表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/38

第12話 栄光の時

それは晩秋だった。


ストックホルムの街路樹は黄金色に染まり、収穫祭の笑い声が響いていた。デンマークを屈服させたカール十二世の凱旋から三週間。街は、まだ勝利の余韻に浸っていた。


だが、突如国を揺るがす報告が東から報が届いた。


ロシア軍、四万。ナルヴァへ向かっている、と。


王宮の空気が、凍りついた。


カールは、その報を聞いても表情を変えなかった。ただ、地図を見た。


「準備を急げ」


彼が言った。


「ナルヴァの救援に向かうぞ」


祝宴は、そのまま終わった。


三日後、私たちは再び海を渡っていた。

冬の海は、荒れていた。波が船体を打ち、しぶきが甲板を洗った。兵士たちの顔には、疲労が刻まれていた。デンマークからの帰還、そして休む間もない出陣。

だが、誰も文句を言わなかった。

カールは、常に甲板に立っていた。風に髪を吹かれながら、東を見つめていた。

私は、その背中を見つめていた。


「陛下」


私が声をかけると、彼は振り返った。


「ロシア軍は、四万だと聞いております。我らは——」


「八千だ」


彼は即答した。


「五倍か」


私が呟くと、彼は——笑った。わずかに、だが確かに。


「速度を重視した結果、初日に動員できたのはこれだけだ。

だが諸君らも分かっているだろう。戦は、数ではない」


その目には、確信があった。


「余は、あの男を知っている」


「……?」


「ピョートル。まだ少年だったころ、一度だけ会った」


彼は海を見た。


「あれは、戦場に立たない」


それだけだった。それ以上、彼は何も語らなかった。



ナルヴァは、バルト海に面した要塞都市だった。

古い石造りの城塞が、川を挟んで立っていた。その周囲には、広大な雪原が広がっていた。遮蔽物は、ほとんどなかった。

ロシア軍は、その雪原に陣を張っていた。

私は、高台からその光景を見た。黒い幕舎が、果てしなく続いていた。長い戦列。大砲。旗。四万という数が、雪原を埋め尽くしていた。

「……」

言葉が出なかった。

レーネが、隣に立った。

「……陛下は、本気でこれを叩くおつもりだ」

彼の声は、震えていなかった。ただ、重かった。

「我らは、八千です」

私が言った。

「五倍の敵を、どうやって——」

「陛下は、何か見えているのだろう」

レーヴェンハウプトが言った。その声には、諦めと、わずかな期待が混じっていた。

「見えているのか、それとも——」

彼は言葉を切った。



その夜、軍議が開かれた。

カールは、地図の前に立った。そこには、ナルヴァ周辺の地形が描かれていた。川、雪原、そしてロシア軍の布陣。


カールが地図の前に立った。


長い沈黙の後、彼は一点を指した。


「ここだ」


将軍たちが身を乗り出した。それは敵陣の左翼だった。


「敵は陣を広げすぎている。四キロに四万。薄い」


レーネが眉をひそめた。


「薄くとも、四万は四万です」


「薄ければ——崩せる」


カールの目が光った。


「一点を突けば、全体が崩壊する」


カールは、地図の一点を指した。


「ここだ。敵陣の左翼。ここが最も薄い。ここを突けば、敵陣は分断される」


「どうやって、そこまで近づくのです」


レーヴェンハウプトが聞いた。


「雪原には遮蔽物がない。我らが動けば、すぐに見つかります」


「吹雪だ」


カールが言った。


「……?」


「明日、吹雪が来る」


彼は窓の外を見た。


「風向きが変わった。気圧が下がっている。明日の午後、吹雪が来る」


レーネとレーヴェンハウプトは、顔を見合わせた。


