45 畠山重忠の乱
六月二十一日 時政の後妻の牧の方に稲毛重成が讒訴(告げ口)をした。従兄弟の畠山重忠が謀反をたくらんでいると言うのである。時政は義時と時房(北条時政の三男、政子、義時の異母弟)に征伐するように命じた。二人はこの命に対してこう言った。
「重忠殿は頼朝公旗揚げこそは敵側であったが房総で再起した後は頼朝公の手足となり良く仕えてきた、忠孝をもっぱらとする人柄です。このところ頼家将軍の間近にいたといえ、比企能員の合戦の時には将軍実朝公の側にあって、良く戦いました。それと言うのも父上の婿としての立場を重んじたからです。その彼が果たして謀反を企てるでしょうか。重忠どのの勲功をみずにあらぬうわさで愚かな誅殺を加えれば、きっと後悔なさることとなりましょう。真偽をを確かめた上で行動を起こしても襲いと言うことはありますまい」と言って、時政は席を立ってしまった。牧の方は同腹の兄、牧時親を寄こして言わしめた。「重忠の謀反は姉がはっきり確認しているという事です。それゆえ時政どのにこの件を子細に漏らしたと言うことです。後妻であるとの事で軽んじておられるのではないかと申しています」
義時は苦々しく思ったが、親と言っても油断がならない。牧の方は隙あらば、自分が生んだ子に権力を持っていこうとしている。ここは時政と牧の方の言うとおりとした。牧の方に対する反感はいつかははらしてくれると固く心に決めた。
六月二十二日 快晴である。夜が白む頃、鎌倉に軍馬の轟きが響き渡った。謀反の者が由比ヶ浜に居る討てと命が下ったと、御家人に伝搬された。
畠山重保も郎党三人を連れて騎馬で由比ヶ浜に走った。義時の命を受けた三浦義村と佐久間太郎家村(義村の従兄弟(三浦氏庶流、安房の佐久間が所領でこの名を名乗る)等の騎馬が重保と郎党の騎馬を突然取り囲んだ。