わたしの呪いについて1
ニネットは、前世の記憶の断片を持っている。
一番はっきりと覚えているのは、自分が死んだ時の残酷な記憶だ。でもこの記憶を辿ると、泣きたくなるような懐かしさも感じる。踏みにじられ、虐げられ、悲嘆に暮れていたその時、優しくしてくれたのは友と呼んだ一人の少年だった。
「……泣かないで。甘いものを食べると元気になれるから。それに今日はとてもいい報告があるんだ」
「ありがとう」
天使のような顔をした、年下の優しい友人がくれたキャンディを、ためらわず口にした。その瞬間、息ができなくなり、ゴホゴホと咳き込む。
口に当てた手を見れば、吐いた血で真っ赤に染まる。
(ああ、これは毒だったのね)
息ができない。きっと自分はここで死ぬのだと、否応なく理解する。
苦しみもがき、倒れながらも必死に少年に手を伸ばしたが、もうその手は届かない。
最後に見た光景は、瞳が絶望の色に染まっていく友人の姿だった。
§
生まれ変わっていることに気付いたのは、はじめて国教会の大聖堂を訪れた五歳の時だ。
「――ユスタ王国の清らかな子どもたちに、神のご加護を」
この国で無事に五歳を迎えられた子どもは、その年の春に礼拝し祝福を受ける。
特に王都の大聖堂での礼拝は、貴族にとって特別な意味があった。この美しき大聖堂で祝福を受けられるのは、名誉なことなのだ。
聖水がまばゆく降り注ぐ中、ニネットは息をのんだ。
「……ユスタおうこく?」
自分が生まれ落ちた国の名前を、この時はじめてしっかりと認識した。その瞬間、ニネットの頭の中でなにかがはじけて、過去の世界が回り出した。
(いやだ……ここにはいたくない。ここは嫌い)
襲ってくる不快感。そしてなんだか胸が焼けるように痛い。今すぐここから出ていきたくて、隣にいた父の服の袖を引っ張った。
「どうしたんだい? ニネット。落ち着いて……しゃんとしなさい。今日は国王陛下もいらしゃる。失礼があってはならないよ」
父はおとなしくしているようにと、人差し指を口元に当てて合図を送ってきた。
たくさんの幼子が集められているから、皆が静かにしていられるわけではない。泣き出す子、騒ぎ出す子も当然出てきてしまう。でもニネットはそれまで、言われた通りに黙って座っていられる聞き分けのよい子どもだった。
この大聖堂の礼拝席にはきっちりとした序列があり、ニネットの父はマズリエ伯爵なので三列目に座ることが許されていた。
最前列には、国王がいるらしい。王冠と一番豪華な衣装を身に纏っている人物は、ニネットと同じくらいの幼い子どもだ。
(あれが、こくおう? あんな小さな子が?)
ニネットは「違う」と思った。自分の「知っている」国王とは「違う」。でもサラサラとした金髪は「あの子」にとてもよく似ている。
この場に集められた子ども達とその親にとっては、王族との繋がりを持つための、社交の第一歩でもある。どの親も、醜態を晒すことがないよう必死だった。
しかし五歳児にはそこまで理解できない。それはこの国の幼い王とて同じこと。
「いやだぁ、はやくかえりたい。うばは? うばはどこ?」
声を上げてしくしくと乳母の姿を探す、かわいらしい男の子。それがユスタ王国の五歳の国王セドリックだ。
そしてその王をなだめる赤い髪の美しい女性は王の母で――。
(あのひと……あの女のひと、わたし知ってる……きらい、だいきらい……許さない……)
また胸が痛くなった。
ニネットの脳裏には、過去の出来事が蘇ってくる。
記憶の中の王妃は、今よりもうんと若い。美しい顔を歪めながら、「私」を罵り、あの幼い王ではない別の王族たちが「私」を蔑み笑う。
彼らの仕打ちにうちのめされる「私」――。
(わたしは、エディスなの……?)
