第一話 君を見つける
春風が、窓を突き破ってきた。
校舎の中に、ガラスの破片がキラキラと舞い散る。
廊下掃除をしていたぼく、鶴屋恩義は。
風圧でバケツがひっくり返り、水がこぼれ出すのを見ているしかなかった。
さながらそれはスローモーションのように、ひどくゆっくりと、けれど実際は一瞬の間に起きて。
鏡のようになった水浸しの廊下。
そこに、吹き込んできた春風が、スタイリッシュに着地する。
降り注ぐガラス片を意にも介さないのは、制服姿の女子だった。
彼女には影も形もない。
地面に落ちるはずの影も。
水鏡に映るはずの姿も皆無で。
ぼくは、そのひとを知っていた。
美叶木夜目。
動かざること山の如しな深窓の令嬢。
普段、自分の席から立ち上がることすらないと噂される少女が、じつにアクロバティックな着地を決めていたのだ。
体感時間が、現実に追いつく。
ガラスが降り注ぎ、その一片が、少女の肌に傷を付けた。
「っ」
彼女の手の甲から滴る真っ赤な血液。
けれど、美叶木夜目がそれを一舐めすれば、たちどころに血は止まってしまう。
唖然とするぼくに、少女が気が付いた。
その秀麗な顔つきが、筆舌しがたい面倒くさそうな様子へと歪む。
ビシリと、突きつけられる右手の指先。
「……おまえ、他言無用だから。無事に卒業したいなら、沈黙を選びなさい」
じゃあ。と言い捨てて、彼女は走り去る。
廊下を走ってはいけない。
当然の規律だ。
普段のぼくならば、馬鹿正直に守るだろう。
だが。
いまは、優先すべきことが、他にある。
先ほど突きつけられた彼女の指先には、傷があった。
再生する様子のない、古傷のあと。
「やっと、見つけた」
漏れ出す言葉とともに、床を蹴る。
濡れた廊下は滑りそうで、彼女の姿はとっくに廊下の曲がり角に消えていたけれど、それでも追いかける。
最短経路で走っても、あの速度で動く彼女に追いつけるとは思えない。
となれば、方法は限られる。
当て推量で迂回。
使われていない近場の空き教室へと駆け込めば。
そこに、美叶木夜目は待っていた。
腕を組み。
床に根を張ったように両足を降ろし、仁王立ちして。
「度し難いわ」
気の向かない様子で、ぼくを睨めあげて。
「二つ聞くから。答えて」
ぼくは頷く。
「ひとつ」
彼女が言った。
「なんで、ここに居るってわかったわけ?」
「身を隠したいようだったから」
「それならトイレでも屋上でも逃げ場はあるでしょ」
「いまは清掃の時間で、トイレは塞がっていた。屋上は施錠されてる。だからきみは、こっちにこらざるを得なかったんじゃないかな?」
「おまえ、暗に私の頭が可哀想って言いたい風ね。マジ度し難いわ」
そんなことは欠片も思っていないが、彼女は納得しなかったらしく、髪を逆立てている。
怒髪、天を衝くほどお怒りらしい。
ああ、そうだ。
やはり、あの頃のように、この人はずっと怒っているんだ。
「……ふたつめ。なんで追ってきた? ほっとけば、おまえの学園生活は安泰にしてやると、そう言ったつもりだけど」
「追ってくるなとは言われなかったから?」
「私をおちょくって楽しいのか、おまえ」
おちょくっているつもりは毛頭ない。
だから、ぼくは一歩彼女へ歩み寄る。
美叶木さんは、組んでいた腕を解く。
「静止しなさい。それ以上、一歩でも近づくなら」
「近づくよ、話したいことがある」
「話したいなら話を聞け! あーもー、わかった、理解したわ。つまりおまえは、そうなのね?」
彼女の腕が、背後へと回された。
そこには、学校指定の、スポーツバッグが背負われていて。
ジャキン。
取り出された金属の塊が、酷く物騒な、ものを断ち切る音を立てた。
「敵対行動を取ると、そう判断するわ」
こちらへ突きつけられたのは、腕ほどの大きさの裁ちばさみ。
鈍い輝きを放つそれが、もう一度ジャキンと鳴って。
ぼくは。
鶴屋恩義は。
その場に、土下座した。
「――は?」
毒気を抜かれたように脱力する彼女。
一方でぼくは、ようやく得た好機に、ただただ昂揚していたんだ。
だって。
「美叶木さん。美叶木夜目さん」
「下の名を呼ぶな、嫌いなのよ、家族以外に呼ばれるの」
「なら、美叶木さん。ぼくはきみに、返しきれない恩義がある。果たすべき約束がある」
「え、恩の押し売りとかそーゆーのは本気で勘弁して。こっちは邪悪なおまじないだけで手一杯――」
「きみ、吸血鬼だよね?」
「――――」
鏡に姿が映らない。
影を持たない。
そして、こちらに向けられていた白い手には、もはやガラスの破片で付いた傷などなく、とっくに治ってしまっていて。
だったら――吸血鬼だろう。
「それも、ひとから吸血鬼に〝成って〟しまった。そして、ひとに戻りたいと思っている。違う?」
「おまえ」
「……鶴屋恩義。覚えていないなら、好きなように呼んでくれ」
ぼくは、深々と頭を下げながら、告げる。
床面へと額をピタリとくっつけながら、真っ直ぐに言葉を吐く。
「ぼくに、美叶木さんを助けさせて欲しい。それが」
それがぼくの。
「恩の返し方だから」




