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第5話 狼と獅子

あの夜から、数週間が過ぎた。


春の冷気が、まだ王都を包んでいた。雪解けの水が石畳を濡らし、長い冬がようやく終わろうとしている。

執務室の窓越しに、溶けかけた雪が屋根から滴り落ちるのが見える。机に向かう少年王の背中は、小さくも揺るがぬ意志を帯びていた。

少年の姿を残した王の胸に、癒えぬ傷があることを私は知っている。

老臣から聞いた話は、胸の奥にしまっておくことにした。

あの夜、廊下で交わした言葉も。

彼と私は王と臣下。無闇に心のうちに踏み入るなど――

そう自分に言い聞かせた。

だが本当は、わからなかったのだ。

どこまで踏み込んでいいのか。

どこまで近づいていいのか。

私はこれまで、人と深く関わることを避けてきた。村が焼かれ、父が死に、母が――あの日から、私は誰とも本当の意味で繋がることができなくなった。

先王に拾われ、宮廷で生きてきたが、それは「生きるため」であって、「繋がるため」ではなかった。


だが陛下は――

違う。


あの塔の夜、私を止めた。

あの湖畔で、わずかに笑った。

あの廊下で、震える声で礼を言った。

私は、陛下を支えたい。

その気持ちは確かにある。


だが同時に――

踏み込めない自分もいる。

立場の違い。過去の傷。そして何より、陛下自身が時折見せる「壁」。

だから私は、ただ傍にいることしかできなかった。


カールもまた、揺れていた。

剣術の稽古では完璧な王として振る舞う。冷静で、正確で、感情を見せない。

だが時折――

ふと、窓の外を見つめて動かなくなることがある。

執務の合間に、地図ではなく古い本を手に取ることがある。

そして私が部屋に入ると、慌ててそれを隠すように机の下に押し込む。

まるで、弱さを見られることを恐れているかのように。


「人である前に、王であれ」


カールはそれに従おうとしている。

孤独であろうとし、感情を殺そうとし、完璧な王であろうとしている。

だが――

彼はまだ十五歳だ。

人間として、まだ完成していない。


だから時折、その「王」の仮面が剥がれる。

湖畔で見せた無邪気な好奇心。

寓話を求める子供のような願い。

そして――私に向ける、名前のつけられない視線。

カールは、ブレている。

強い王であろうとするあまり、自分自身を見失っている。

そしてそのブレが――時折、痛々しいほど人間的な瞬間を生む。

私はそれを見るたびに、胸が締め付けられた。


剣術や兵法の訓練以外にも、彼は一国の王として大量の執務に追われていた。

だが彼は、そういった書類仕事を難なくこなしていった。内政、外交、軍事――どれも完璧にこなす。

ただ執務は内政だけではなかった。

カール十二世の執務室には、すでに戦の匂いが満ちていた。

地図。報告書。軍馬の編成。敵国の動静。

それらが静かに、しかし確実に、王の手元に集められていた。


「ーー不穏だな」


地図に指を滑らせながら、カールは独り言のように呟いた。

その声には、少年らしさもためらいもなかった。

かつて父王に命じられ、戦場で血を浴びたあの少年が、今、その記憶すら戦術へと変えて語っているようだった。

私は黙って、その背を見ていた。

その肩が、知らぬ間に少しだけ大きくなっていた。

だが――その背はまだ、あまりにも細い。

扉が叩かれ、密偵が入ってきた。


「報告書をお持ちしました」


私はそれを受け取り、目を通す。

そして――顔を顰めた。


「陛下」


「何だ」


「ただいま密偵から報告が入りました。三国の王が秘密裏に会合を開き、正式に反スウェーデン連合に署名を交わしたとのことです」


私は報告書を差し出す。

その紙片は、ただの文字ではなかった。国家を囲む、冷たい刃だった。

カールは報告書を手に取り、目を通した。

長い沈黙。

やがて、小さく呟いた。


「……来たか」


私の胸に、重いものが沈んでいく。


(ああ、また戦争か)