ニネットに、王家の陰謀に巻き込まれ殺された、エディスという名を持つ哀れな娘の記憶が入り込んでくる。
自分がどうやって殺されたのか思い出し、身体がガクガクと震え出す。
「ニネット、どうしたんだい? 顔が真っ青だ」
問いかけてくる父にもたれかかるようにしながら、ニネットはじっとしていた。
幸いにも、幼王もぐずりだしたことをきっかけに、「かえりたい」「おなかすいた」などと、幼子の共鳴がはじまってしまう。
おかげでニネットは作法通りにできなくとも、目立たずにすんだ。あとは礼拝が終わるまでどうにか耐えていればいい。
じっとりと汗を滲ませながら、ニネットは絶え間なく襲いかかってくる記憶の欠片と戦っていた。叫んで逃げ出したくなる気持ちを押さえ込んで、やりすごす。
ようやくやってきた礼拝の終わりの頃には、意識を朦朧とさせてしまっていた。
「ニネット、いったいどうしたの? 大丈夫? 具合が悪いのかしら?」
母が心配そうに、ニネットの顔を覗き込んでくる。優しい母に「大丈夫」と、そう返事をしたかったが、もうそんな気力もない。
「自分で歩けそうにはないな」
父がそう言って、ニネットを抱きかかえて外へと連れ出してくれる。
教会から出て馬車に乗ると、緊張が解けたのか少しだけ身体が楽になった。
「ニネットは具合が悪かったのに、我慢したんだな。とてもえらかったよ。さあ家に帰ってゆっくり休もう」
父はニネットを褒めてくれた。でも、ついさっきまでただの五歳だったニネットには、それまで持っていなかった誰かに対する憎悪が、みるみるうちに膨れ上がっていた。父と母が望んでいる、よい子ではなくなっている。
それがとても後ろめたかった。
§
その晩から、ニネットは高熱を出して寝込んでしまった。
ずっと胸が苦しい。頭も痛い。蘇った前世の記憶の断片が、じわじわと自分のものとして取り込まれていくことは、ニネットにとって強い苦痛をもたらしていた。意識を朦朧とさせているニネットのことを、父と母がつきっきりで看病してくれたが、その表情はとても暗かった。
礼拝の日から三日目の晩。どうして二人の顔が暗いのか、ニネットは両親の嘆きを偶然耳にして理解する。
「……なんということだ! ニネットは『悪魔の愛し子』だった」
「どうして……どうしてなのかしら? あの子が……私がなにかしたの? 罪などあろうはずがないのに。……このままでは異端の烙印を押されてしまうわ」
二人はニネットが眠っていると思って、その場で話をしていたらしい。口調が荒くなっていたのは、事態の深刻さの表れだった。
(悪魔の愛し子ってなに?)
はじめて聞く言葉だった。でもなんとなく、蘇った前世の記憶と関係していると理解した。
「……お父さま、お母さま……悪い子になってしまって、ごめんなさい」
寝台に寝かされていたニネットは、どうにか起き上がり両親に謝罪する。
できることならよい子でいたかったのに、どうしたってそれが叶わないようだ。
「ニネット……ああ! どうしてこんなに優しい子が」
「心配はいらないわ。お父様とお母様があなたを必ず守ってあげます」
二人は間違いなくニネットのことを愛してくれている。涙を流しながら、自分のことを守ってくれるという。
本当にその価値があるのか? 自分は二人に相応しい娘なのだろうか? どうしても違和感が拭えない。
頭痛はだいぶ治まったのに、胸の痛みはずっと続いている。今はけがでもしてしまったかのようなズキズキとした痛みが、ある一点に集中していた。
どうなっているのか自分で確認したくなったニネットは、着ていたネグリジェの襟元を開けて、痛みのする胸のあたりを覗いた。
「……悪魔って、これのこと?」
寝込む前までは、なにも無かったはずのニネットの胸に、黒い痣があった。ちょうど、心臓があるとされているあたりだ。痣は小さな薔薇の花びらを咲かせている。ニネットはこの痣をきれいだと思った。でも両親を苦しめている元凶でもあるらしい。
「それに髪も……」
胸のあたりにかかる、自分の髪の毛先をそっとすくってみる。以前までは父と母によく似た茶色の髪だったはずなのに、今は石炭のように黒くなっている。これはかつて、エディスという名前の娘が持っていた髪色だ。
(どうしよう、わたしが、わたしでなくなっちゃう……!)
ニネットが瞳を潤ませると、父は両肩に手を置いて言い聞かせてきた。
「ニネット、よく聞いてくれ。この黒い痣は誰にも見られてはいけない。悪魔がおまえに干渉している証拠だ」
「わたしは、悪魔にさらわれてしまうの? それとも食べられてしまうの?」
「いいや、実際になんの影響があるのかはわからない。ただ、これは隠さなければならないんだ。見つかったら異端者として処分されてしまうから。恐ろしいのは実在するかどうか定かではない悪魔ではなく、人間のほうなんだ」
「しょぶん?」
それを聞いてニネットは怯えた。おそらく先日までは「処分」の意味など理解できなかっただろう。でも今はわかった。このままだとニネットは悪魔ではなく、偉い人達の手によって殺されてしまうのだ。
「そんなことにならないために、これからおまえには不自由な思いをさせてしまうだろう。寂しい思いをさせてしまうかもしれない。それでも、この父の言うことを守ってほしい。約束してくれるか?」
「わかりました。お父さま……やくそくします」
ニネットは、大丈夫と笑ってみせた。すると両親は、ほっと安堵の表情を浮かべる。この二人のために、ニネットは聞きわけのよい、優しい子を演じ続けようと思えた。
それから生活は一変していく。ニネットは重い病に罹り、身体が醜くただれてしまったことになった。そして完全なる健康を取り戻すことができていない病弱な令嬢として、外の世界から遮断された。
マズリエ伯爵家の屋根裏部屋で、ひっそりと隠れるように生きることとなったのだ。
数年後、ひとつだけある窓から外を眺めていると、母が小さな男の子を連れて庭を散歩している姿を見かけた。男の子は自由で元気いっぱいだった。それを見ても寂しさで涙を流すことなどしない。ただ、わずかに胸が痛んだ。