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第14話 黄金の王都

ナルヴァの勝利から三日後、私たちはストックホルムへ帰還した。


その季節は秋だった。


街道の並木は黄金色に染まり、風が吹くたびに葉が舞い散った。収穫を終えた畑が広がり、農民たちが道端で手を振る。


実りの季節。豊穣の季節。

そしてこの時のスウェーデンにとって、栄光の季節だった。


「王だ!」


「軍神が帰ってきた!」


民衆が道の両側に溢れ、花を投げ、旗を振り、叫んだ。建物の窓という窓から人が顔を出し、屋根の上にまで人が登っていた。

子供が父親の肩に乗り、老人が杖をつきながら道端に立ち、商人が店を閉めて通りへ出てきた。皆が笑顔だった。皆が誇らしげだった。


「スウェーデン万歳!」


「カール陛下万歳!」


声が、声が、声が重なり合い、轟音となって街を満たした。

私は馬上からその光景を見ていた。

石畳は花びらで埋め尽くされ、建物の壁には青と金の旗が揺れていた。冬の灰色は消え、街全体が陽光に輝いていた。


黄金。


この時の街は、正に希望に満ちていた。

カールは馬上で民衆を見渡した。彼は小さな笑みを浮かべ、手を振り馬上にいた。

だが、彼の目線は常に前を向いていた。

だが民衆は気にしなかった。彼らにとって、カールはもはや人間ではなかった。伝説だった。神だった。


「敵をこんな短期間で打ち破った!」


「あの大軍を、たった八千で!」


「軍神だ!あなたは英雄だ!」


興奮した声が飛び交う。ナルヴァの勝利は、もはや現実ではなく神話になっていた。

宮殿前の大王広場に着くと、さらに大きな人だかりがあった。数千人が集まり、カールを待っていた。

馬から降りたカールに、群臣が跪いた。老臣アクセルが前に出た。


「陛下のご帰還を、心よりお喜び申し上げます。ナルヴァでの栄光ある勝利は、スウェーデンの歴史に永遠に刻まれるでしょう」


カールは手を短く挙げる。


「よせ、まだ戦争は終わっていない」


その声は静かだったが、広場全体に響いた。民衆がまた歓声を上げた。

私は群臣の後ろに立っていた。影として、いつものように。だが民衆の熱狂を見ながら、胸の奥で何かが疼いた。

この歓喜は、本物なのか。

それとも——。

宮殿の中は、外の熱狂とは対照的に静かだった。

カールは王服を脱ぎ、簡素な服に着替えると、すぐに執務室へ向かった。祝宴の準備が進んでいると聞いても、顔色一つ変えなかった。


「余に休息は要らない。次の戦の準備を始めろ」


側近たちが顔を見合わせた。


「陛下、まずはお体を——」


「リヴォニアでアウグスト二世が攻勢を強めている。すぐに向かう」


その声に、誰も逆らえなかった。

私は黙ってカールの後ろに立っていた。

あの民衆の歓声が、まだ耳に残っていた。あの熱狂が、まだ目に焼き付いていた。

だがカールは、まるで何も見ていなかったかのようだった。

その夜、宮殿で祝宴が開かれた。

広間は燭台の光で満たされ、長テーブルには料理が並び、楽団が音楽を奏でた。群臣たちが集まり、将軍たちが杯を掲げた。


「ナルヴァの勝利に!」


「陛下の栄光に!」


乾杯の声が響いた。


ストックホルムでの凱旋を終えたのち、軍は一時解散し、王は宮廷へと戻った。私は彼に付き従った。通常複数存在する王の側近達はカール12世には存在しなかった。

だからこそ、私の存在は注目を集めた。


なぜ、私なのか。


そんなことは分からない。一度聞いた際も答えを聞くことはできなかった。しかし今の私にそれは重要なことではなかった。


(なんでこうなった.....??)


私は気付けばただ壇上に立っていた。玉座の前、凍りついた空気の中心に。一歩踏み出すたびに、床の石が重く軋んだように思えた。歴戦の名のある将達と共に壇上に立たされていた私の背はいつもよりも真っ直ぐにさせられていた。

将官たちの視線が、槍のように刺さってくる。


(陛下は一体何を....)


そう考えている間に私の番が来た。珍しく正装に身を包んだ陛下が私の前に現れた。


「レイフ・エークマン」


王の声が響いた。柔らかく、だが明瞭に。私は反射的に背を伸ばした。


「お前は先王の代より、戦場にあった。名簿にはその名もなく、階級もなかった。だが、誰よりも余の傍に在り、剣を執った」


その声は、今も私の胸に残っている。あれほど冷静な声なのに、私の中の何かが、ふと揺らいだ。私は正式な軍属ではなかった。影だった。だが今、光の中に引き出されていた。


皆が立ち去った後、天幕には私と陛下だけが残った。火の影が揺れ、二人の顔を交互に照らし、隠した。


陛下は懐から小さな銀の徽章を取り出した。王冠を象ったもので、中央には「C」の刻印があった。


「これを、お前に授ける。」


その声は珍しく静かであり、聴衆に宣言するのではなく、私に語りかけているようだった。


「この冠は、玉座の上にはなかった。泥と血の中でだけ支えになった。

……お前だけがそれを見てきた」


そして彼は振り返り、高らかに宣言した。


「先の戦の功績により、レイフ・エークマンをカロリアンに所属する将軍とし、直轄の部下として千の兵を預ける!」


剣を打ち鳴らす音が、一斉に広間に響いた。讃える音だった。私は頭を下げたが、手のひらにじっとりと汗を感じていた。誇りではない。いや、誇りはあった。だがそれよりも遥かに強い感情――戸惑いと、畏れ。


