブンブン振って、嫌な結末を振り払う。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい!」
空元気で返事をして、職人棟と鍛冶場の間を抜けて城壁側へと回る。重なる二つの足音が、オリオンがついてきている証拠だ。
どちら向きに行こうか。少しの間考え、鍛冶場側へと足を進める。
昨日今日と、朝の散歩は、出口にナイジェルとオーソンが待ち構えていた。二人と雑談をしながら歩いていたため、ゆっくり周囲を見ていない。彼らも好き好んで人目のないところへは行きたがらないので、鍛冶場の裏側はまだ見たことがなかった。
「実はあたし、こっち側に来るの初めてなんです」
「毎朝、ナイジェルさんとオーソンさんに連れ回されているそうですね。今日、ナイジェルさんが楽しそうに話してくださいました」
「そうなんですよ。あたし、騎士の方の話ってあんまり聞いたことがなかったから、ナイジェルさんたちと話すのが面白くて」
会話を続けつつ、ベアトリスの左手はランプをかざす。人が余裕を持って隠れられるほど太い木は、数えるほどしかないようだ。木々は枝が落とされ、視界は良好といえる。それでも気になり、一本一本裏を覗き、念のために上を見上げておく。
「そういえば、オーソンさんから聞いたらしくて、ナイジェルさんはあたしが団長なのかって驚いてましたよ」
「……私も、驚きましたよ」
オリオンのため息に似た呟きを、図らずも耳が拾う。とっさに振り向いたが、いつもと変わりない背中だった。
風に葉が鳴る音を、人の声と聞き違えたのか。いや、そんなはずはない。
釈然としないものを感じたが、今は見回りが先だ。頭を軽く振って、どうにか気持ちを切り替える。
「あ、そうだ。ちょっと気になってたんですけど、オリオンさんって兄様と話ができるんですか?」
フッと、オリオンの空気がゆるんだ。
「そうですね……ベアトリスさんほどではありませんが、前もって日時さえ指定しておけば、そのとおりに面会が叶う程度には親しくしていると思います」
「何でですか? って聞いちゃ、ダメですか?」
ヴァーノンは、面会希望を出してもなかなか叶わない、と言っていた気がする。
ずっと、自分以外は、家族ですら、他人と何ら変わらない扱いを受けているのを見てきた。恐らく王城でも、その態度に変化はないだろう。
それなのになぜ、オリオンは約束どおり面会できるのか。しかも、その日の午前にあったことを、午後一番には知っていられるのだろうか。
「あ、人に言っちゃダメって言われてるなら、そう言ってくださいね」
迷っているのか。言いよどむオリオンに、慌ててさらに言葉を投げた。
もし、兄に「他言無用」と言われているのであれば、言いづらい気持ちは理解できる。
「いえ、事後承諾でも、恐らく許してくださると思いますが……」
その瞬間、頭上の枝が風で大きく揺れ、ガサガサと一際大きな音がした。
見た時には気づかなかったが、どこからか飛んできて、引っかかっていたのだろう。小さな白い布が、枝の間からヒラヒラと舞い降りてくる。
思わず手を伸ばして、それをギュッとつかむ。角のひとつに、赤色の刺繍糸で『K』と刺してあった。
「ハンカチですね。結構いい布で、レースもついているから……ちゃんとした家のお嬢様のじゃないかな、と思うんですけど」
(そういえば、サブリナもこんなハンカチを持っていたっけ。確かこうやって、隅にイニシャルを刺繍してたような)
ものを説明したついでに、懐かしく思い出しながら振り向く。すると、オリオンがランプを放り投げて縮こまり、ガタガタと震えていた。両手で頭を抱え込み、なるべく小さくなろうとしているようだ。
捨てられたランプは、すでに火が消えてしまっている。
「オリオンさん?」
声をかけてみたが、聞こえていないようで返事はなかった。
ここで顔を覗き込んだらどうなるか、想像に難くない。
仕方なく、背中を二回、ハンカチを持ったままの右手で軽く突いた。
「ひぃぁっ!」
あがった悲鳴に。縮こまっているオリオンが、勢いよく飛び上がりそうなほど驚いたことに。逆に驚かされたベアトリスが固まる。
「あ、あの……オリオンさん?」
もう、どんな言葉をかけたらいいのかがわからない。
