105 義時の謀略
渡宋船が失敗した後に、実朝は、以前よりもっと、位階獲得に努力しだしたので義時は驚いた。義時は考える。
「ひょっとすると天皇と同格であると言われている最高位の太政大臣になることを実朝は狙っているのではないだろうか。渡宋船などというばかげたもので、この俺を苦しめたばかりなのに今度は、朝廷の位階などというもので、又、俺を悩ませる。朝廷の位階などに何の価値もありはせぬのに執着するのは愚かな事だ。鎌倉は朝廷の臣などではない。御家人が実朝将軍のすることを真似て和田義盛のように国司になりたいなどと言い出したら、鎌倉の制度が乱れてしまう。この頃は何かと実朝が目障りだ。もうそろそろ将軍の力を奪って北条の家の明日を作り上げる時なのだ。このまま実朝の好きなようにさせておくと、鎌倉も平家の二の舞を演ずることになりかねない。もう実朝を引退させたい。しかし引退では収まるまい。実朝が生きている限りは実朝は謀反の中心に祀り上げられることは必定だ。・・・実朝は滅んでもらうしかあるまい。・・・そうだ、うわさでは元将軍頼家の息子の公曉が実朝を憎んでいると聞こえてきているな。どうやら世間を良く知らない智恵のない者だから、うまく扇動すれば実朝暗殺に動くかもしれん。仇討ちには人々の目が眩まされる。仇討ちは暗殺を美しい出来事にする。このやり方は父(時政)が曽我の仇討ちで北条の政敵の工藤祐経を滅ぼすために使った手口だ。・・・頼朝公が行った富士裾野の大牧狩りで起きた曾我兄弟の仇討ちは美談として語られるが実態は違っていたな。・・・工藤祐経は叔父の祐親に親の所領をだまし取られて恨みを持っていた。祐経の郎党二人が放った矢は叔父に当たらずに一緒にいた、その息子の河津祐泰に当たってしまったのだ。祐泰亡き後には曽我十郎・五郎の二人の子息が残された。工藤祐経は、そののち頼朝傘下に参入し、有力な御家人に成長した。父は言葉巧みに十郎、五郎に、仇討ちを果たさねば、武士の面目が立つまい、成功した暁には手厚く庇護しようと言いくるめたのだった。それで、工藤氏は親の仇討ちと言うことで富士の巻狩りで殺害されてしまったが、本質は父、時政の謀略だったのだ」