「その吹雪に紛れて、敵陣左翼へ接近する。視界がなければ、敵は我らを見つけられない」


「……もし、吹雪が来なければ?」


「来る」

カールは即答した。その目には、一片の疑いもなかった。

「余は、天を読む。吹雪は、来る」

室内が、静まり返った。

アームフェルトが、初めて口を開いた。

「……陛下は、天すらも味方につけるおつもりですか」

カールは、彼を見た。

「余が天を読むのではない。天が、余に語りかけるのだ」

その言葉に、私は背筋が冷たくなった。



翌日の午後、吹雪が来た。

風が唸りを上げ、雪が空を覆った。視界は、ほとんどなくなった。

兵士たちは、息を呑んだ。

「……本当に来た」

誰かが呟いた。

「陛下は、本当に——」

カールは、馬に乗った。

「全軍、準備!」

その声が、吹雪の中で響いた。

「敵陣左翼へ向かう。三列縦隊。距離を詰めろ。音を立てるな」

私たちは、静かに進んだ。雪が顔を打った。寒さで指が感覚を失っていった。だが、進んだ。

吹雪の中、敵陣が見えてきた。幕舎が、ぼんやりと浮かんでいた。哨戒兵が立っていたが、吹雪で前が見えていなかった。

私たちは、さらに近づいた。百メートル。五十メートル。三十メートル。

誰も、気づかなかった。

カールが、剣を抜いた。

「今だ! 突撃!」

その声が、氷原を裂いた。

私たちは、叫びと共に走った。



敵は、完全に混乱していた。

四キロに渡って薄く展開していた陣形は、一点への集中攻撃に耐えられなかった。命令系統が寸断され、左翼の部隊は孤立した。

火薬は、吹雪で湿っていた。大砲は、火が点かなかった。銃も、使えなかった。

白兵戦になった。

私は剣を振るった。凍てついた鎧が砕け、鮮血が雪に舞った。叫び声が響いた。誰の声かも分からなかった。

横で、若き騎士が倒れた。私は彼を抱えて、後衛に戻した。その顔は、まだ少年のようだった。

前線では、カールが馬上で指揮していた。

「左へ回り込め! 敵を分断しろ!」

彼の声は、雷のように響いた。白い嵐の中にあって、彼だけが明瞭だった。

私たちは、敵陣を左から右へと切り裂いた。ロシア軍は、真っ二つに分断された。左翼の部隊は、川へ追い詰められた。

橋が、あった。ロシア兵が、そこへ殺到した。

だが——

「橋を落とせ!」

カールが叫んだ。

工兵が動いた。橋の支柱に火薬を仕掛けた。爆発音が響いた。

橋が、崩れ落ちた。

ロシア兵が、川に落ちた。叫び声が、水音に変わった。それから、沈黙した。

右翼の部隊は、退却を始めた。だが、吹雪の中で方向を失い、散り散りになった。

ピョートルの野望が、雪と血に沈んでいくのを見た。

私は、白い吹雪の中で、それを見ていた。

今でも鮮烈に、あの時の記憶が蘇る。



それは、あまりにも鮮やかな勝利だった。


四倍もの兵力差を誇る相手を、ここまで完膚なきまでに、少ない犠牲で打ち破った例は、歴史を見回しても稀だった。それこそが、後に彼の栄光として語り継がれることになる「ナルヴァの戦い」であった。


カールは、天候を読み、敵の布陣の弱点を見抜き、一点集中で敵を分断し、橋を落として退路を断った。


それは、完璧な作戦だった。

戦が終わったあと、雪の音が戻ってきた。火薬の匂いと血の熱に満たされた戦場に、ふたたび風の唸りが満ちていく。


ナルヴァの砦の丘に、スウェーデン軍の青と金の旗が立った。

兵たちはまだ息を荒げていた。剣を下げ、兜を脱ぎ、泥と凍土に膝をつく者もいた。だが、誰の顔にもあったのは恐怖ではない。

歓喜でもない――畏敬だった。

それは、明確に彼に向けられたものだった。


カールは吹きさらしの高台に立った。

血塗れの外套のまま、馬上ではなく、自らの足で。その姿は、神話から抜け出た彫像のようだった。寒風に揺れる金髪が、沈みゆく灰色の空を背景にして、まるで王冠のように輝いて見えた。

