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43 平穏な空を黒雲が覆い始める

 やがて道元は、本当の禅を知るために宋に渡る気持ちを強め、ついに師、明全とともに博多より渡海するのである。時に貞応二年(1223年)、道元二十三才であったという。

 師、明全は修行中亡くなってしまった。遺骨を抱いて四年後道元は帰ってくる。帰国した道元には日本の仏教の歪みが良くみえたのであろう、すぐにその年、座禅の方法を細かく書いた普勧座禅儀ふかんざぜんぎを表した。

 又、覚喜かんき三年(1231年)には「正法眼蔵弁道話しょうほうげんぞうべんどうわ」を表し、その中で、お釈迦様が座禅によって悟りを得たことを述べ、座禅こそ仏教の正しい方法であることを強調している。

 栄西を鎌倉権力に癒着した俗物であると、京方では評判が悪かったが、建仁寺を巡るエピソードからは栄西が仏教刷新に努力した人であることが伝わって来るだろう。


 四月八日 実朝は和田朝盛らと鎌倉中の各寺を気ままに巡回する。今の暦にすれば五月半ば、まさに風薫る季節であり、若葉が爽やかに風に吹かれている。実朝は絹水干の薄着で馬を歩ませる。


 四月十一日 鎌倉近隣の御家人が何の噂があったのか、突然鎌倉に上がってきた。数日前稲毛重成(いなげしげなり)は、日頃は武蔵の国、稲毛領(神奈川県川崎市北部、東京都稲毛市にまたがる地域)に閉じこもっていたのに、軍兵を連れて鎌倉に上がって来たことで戦乱ありと噂が走ったのだ。


 四月十二日 実朝は一年を十二面に描いた屏風をみて十二の和歌を作った。


 五月三日 半月前の鎌倉の騒ぎは、何事もなく収まった。群参していた騎馬も幕府の命令でそれぞれの所領に戻っていった。


 六月二十日 先日の騒ぎの真相が遂に姿を現した。 畠山重保(京都で、時政の後妻の義理の息子ともめ事を起こした若御家人だ)が騎馬、甲冑で武蔵の北辺、秩父のあたりからやって来た。父の重忠しげただの先発であるという。稲毛重成が重忠の従兄弟いとこということで、北条時政の命を受けて呼んだのである。先にも書いたが、畠山重保(しげやす)は畠山家の六男であるが母が北条時政の娘(政子の妹にあたる)ということで長男の扱いを受けている。父の代理はいつでも重保である。

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