数字
新幹線の中で、スマートフォンが震えた。
画面に表示されていたのは、宇山の名前だった。
私は急いでデッキに向かい電話に出た。
「今いいかな」
宇山の声は落ち着いていた。切迫した様子はなく、何かを思い出したから連絡してきた、という調子だった。
「さっき、家で奥さんと話しててさ。林さんの件をちょっと話題にしたら、いろいろ思い出したんでね」
「……思い出した…ですか?」
「うん。大した話じゃないかもしれないけど、一応伝えておいたほうがいいかなと思って」
私は周囲の音に気を配りながら耳を澄ませた。
「林さん、あのマンションの売買の件で、管理組合と少し意見が食い違ってた時期があったらしい」
「揉めていた、ということでしょうか」
「いや、大げさな喧嘩じゃない。言い合いというほどでもない。ただ、考え方が合わなかった、くらいの感じだと思う」
宇山は、記憶の引き出しを探るように続けた。
「ちょうどその頃、耐震強度の偽装問題がニュースになってただろ。古い建物は、どこも一度は名前が出た時期があった」
思い当たる節があった。
社会全体が、建物の安全性に神経質になっていた時期だ。
「林さん、自分のマンションについても、その話をしてたらしいんだ。耐震基準がどうだとか、将来的に建て替えになる可能性があるとか」
「管理組合の中で、ですか」
「たぶんね。で、そういう話になると、次は部屋をどれだけ持ってるかって話になる」
宇山の口調は、どこまでも淡々としていた。
「建て替えになると、議決とか持分とか、いろいろ関係してくるだろ。部屋を多く持ってるほうが、発言力は強くなる。林さん、その辺はよく分かってた人だ」
「林さんは、そのために部屋を購入していた可能性がある、ということでしょうか」
「断定はできないよ。ただ……そう考えて動いてもおかしくない人間ではあった」
一拍置いて、宇山は続けた。
「ある程度まとめて買えたら、管理組合の中で発言権を持てる。建て替えが決まれば、建て直したあとに新築として売れる。そういう計算は、してたかもしれない」
評価でも非難でもない。
経営者として、あり得る選択肢を並べているだけの話し方だった。
「ただ、そのやり方を快く思わない人がいても、不思議じゃない」
「住人の方々、つまり管理組合ということですね」
「まあ、そうなる」
宇山は軽く息を吐いた。
「それがどの程度だったのかは分からない。でも、空気はあまり良くなかったんじゃないかな」
私は礼を述べた。
「ありがとうございます。非常に参考になります」
「いや、奥さんに言われて思い出しただけだから。取材の役に立つなら、それでいい」
それだけ言って、宇山は電話を切った。
スマートフォンをポケットに戻し、私はしばらくその場に座ったままでいた。
宇山の話が真実ならば、林は資金に余裕のある経営者だったということだ。
短期間に複数の部屋を購入できるだけの現金を動かせる立場にあった。
その林が、自殺という形で亡くなっている。
さらに、その後、会社は解散したとされている。
どうしても、その二つの違和感がぬぐえない。
私はノートパソコンを開き、以前調べた林の資料を呼び出した。
死亡時点での資産状況。
会社と個人を合わせても、記録上残っているのは、少額の現金と、自宅のマンション一室のみ。
それ以外の不動産や有価証券は確認されていない。
普通に考えれば、事業資産や現金は相続の対象になる。
会社を畳んだとしても、すべてが消えるわけではない。
だが、帳簿の上で、林の手元にはほとんど何も残っていなかった。
私は画面から目を離し、深く息をついた。
確証はない。
過去の複数の購入履歴が、すべて林によるものだと断定することもできない。
それでも、時期と金額を考えれば、無関係とは思えなかった。
さらに、マンション自体のことが頭をよぎった。
住民の多くは、すでに現役世代を退いている。
それにもかかわらず、大規模修繕は滞りなく行われている。
資金不足の兆しはなく、むしろ余裕があるようにさえ見える。
管理組合は、複数の部屋を所有し、それを賃貸に出している。
その収益が、どのように管理され、どこに計上されているのか。
公開されている資料からは、はっきりしない部分が多かった。
林の金は、どこへ行ったのか。
私はノートに、管理費、修繕積立金、賃料収入、売買価格といった数字を書き並べてみた。
それらを並び替え計算すると、いやらしいほどに数字が合う。
整いすぎている、とも言えた。
いずれにしても、
資金があった人間が、資産を残さずに死んでいる。
その事実だけが、重く残っていた。
私はパソコンを閉じ、立ち上がった。
すでに新幹線は東京駅に到着していた。
改札へ向かいながら、私は次の取材先を頭の中で整理した。
次に読むべきものは、
証言でも、噂でもない。
管理規約だ。




