108 式典の前
十二月二日 右大臣藤原通家が左大臣に転じた。実朝は右大臣に任じられた。つまり実朝は征夷大将軍・左近衛大将・右大臣という麗々しい肩書きだ。右大臣は太政大臣・左大臣につぐ重職だ。もちろん鎌倉幕府が政権を取っている以上、これらの肩書きは実質的なものではない。しかし義時には、実に苦々しい事態だと感じられるのだった。
十二月二十日 右大臣となったので、右大臣としての政所(大臣執政室とでも呼ぶべきか)を開かねばならない。その政所始めが行われる。義時、執事行光、文章博士仲章、文筆官清原清定、親広(広元長男)、時房らが衣類を整え列をなして座っている。文筆官の清定が吉書を書く。義時がその書を持って
御所に手渡しに行く。書を行光に預け、義時が先に立つ。実朝将軍は南庭の前の邸で吉書を一覧する。
その後、義時は政所に戻り飲食の接待をする。
十二月二十一日 晴 京都より装束、御車、調度など朝廷より届けられる。明年の実朝将軍右大臣着任拝賀に使用するのである。
建保七年(1219年) 四月十二日改元 承久元年
一月二十三日 曇り たそがれ時より降雪一尺(30㌢)。坊門大納言(坊門忠信実朝室の兄で歌人。大納言は左大臣・右大臣に次ぐ官位。朝議に加わり大臣の仕事を補佐する役)が京都より到着する。義時の大蔵の屋敷を旅宿とした。このほかにも、京都より多くの宮人がやって来た。みな、拝賀の式典に参加するためである。
一月二十四日 前日の雪が積もっている。 坊門大納言が御所にやって来た。実朝室と対面する。十五年ぶりの兄との再会は実朝室の気持ちを懐かしさで一杯にする。その後、将軍を交えた宴となる。うら若い女房十人ほどに梅の花なども飾らせて配膳役とするので座は華やかとなる。実朝は義兄の為に鴇毛(鴇のように白い毛並み)の鞍をつけた馬を贈った。安達景盛が馬を引いて皆に見せた。