迫り来る新たな戦の気配に、私は何か名状しがたい感情に襲われた。

それは臣下としての忠義なのか。

一人の兵士としての恐怖なのか。

いや――


(また血が流れるのか)


それが、一番恐ろしかった。

あの湖畔で、カールは言った。

「余はこれを守る」と。

美しい国を。そこで暮らす人々を。

だが戦争は、守るためだけに行われるのか。

私はかつて戦場に立った。辺境の小競り合いで、敵を斬った。

あの時の自分には、何もなかった。夢も、憧れも、守るべきものも。

ただ生きるために、剣を振った。

だが陛下は――

守るべきものを知ってしまった。

そして今、それを守るために剣を取る。

それは――正しいことなのか。

わからない。

だが一つだけ、確かなことがある。

この戦争が、陛下を変えるだろう、ということ。

私は――その変化を、止められないだろう、ということ。

側近として、一人の臣下として、私は感情を顔に出さないようにしていた。

カールは片手で報告書を握りしめた。


「ーーロシア、ポーランド、デンマーク」


その声は静かだった。


「三頭の獣が、我らに牙を向けたか」


そう言って、カールはわずかに口元を歪めた。

それは笑みだった。だが、温もりを欠いたそれは、焚火ではなく刃の反射光に近かった。

私は――その笑みを見て、胸が冷えた。


「彼らは先王やそれ以前の時代に、バルト帝国に散々に打ち破られ領土を奪われています」


「このタイミングということは、余がまだ"子供"と思われているからだろうな。帝国が弱体化したとでも考えたか」


「……おそらくは」


「愚かなことだ」


彼の目が細まった。

そこにあったのは怒りではない。静かなる確信、そして――

興奮に似た熱。

私は息を呑んだ。


「陛下」


「何だ」


言葉を探す。


「……勝算は」


カールは私を見た。


「愚問だ」


その瞳には、迷いがなかった。

いや――

迷いを、見せまいとしているのか。


「奴らはスキピオを知らぬか。アレクサンドロスの歳を数えぬか」


「歴史を読みはしても、彼らは信じてはおりませぬ」


「ならば……目に焼き付けてやる」


カールは立ち上がった。


「奴らが戦争を挑もうとするなら、完膚なきまでに叩きのめす」


その声には、揺るぎがあった。


だが――


「陛下は」


私は思わず口にしていた。


「戦いを求めているのですか?」


カールの動きが止まった。

ゆっくりと振り返る。


「……何を言っている」


「いえ、その――」


言葉が続かない。

カールは私をじっと見つめた。


「レイフ」


「はい」


「余は王だ」


その声は、硬かった。


「国を守るために戦う。それ以外の理由など、ない」


「……はい」


だが――

カールは窓の外を見た。

やがてカールは、再び報告書に目を落とした。


「下がれ」


「……はい」


私は部屋を出た。

扉を閉める直前、振り返った。

カールは窓辺に立ち、外を見つめていた。

その背中は――

揺れているように見えた。

あの人もまた、抱えているものが多いのだろう。


その夜、私は王の寝室を訪れた。

いつものように、就寝前の報告のためだ。

だが扉を開けると――

灯りは落とされていたが、王は机に伏していた。まるで机そのものが、彼の戦場であるかのように。


「……陛下?」


返事はない。

近づくと、散らばった羊皮紙が見えた。戦術、地勢、敵将の性格、馬の耐寒能力までが書き込まれている。

そしてその中に――

一冊の、場違いな本があった。


『ラ・フォンテーヌ寓話集』


私は思わず息を呑んだ。

あれほど戦と論理に生きる王が、こんなものを手元に置いているとは――


(陛下が、この本を……)