あんなに人として死んでいた私が、気付けば短い間にこのような地位に上り詰めていた。かつて幼いながらに憧れたカロリアンにこの歳になり、授けられることとなったのだ。しかし何より....


「これで正式に余の剣だな」


陛下はその時、初めてニコリと満面の笑みを浮かべた。これまでの闘争に燃えた笑み、クスリと笑う顔とは違う、初めて見る顔だった。


私はそれを見てどうしようもなく胸の奥が熱くなった。


それを空のどこかで先王が見ているような気がした。会場が拍手に包まれる。私を刺すような目で見ていたように思っていた彼らも、笑顔で私を祝福した。


(何年振りだろう....)


幸せだ。


私はその時明確にそう感じた。




それから他の将校たちの叙勲式も終え、長い式が終わると、私は自然と人の波を避けるように、壁際へと歩いた。いつものように、目立たぬ場所で、息を潜めていたかった。


だがそれも、すぐに叶わなかった。


「……貴殿が、レイフ・エークマンか」


白髪の大男が、まっすぐに私の前に立った。軍服の金糸が眩しかった。


「カール・グスタフ・レーンスコルドだ。……ようやく顔を見せたな。影の副官殿。軍内ではレーネで通っている。」


私は思わず、背筋を正した。彼の目は鋭かったが、不思議と刺すような敵意はなかった。ただ、測っている。私という存在を、その目で重さを量っているようだった。


「おめでとうエークマン殿、先の叙勲式では貴殿が一番昇格していたな。全く、王に気に入られてるだけあるじゃねぇか。」


横から軽い声が飛んだ。美しく整えられた外套をまとった、端正な男。口下までかかる黒く長めな髪に、顎髭が印象的な、俗に色男と言われるような男だった。


「レーヴェンハウプト。覚えにくい名だが、いずれ馴染むさ。……あんたが退屈な奴じゃないことを祈るよ。退屈な将軍は、敵より始末に困る」


彼は笑っていた。しかし冗談の裏で、こちらの出方を試している。私は突然の将軍達の登場にたじろいでしまった。


最後に、長身で筋肉質な男がまっすぐ歩いてきた。金髪に茶色の眼、そして肌は雪のように白かった。一目見た瞬間、気づいた。この男の顔は前に見たことがあった。


「あなたとは戴冠式以来ですね。」


私は口を開く。他二人は面識あるのかといった表情を浮かべるも無理はない。


「ハハ、そうですね。改めてカール・グスタフ・アームフェルトです。あなたの名前最近はよく聞きますが、まさかあの日のあなたとは思いもしませんでした.... これからは同じ軍の仲間、よろしく頼むエークマン殿。」


