101 出来上がりつつある渡宋船
義時が気をもむうちにも、船は由比ケ浜に峨峨とした姿を現してきた。まさに巨大な龍の背骨のような骨組みである竜骨が鎌倉の人々を驚かせた。平穏な内海を航行する船は堅牢な骨組みが必要ないが、中国に渡るような外海を渡る船は骨組みで中から支えて、波浪に耐えねばならない。動物における背骨のように、骨の柱として、船を貫くのが竜骨である。
船長150尺(45㍍)船高20尺(6㍍)船幅30尺(9㍍)という大型船になると、その足場の為にも巨大な木組みを作らねばならない。この木組みは鎌倉のどんな建物よりも大きく、鎌倉の町中からも見ることができた。したがって人々はとぎれることなく、建造中の船を見に来た。
実朝もおりにふれ、和卿に会いに来たから、それも庶民の人気を煽った。由比ヶ浜にしつらえた小屋の中で、実朝は和卿の語る、宋の人々の暮らし、喧噪を極めるみやこの話、宋の仏教の話、宋の皇帝の話を聞いた。そうした話しを聞く毎日を送っていると、前途が暗然としていた実朝の心にやっと一筋の光が射し込んで来るように思われた。
やがて贅を尽くした巨大な船は、ついにその姿を現して、由比ヶ浜にそそり立つようであった。各所に紅殻色、蒼や緑の色がほどこされ、新しい木肌と織りなして宋朝風の典雅な雰囲気を漂わせ始めた。
建保五年(1217年) 三月十日 晴 夕刻、実朝は桜の花を見るために永福寺に出かける。実朝室も同じ車で同道する。夕陽の中で、数多い桜の木が一層赤みを帯びて輝いている。小山を背にして二階建ての堂から左右に回廊が平屋の阿弥陀堂、釣殿に繋がっている。その前面に清涼な山水が流れ込んでくる透明な大池が広がっている。この大池では時には船を浮かべ管弦が奏される事もあるのだ。
実朝と室は仏を参拝して、桜林を逍遙した。先ほどまで明るかった空と雲は鍛冶屋の鉄のように赤く染まり、桜をなお一層染め、池にも映っている。二人は大池の上に架けられた木橋の上から黄昏に沈んで行く永福寺の天国のような風光をうっとり眺めている。先ほどまで、ついて歩いていた、近侍、女房達を橋の外れに待たせて二人だけとなった。