私は不思議な感情に包まれていた。

鉄のような意志の内に、まだ人の情が生きている。

その証が、この一冊に宿っていた。


「……読んでやれ」


突然、カールの声が聞こえて、私は身を竦めた。

顔を上げていない。だがその声には、疲労が滲んでいた。


「陛下、これは童子のための寓話でございます」


「構わぬ」


カールは顔を上げた。

その目には、深い疲れがあった。

いや――

疲れだけではない。

何か、子供のような切なさがあった。


「狼と子羊の話を」


私は――何も言えなかった。

ただ、その薄い一冊を手に取った。

字がやさしく、絵があどけない。

私は、王がこの本を持ち続けていたことに、どこか安堵している自分に気づいた。

私はゆっくりと読み始めた。


「――ある日、子羊が川で水を飲んでいた。そこへ狼がやってきて言った。『お前は水を濁した。罰として食ってやる』」


子羊は答える。


「私は下流にいます。どうして水を濁せましょう」


狼は言う。


「ならば去年、お前は私を侮辱した」


「私はまだ生まれていませんでした」


「ならばお前の兄弟が――」


そして狼は、理由などなくとも子羊を食らった。

読み終えたとき、カールは静かに目を閉じていた。


「――余は、子羊でも狼でもない」


その声は、静かだった。


「それらを食らう獅子だ」


私は言葉を失った。

だが、心のどこかで救われる思いがした。

この国が背負う冷たさの奥底に、まだ童話を手放せぬ人間がいる。

それを知ったことが、私にとっては、剣よりも確かな"希望"だった。


「……なぜ、寓話を? 兵法書の方が……」


「……母が読んでくれた。子供の頃な」


王は淡く答えた。

その声には、微かに、遠い温もりがあった。


「父は、こんな本を許さなかった」


そして、こう付け加えた。


「童話は、唯一"戦場でない時間"だった。……ほんの、ひと時だけな」


私は胸が痛んだ。

この人は――

王であろうとして、人間であることを捨てようとした。

だが、無理だった。

だから今も、この本を手放せない。


「好きな話は……?」


私は思わず尋ねていた。

カールは少し考えた。


「老いた主人を、猫が命懸けで守る話だ」


そして――

ふと、微笑んだ。

私は息を呑んだ。

彼が笑っている顔を、私はそのとき初めて見た気がした。

あの湖畔での笑みとも違う。

もっと――無防備な、子供のような笑み。


「……お前に似ている」


その言葉が、私の胸を打った。


「陛下……」


「長靴を履いた猫だ。知っているか」


「はい」


「あの猫は、賢く、忠実で――」


そこで言葉を切った。


「……いや、何でもない」


カールは本を閉じた。

だが、手はそれを離さなかった。

まるで、それを握りしめていないと、何かが崩れてしまうかのように。


「下がれ」


「はい」


私は立ち上がった。

だが、扉に手をかけたとき――


「レイフ」


振り返ると、カールは本を見つめたまま言った。


「……お前がいて、良かった」


その声は、あまりにも小さかった。

まるで、自分に言い聞かせるかのように。


「陛下」


「下がれ」


今度は強い口調だった。

私は頭を下げ、部屋を出た。


廊下に出て、私は深く息を吐いた。

胸の奥が、温かかった。

陛下は――

時折、あんな顔をする。

王ではなく、一人の少年の顔を。

無邪気で、無防備で、痛々しいほど人間的な顔を。

それを見るたびに、私は思う。

この人を支えたい、と。

だが同時に――

踏み込めない自分もいる。

どこまで近づいていいのか。

どこまで心に触れていいのか。

わからない。

だが――

私はここにいる。

陛下の傍に。

それだけは、確かなことだった。



――同刻、ポーランド。

ヴィスワ川沿いの狩猟館。炉の火が弾け、肉の焦げる音が部屋を満たしていた。

深い椅子に座ったのはロシアのツァーリ、ピョートル一世。

若く、獰猛な狩人の目をしていた。