彼は誰の助けも借りず、その場に立ち、そして――口を開いた。



「スウェーデンの兵よ!」


彼の声は高らかだった。だが、感情の波に流されることなく、凛としていた


「今日、我らは神と祖国の名のもとに勝利を得た」


沈黙。兵たちが息を呑んだ。


「敵は我らの四倍。だが諸君らは屈しなかった」


カールは剣を掲げた。


「それが、スウェーデンの魂だ」


雷鳴のような歓声が上がった。


私は、王を見上げた。

今、私はこの瞬間のために生きていたのかもしれない。この王に仕え、この声を聞くために、命を賭けてきたのかもしれないとさえ思った。


「住民よ、リヴォニアの人々よ」


カールは振り向き、戦火を逃れたナルヴァの人々に向き直った。彼らは震えながら、泥と血に染まった地に並んでいた。老いた者も、母も、子も。


「余を信じよ。余がいればもう苦しむことはない。」


人々の中から、嗚咽が漏れた。若い母親が、子を抱いて涙を流していた。

私は、その光景を見つめていた。

ああ、この男は――

王である以前に、「運命」そのものなのだ、と。

カール十二世。その声、その姿、その決意。この瞬間、私は疑いようもなく確信した。


この人こそ、北の獅子。神に選ばれし者。世界に冠たるスウェーデンの象徴。

今思い返すならば、この瞬間が、彼の人生の最大の栄光であった。そしてこの瞬間を見届けられたことが、私の一生の誇りである。


今でもあの時の栄光は、一枚の絵画のように頭の中に美しく刻まれている。

私は膝をつき、剣を地に突き立てて頭を垂れた。



同時刻モスクワ・冬宮

報告書を叩きつける音が、広い部屋に響いた。


「吹雪が、だと……?」


ピョートル一世は誰の顔も見ていなかった。ただ、地図を睨んでいた。沈黙が長く続いた。


「……違う。天のせいではない」


彼は深く座り、指を組んだ。顔には怒りではなく、ある種の敬意があった。


「あいつは……天候を読み、"戦術"に変えたのか」


彼は乾いた笑いを浮かべた。だが、その目の奥は冷たく、全く笑っていなかった。


「あの若王にしてやられたな……ったく、別に舐めたつもりはなかったんだがな……」


彼は、この敗北を敗北のまま終わらせるつもりはなかった。


「ツァーリ……」


ピョートルは突如立ち上がり、彼を呼び止める側近たちを振り払いながら宮中を出て、一人で歩き出した。


「俺の野望のためにも本気でいかねぇとなこれは」


彼はそうとだけ言い残し、その巨体で扉を押し開け、暗闇へと消えていった。



それまで祝福のように舞っていた雪が、突然冷たくなった。

悪寒が体を襲った。

私は顔を上げた。

そして、見た。


誰もがひれ伏す中、ただ一人、カールは立ち尽くしていた。王はそのまま、遠く東の地平線を――誰も見ていない場所を、見つめていた。

それは、勝利の余韻ではなかった。誇らしさでも、安心でもなかった。


あの目は――

冷静さを装った、恍惚の瞳。

それは私にしか分からない。あの日、氷の川を渡った時の瞳。コペンハーゲンで敵王を屈服させた時の瞳。そして今——


今思えば、それはまるで何かに吸い寄せられるように思えた。勝利にではない。戦そのものに。その深奥にある、名も、血も、歴史さえも飲み込む"力"に。

そんな彼に、私は胸の奥に小さなざわめきを覚えた。


一年前、私はそんな彼に興味を抱き、忠誠を誓った。しかし、今この瞬間は違った。

私にあったのは、言葉にできぬ、微かな違和感だった。


吹き抜ける風が、まるで遠い戦の匂いを運んできたかのように。

だが私は、その意味を深く考えることはなかった。王は勝利を見ているのだろう、と――その時は、ただそう思っただけだった。


雪が静かに、地を覆いはじめていた。



第一章・完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