アームフェルトが、気取らず静かにそう言った。


「こちらこそ、アームフェルト殿」と私は応じた。


レーヴェンハウプトが頭を掻きむしる。


「おいおい、二人とも固ぇぞ。アームフェルトお前も、そんな喋り方してんじゃねえよ。らしくねえだろ」


「皆がお前みたいに軽薄じゃないんだハウプト、礼節を重んじる方かもしれないだろ」


私は二人のやりとりと、彼らを笑いながら見ているレーネを見てなぜか笑いが込み上げてきた。そんな私を見て誰かが声をかけた。


「へぇ、お前さん笑うんだな。てっきり“黙して従う影の副官”ってやつかと思ってたよ。」


そう言ったのはレーヴェンハウプトだった。軽薄そうな口ぶりだが、その目は観察の鋭さを隠していなかった。


「流石に私も人間です」


私は肩をすくめながら返す。少し自嘲も混じったその言い方に、レーヴェンハウプトが一瞬きょとんとした顔をした。


「はは、悪い悪い。けど、やっと口を開いたかって感じだな」


その様子に、レーネが低く笑った。


「黙っているのも美徳だがな……仲間ってのは、時に愚痴や笑いも共有するものだ。忘れるなよ、将軍殿」


老将は私の肩を軽く叩いた。威圧感はあるが、不思議と温かい手だった。


「そうそう、肩肘張るなって。……でなきゃ、これから長くはやってけないぞ」


と、レーヴェンハウプトが悪戯っぽく続ける。


「それともあれか、軍服が板につきすぎてて、もう硬直してんのか?」


「これは、……生まれつきです」


「はいはい、そんなわけねえだろ。」


レーヴェンハウプトが笑い、アームフェルトが吹き出す。レーネまでもが目尻を下げて喉を鳴らすように笑った。


「ま、無理に笑えとは言わんが……それでも、今の顔は悪くないな」


「そうだな」とアームフェルトも頷く。「少し、戦の前じゃない顔だ」


私は――笑った。ふいに、抑えていた何かが緩むような感覚だった。


「……ありがとう、レーヴェンハウプト殿、皆さんも。

ーー私のことはレイフでいいですよ。そっちの方が楽でしょう?」


「おおい、ついに氷が割れたな」


レーヴェンハウプトが拳を軽く打ち鳴らす。アームフェルトも笑みを浮かべる。


「なら変に気を遣う必要もないな」


「だったらこいよレイフ。今日は休みだ。たらふく飲んで、翌朝後悔するくらいが丁度いい」


「……俺は酒は強くないんですが」


「なら尚更だ、潰れたら担いでやる」


アームフェルトが笑みを浮かべながらがっしりと肩を組んできた。


気づけば、胸の奥がじんわりと温まっていた。

これが、“仲間”というものなのかもしれない。


ああ、そうか――

この人たちは、ただの将じゃない。

王のために、国のために、命を懸けている者たち。

そして、笑うことも、誰かと肩を並べることも知っている。


彼らはこんな私をも温かく迎えてくれた。

これまでなら何か裏があると、そう考えたかもしれない。

だが、今は不思議と何も疑う気にはならなかった。

その輪の中に、私もいる。

きっと、今なら胸を張って、そう言える。


わずかばかり、胸の奥があたたかくなった。

この戦は過酷でまだまだ続く。だが、こうして笑うことができるなら、きっとまだ大丈夫だ――そう思えた。


その夜、気持ちのいい秋風が教会の布をゆるやかに揺らしていた。


レーネは豪快に酒を煽り、レーヴェンハウプトは興奮気味に作戦の話を語っていた。アームフェルトは、誰かの失言を拾っては静かに笑いを誘った。気づけば、私は笑っていた。自然と口がほころび、杯が重なり、声が重なった。


「レイフ、無表情のくせに酒は強いな」

「表情が出ない分、肝臓が働いてるんだろうな」


レーヴェンハウプトの冗談に皆が笑い、私は肩をすくめて杯を掲げた。

ここにきて、ようやく私は「兵」になれた気がした。

王の剣ではなく、戦場に立つ仲間のひとりとして。


その時だった。


その姿が見えた。


祝いの場で酒のガラスを飲み干し、一目を気にせずその場を去ろうとしている男。その後ろ姿が見えた。


カール十二世だった。

カールは誰とも言葉を交わさず、ただ静かに席を立った。

華やかな笑いの渦から一歩退くと、その影はすっと扉の方へ向かっていく。

背に纏った青いマントが燭光をかすかに掻き消し、音もなく揺れた。

私もそこにいるべきだ。心のどこかでそう思っていた。

しかし、足が動かなかった。


あの背中には、凍てつくような威厳があった。

だが今はそれ以上に、凍えるような孤独があった。

誰も寄り添わない。誰も並ばない。

国王という名の檻に、自らを閉じ込めているかのように見えた。


そう考えているうちに会場の巨大な扉を開き、彼は振り返ることなく会場を後にした。ドアが大きな音を立てて閉まるが、誰もそれに注目はしない。その様子を見ているのは数ある人の中で私だけだった。


そんな私を見てレーネが酒瓶を差し出した。


カールが扉を出た。


私は——

私は、立ち上がりかけた。


だが——


「どうした、レイフ」


レーネが声をかけた。


「……いえ」


私は、座り直した。

杯を、手に取った。


だが——

酒の味が、しなかった。


レーヴェンハウプトが笑っている。

アームフェルトが話している。

レーネが酒を注いでいる。


この温もりの中に私はいる。

だが——


(......陛下は)


カールは、一人だった。

私は考えた。


(......ここに、居ていいのか)


答えは、出なかった。

ただ、胸が——


痛んだ。

誰とも、火を囲んでいなかった。

私は——


(......陛下)


杯を、握りしめた。

だが——

立ち上がることは、できなかった。



五日後、カールの三度目となる親征が執り行われた。私は再びカールの側近として馬に乗った。彼の顔はまっすぐ先を見据えていた。


多くのものは頼れる王として彼を見ただろう。

だが胸の奥では、微かな違和感が疼いていた。

あの眼差しは、ただ国を守るものではない。

敵を倒し勝利を掴むことを追っているように見えた。

それは私しか知らない、あの塔の夜の彼の「あの」一面が表に溢れ出てきているように思えた。


ーー春まだ浅い雪の残る朝だった。

カロリアンの精鋭部隊ががリヴォニアの平原を越えてゆく。

私はその背中を、馬上から見つめていた。

王の剣は曇りなく、馬蹄は躊躇なく。

この進軍がどこへ向かうのか、彼の心に迷いはなかった。

だが、私の中では、何かが揺れていた。

この道は、栄光への道か。それとも、炎と灰へと至る道なのか――

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