オリオンが正気に返るのを、ただひたすら待ち続けるしかなかった。
どのくらい時間が過ぎただろうか。ひどく長い時間だった気もするし、それほど長くはなかったのかもしれない。
「……取り乱して、申し訳ありませんでした」
まだ何となく縮こまっているオリオンが、風にふわっと吹き飛ばされそうな小声で謝罪した。
「いえ、ちょっとびっくりしましたけど……大丈夫ですか?」
「はい、もう平気です」
ヨロヨロと力なく立ち上がったものの、オリオンは膝が震えてしまい、すぐには動けないようだ。
「あの、もしかして……もしかしてなんですけど、暗いとこが苦手だったりします?」
珍しく正直に彼が硬直したことで、疑惑が確信へと変わる。
小さな頃は、暗いところがとにかく苦手だった。得体の知れない何かがこっそり隠れている気がして、怖くて一人では歩けなかったのだ。
『ビーも怖いの? そうね、ああいうところに近づかないで生きていけたら楽だけど、そうもいかないのよね。だから、一緒にいたら平気、なぁんにも怖くないっていう人を見つければいいのよ。……母様? 母様はそうね……今はビーがいるから、ちーっとも怖くないわ!』
笑顔で差し出された手をギュッと握ると、しっかり握り返してくれる。だからいつだって、一人じゃないと実感できた。
誰かと一緒なら、怖い気持ちはどんどん薄くなる。
(母様といれば、怖くなかった。今はもう、暗いところも平気だけど)
一人じゃないと実感できれば、彼の恐怖も少しは薄れるかもしれない。
「怖いんだったら、手をつなぎませんか? あたしが小さい頃、怖がってると母様が手をつないでくれて、そうしたら怖くなくなったから。オリオンさんもどうかな、って思ったんですけど……」
オリオンに背中を向け、右手にランプとハンカチを握る。そうして空けた左手を、グッと後ろに突き出した。
「絶対に振り向かないって、約束しますから」
真っ直ぐ前を見据え、手を大きく差し出したまま、彼が動くのをただジッと待つ。
やがて、芝を踏むかすかな音がして、冷たい何かが手に触れた。すかさず、逃げられないようにギュッとつかむ。
「じゃあ、見回りを続けましょうか」
「……本当にあなたは、リサさんによく似ていますね」
ぐいっと引っ張って歩き始めたところで、オリオンが唐突に呟いた。意識せず、ピタッと足が止まってしまう。
「私が八歳の頃の話です。それまで家の外にはほとんど出なかったんですが、あの日はなぜか外に出ました。当たり前ですが、知らない人ばかりで怖くなってしまって、人を避けるうちに、自分がどこにいるのかわからなくなってしまったんです。夕暮れの暗い路地に座り込んで泣いていると、『君、迷子なの? どこの子?』と、いきなり声をかけられました」
「あー、何か、母様っぽいですね」
誰にでも物怖じせず、気軽にひょいひょい話しかける。
そんな姿を見たことはないのに、不思議となぜか納得できてしまう。
「見上げることもせず震えている私に、彼女はこう続けました。『もしかしてだけど、一番街のメッシーナ家の子? 確か次男君が、お母さんと同じで綺麗な黒髪なのよね。そう、ちょうど君みたいな』と。あまりにのんきで、緊張感もなく、けれど返事に困ることは聞かない。本当に、優しい方でした」
(オリオンさんは、お母さんに似てるんだ……)
真っ直ぐな亜麻色の髪に、暗緑色の瞳。
いつも鏡を見るたびに思っていた。これは兄と同じだ。母は癖のある薄茶色の髪と、とび色の瞳だった。
どうして母に似なかったのだろうか、と。
弓以外で、母の娘だと証明することが、できない。それが悔しくて、苦しくて、ずっと嫌だった。
「私を家まで送ってくれようとした時、今のあなたのように、私が怖がるからと背中を向けて、手を差し出してくれました。私が自ら手を伸ばすまで、あなたと同じように待っていてくれたのです」
「え……」
無意識とはいえ、母と同じ行動を取っていた。それが、やけに嬉しい。
ついつい、顔がにやけてしまいそうになる。
「それから私は、時々外に出るようにしました。騎士団に入る前に、リサさんとは顔を見て話せるようになり、婚約者というモデスティー伯とも引き合わせていただいて……その時から、モデスティー伯とはそれなりに懇意にしていただいています」