「さて、諸君よく集まってくれた。今日は北の獅子を狩る話をしよう」


その場にいたのは二人の王。

席の一つにはポーランド=ザクセン王アウグストがふんぞり返っていた。大柄で豪奢な衣装に身を包み、片手に葡萄酒の杯を持っていた。


その傍ら、陰鬱な微笑を浮かべるのはデンマーク王フレデリク四世。彼の瞳は老獪に細まり、慎重かつ狡猾に言葉を紡いだ。


「"獅子"とは……あの少年王のことか?」


ピョートルは頷いた。


「カール十二世――スウェーデンの若き王だ」


アウグストが鼻で笑った。


「ただの童だ。冠をかぶった子猫にすぎん」


「だが、子猫も牙を持つ。油断すれば、血を見る」


ピョートルは、炎を見つめていた。


「父王は強かった。だが子は未知数だ。侮れば、我らが血を流す」


「……だから潰すために、我らを集めたと見える」


「その通りさ」


杯が掲げられた。


「北からデンマーク、南からポーランド、東からロシア。我らは三つの角から一つの獲物を追い、スウェーデンを地図から消す。バルト帝国は周りの恨みを買いすぎた」


炎がはぜた。アウグストが笑いながら言う。


「我が軍はもう既にリガへと進軍を開始する準備ができている。あとは時を合わせるだけだ」


「だが……」とフレデリクは言った。


「奴は逃げないか? まだ十五の少年だぞ」


「逃げぬ」


ピョートルは断言した。


「降伏もしない。戦い、そして――勝とうとする」


アウグストが嘲笑う。


「馬鹿な」


だが、ピョートルの目は笑っていなかった。


「いや、あいつは『そういう』男だ」


彼は何かを思い出すように、低く呟いた。

窓の外、ヴィスワの流れは氷の衣をまとい、黙して進んでいた。

その向こうに、まだ姿の見えぬ獅子が、牙を研いでいた。


――だが彼らは知らなかった。


その「童」が歴史に名を刻む伝説であることを。

そして――その獅子の傍らに、静かに剣を研ぐ影がいることを。


翌朝、私は執務室に向かった。

カールはすでに起きており、地図を広げていた。

「レイフ」

「はい」

「昨夜は――」

カールは言葉を探すように、視線を彷徨わせた。

「……礼を言う」

「いえ」

「寓話など、馬鹿げていたな」

「そうは思いません」

私は言った。

「陛下が、まだあの本を持っておられることが――」

そこで言葉を切った。

カールが私を見た。

「何だ」

「……嬉しかったのです」

カールの目が、わずかに見開かれた。

沈黙。

やがて、小さく笑った。

「お前は変わっているな」

「そうでしょうか」

「ああ、そんなことは初めて言われた」


カールは地図に目を戻した。


「だが――」


そこで言葉を切った。

長い沈黙の後、小さく呟いた。


「……だから、余はお前を選んだのかもしれん」


私は息を呑んだ。

だがカールは、それ以上何も言わなかった。

ただ、地図を見つめていた。

その横顔は――

どこか、安らいでいるように見えた。

いや――

安らごうとしているように見えた。

王であろうとする自分と、人間でありたい自分。

その間で揺れながら、それでも――

今この瞬間だけは、少しだけ。

少しだけ、人間でいようとしているように見えた。

私は何も言わなかった。

ただ、その横顔を見つめていた。


戦争が来る。

三国が、スウェーデンを囲む。

だが今は、まだ――

この静かな朝がある。

この穏やかな時間がある。

それがいつまで続くのか、私にはわからない。

だが今は、ただ一つだけ。

私は陛下の傍にいる。

そして陛下もまた――

時折、人間に戻ろうとする。

その瞬間を、私は見守っている。

踏み込めない距離を保ちながら。

それが正しいのかどうか、わからない。


だが――

それが、今の私たちだった。

窓の外では、雪解けの水が流れていた。

春が来る。

そして――戦争が来る。


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