実朝をめぐる人名録 二
北条義時 長寛元年(1163)~元仁元年六月十三日(1224年7月1日)享年62才。北条時政の次男。不確かではあるが母は伊東佑親の娘と考えられている。ちなみに姉、政子の母は不明である。したがって義時と政子は異母兄弟である可能性が高い。義時と政子の関係は男女関係をも匂わせてくると筆者は思うのである。そこにこそ政子の息子達に対する冷たさの原因があるのかと思われる。
十八才の時、石橋山の戦いで長兄の宗時が戦死して以来、北条家の長子としての立場を得た。しかし、吾妻鏡にしばし江間姓で書かれているところから、分家の初代と設定されていたように考えられる。父時政の後妻、牧の方の息子、政範は母の出身が貴族なので、嫡子と目されていたようである。
中原広元 久安四年(1148年)~嘉禄元年六月十日(1225年7月16日)晩年になるまで中原広元の名であったが、大江広元に改名した。元は朝廷に仕える下級官人であったが頼朝の側近となった。兄が頼朝と親しく、早くから下京していた関係から、弟の広元も頼朝の従者となったのである。鎌倉幕府政所初代別当をつとめる。
二階堂行政 父、藤原行遠は保延年間(1135年~1141年)に遠江国司を殺害して尾張に流された。そのとき熱田大宮司藤原季範の妹との間に行政が生まれた。吾妻鏡元暦元年八月二十四日(1184年)の条に鎌倉幕府公文所棟上げに奉行として三善康信とともに登場する。二階堂姓は二階建のお堂を持つ永福時近くに屋敷を持った事による。元は工藤姓。行政と息子・行光・行村はいずれも文書に長けた人で、それらの日誌などが初期の「吾妻鏡」の原典となっていると見られている。筆者は
読者の皆さんに鶴岡八幡宮から北西一キロほどの、永福寺跡地を訪ねることを強くおすすめしたい。今は
広大な跡地となっているが、実朝の美意識を思わせるには充分な、鎌倉屈指の観光遺産である。
二階堂行光 長寛二年(1164年)~承久元年九月(1219年)二階堂行政の長男。鎌倉幕府の重席事務官僚。
二階堂行村 行政の次男。評定衆(行政・司法・立法の全てを司った)長。二階堂家は文筆の家でありながら京で検非違使となり、「山城判官」とよばれる。和田合戦では奉行を受け、闘った。これにより「吾妻鏡」の和田合戦の記事の多くは、行村の記録に依存すると思われる。