過去は過ぎたこと。母はそう言って、何一つ教えてくれなかった。普段の兄も、こちらから母のことを尋ねると、急に口が重くなる。
ずっと聞きたくて、でも聞けなかった話だ。
だが、いざ耳にすると、説明のできない苛立ちが沸々と湧き上がってきた。
「それから、一度だけですが、ベアトリスさんにもお会いしたことがあります」
「え?」
何となくムッとしたまま、ささくれ立った感情をぶつけてしまおうとした瞬間。優しくて穏やかな声が告げた内容に、頭が一瞬で真っ白になる。
「生まれて半年くらいでしたか……モデスティー伯たちとともに、あなたと会いました。ベアトリスという名はよくありますし、その……大変申し訳ないのですが、ベアトリスさんは十七歳には見えませんでしたから、別の方と思っていました」
誰も彼も同じことを言う。
今まで見下ろせた相手は、ほとんどが幼児。そんな事実も含め、十七歳と主張するには幼い顔立ちと、低すぎる背丈が嫌だった。
あと十センチ、背が高くなっていたら。せめて、年相応に見える顔だったら。
ない物ねだりばかりで、ますます自己嫌悪が強くなる。その繰り返しだ。
「その……私が知っているリサさんでよければ、またお話しますから……今度は、ベアトリスさんがご存じの彼女の話を、聞かせていただけますか? あなたに会ってから彼女が亡くなるまでのことは、私もモデスティー伯も、まったく知らないのです」
彼の言葉で、思い出せるこの七年を悔やんだ。
新しい環境に馴染むことで精一杯で、母のことを知っている兄とも語り合ってこなかった。そして今、その好機を、またしてもみすみす逃すところだった。
思い出せる母との日々は、笑い声の絶えなかった幸福な時の連続だ。
広い庭で弓の練習をし、たくさん部屋のある屋敷の中でかくれんぼをして。親子でありながら仲のいい友達同士のように、毎日を笑って過ごした。
通いの料理人とメイド以外に会ったことがない。だから、その頃の母のことを知っていて、兄たちに話せるのは自分だけ。そんな当たり前の事実に、全然気づいていなかった。
「あたしは、ヨセフさんとメリナさんと、母様以外の人がいるんだってことも知らないで育ったんです。母様がいなくなって、兄様が迎えに来た時は、他にも人がいたんだって驚いちゃって……毎日してたかくれんぼの要領で、兄様から逃げ回って」
「広い家でしたから、さぞかし隠れがいがあったでしょうね」
小さなベアトリスを、必死に追いかけるモデスティー伯を想像したのか。オリオンが懸命に笑いをかみ殺す震えが、つないだ手から伝わってくる。
その感触が、ひどくくすぐったい。
「庭まで使って、丸一日逃げ回って、疲れて眠っちゃって。起きたら知らない家で、また大騒ぎしちゃって」
誰だって、自分の家で目覚めたとたんに泣きわめく子供など、置いておきたいはずがない。それが原因のひとつとなって、兄の家族には蛇蝎のごとく嫌われているのだろう。
兄の家で暮らそうと決めたのは、兄が泣き続ける自分に母の肖像画を見せてくれたからだ。十代半ばくらいの母が、見慣れた笑顔で描かれている。あの絵はよく、兄に見せて欲しいとねだった。
記憶以外で確かめることのできる、母の思い出だから。
「母様は、亡くなる少し前まで弓を教えてくれました。練習が終わったらヨセフさんの作ったお昼ご飯を食べて、眠かったらお昼寝。元気な日は、メリナさんに呆れられながら家の中でかくれんぼをして。毎日、母様と笑ってたなぁ……」
(そういえば、母様とあたしはどこで暮らしてたんだろう?)
母娘二人で暮らすには、明らかに大きすぎる屋敷だった。
母の笑顔はいくらでも思い描けるのに。あれほど毎日過ごした屋敷の内装も、庭に植えられていた木々や植物も。何一つ、正確に思い出せない。
「エリカ騎士になりたくて試験を受けて、勢いで団長を引き受けて。今までほとんど聞いたことのなかった母様の話が一気に出てきて。みんな母様のことを知っててズルい! って思っちゃったけど。あたしもちゃんと母様のこと、たくさん知ってたのに……」
「明日の朝食で、メイベルさんたちにも話してあげてください。きっと、リサさんは変わっていない、と喜ぶと思います」
「わかりました」
大きく頷いて、ベアトリスはオリオンを引っ張りながらの夜回りを終えた。




