第12話 栄光の時
それは晩秋だった。
ストックホルムの街路樹は黄金色に染まり、収穫祭の笑い声が響いていた。デンマークを屈服させたカール十二世の凱旋から三週間。街は、まだ勝利の余韻に浸っていた。
だが、突如国を揺るがす報告が東から報が届いた。
ロシア軍、四万。ナルヴァへ向かっている、と。
王宮の空気が、凍りついた。
カールは、その報を聞いても表情を変えなかった。ただ、地図を見た。
「準備を急げ」
彼が言った。
「ナルヴァの救援に向かうぞ」
祝宴は、そのまま終わった。
三日後、私たちは再び海を渡っていた。
冬の海は、荒れていた。波が船体を打ち、しぶきが甲板を洗った。兵士たちの顔には、疲労が刻まれていた。デンマークからの帰還、そして休む間もない出陣。
だが、誰も文句を言わなかった。
カールは、常に甲板に立っていた。風に髪を吹かれながら、東を見つめていた。
私は、その背中を見つめていた。
「陛下」
私が声をかけると、彼は振り返った。
「ロシア軍は、四万だと聞いております。我らは——」
「八千だ」
彼は即答した。
「五倍か」
私が呟くと、彼は——笑った。わずかに、だが確かに。
「速度を重視した結果、初日に動員できたのはこれだけだ。
だが諸君らも分かっているだろう。戦は、数ではない」
その目には、確信があった。
「余は、あの男を知っている」
「……?」
「ピョートル。まだ少年だったころ、一度だけ会った」
彼は海を見た。
「あれは、戦場に立たない」
それだけだった。それ以上、彼は何も語らなかった。
ナルヴァは、バルト海に面した要塞都市だった。
古い石造りの城塞が、川を挟んで立っていた。その周囲には、広大な雪原が広がっていた。遮蔽物は、ほとんどなかった。
ロシア軍は、その雪原に陣を張っていた。
私は、高台からその光景を見た。黒い幕舎が、果てしなく続いていた。長い戦列。大砲。旗。四万という数が、雪原を埋め尽くしていた。
「……」
言葉が出なかった。
レーネが、隣に立った。
「……陛下は、本気でこれを叩くおつもりだ」
彼の声は、震えていなかった。ただ、重かった。
「我らは、八千です」
私が言った。
「五倍の敵を、どうやって——」
「陛下は、何か見えているのだろう」
レーヴェンハウプトが言った。その声には、諦めと、わずかな期待が混じっていた。
「見えているのか、それとも——」
彼は言葉を切った。
その夜、軍議が開かれた。
カールは、地図の前に立った。そこには、ナルヴァ周辺の地形が描かれていた。川、雪原、そしてロシア軍の布陣。
カールが地図の前に立った。
長い沈黙の後、彼は一点を指した。
「ここだ」
将軍たちが身を乗り出した。それは敵陣の左翼だった。
「敵は陣を広げすぎている。四キロに四万。薄い」
レーネが眉をひそめた。
「薄くとも、四万は四万です」
「薄ければ——崩せる」
カールの目が光った。
「一点を突けば、全体が崩壊する」
カールは、地図の一点を指した。
「ここだ。敵陣の左翼。ここが最も薄い。ここを突けば、敵陣は分断される」
「どうやって、そこまで近づくのです」
レーヴェンハウプトが聞いた。
「雪原には遮蔽物がない。我らが動けば、すぐに見つかります」
「吹雪だ」
カールが言った。
「……?」
「明日、吹雪が来る」
彼は窓の外を見た。
「風向きが変わった。気圧が下がっている。明日の午後、吹雪が来る」
レーネとレーヴェンハウプトは、顔を見合わせた。
「その吹雪に紛れて、敵陣左翼へ接近する。視界がなければ、敵は我らを見つけられない」
「……もし、吹雪が来なければ?」
「来る」
カールは即答した。その目には、一片の疑いもなかった。
「余は、天を読む。吹雪は、来る」
室内が、静まり返った。
アームフェルトが、初めて口を開いた。
「……陛下は、天すらも味方につけるおつもりですか」
カールは、彼を見た。
「余が天を読むのではない。天が、余に語りかけるのだ」
その言葉に、私は背筋が冷たくなった。
翌日の午後、吹雪が来た。
風が唸りを上げ、雪が空を覆った。視界は、ほとんどなくなった。
兵士たちは、息を呑んだ。
「……本当に来た」
誰かが呟いた。
「陛下は、本当に——」
カールは、馬に乗った。
「全軍、準備!」
その声が、吹雪の中で響いた。
「敵陣左翼へ向かう。三列縦隊。距離を詰めろ。音を立てるな」
私たちは、静かに進んだ。雪が顔を打った。寒さで指が感覚を失っていった。だが、進んだ。
吹雪の中、敵陣が見えてきた。幕舎が、ぼんやりと浮かんでいた。哨戒兵が立っていたが、吹雪で前が見えていなかった。
私たちは、さらに近づいた。百メートル。五十メートル。三十メートル。
誰も、気づかなかった。
カールが、剣を抜いた。
「今だ! 突撃!」
その声が、氷原を裂いた。
私たちは、叫びと共に走った。
敵は、完全に混乱していた。
四キロに渡って薄く展開していた陣形は、一点への集中攻撃に耐えられなかった。命令系統が寸断され、左翼の部隊は孤立した。
火薬は、吹雪で湿っていた。大砲は、火が点かなかった。銃も、使えなかった。
白兵戦になった。
私は剣を振るった。凍てついた鎧が砕け、鮮血が雪に舞った。叫び声が響いた。誰の声かも分からなかった。
横で、若き騎士が倒れた。私は彼を抱えて、後衛に戻した。その顔は、まだ少年のようだった。
前線では、カールが馬上で指揮していた。
「左へ回り込め! 敵を分断しろ!」
彼の声は、雷のように響いた。白い嵐の中にあって、彼だけが明瞭だった。
私たちは、敵陣を左から右へと切り裂いた。ロシア軍は、真っ二つに分断された。左翼の部隊は、川へ追い詰められた。
橋が、あった。ロシア兵が、そこへ殺到した。
だが——
「橋を落とせ!」
カールが叫んだ。
工兵が動いた。橋の支柱に火薬を仕掛けた。爆発音が響いた。
橋が、崩れ落ちた。
ロシア兵が、川に落ちた。叫び声が、水音に変わった。それから、沈黙した。
右翼の部隊は、退却を始めた。だが、吹雪の中で方向を失い、散り散りになった。
ピョートルの野望が、雪と血に沈んでいくのを見た。
私は、白い吹雪の中で、それを見ていた。
今でも鮮烈に、あの時の記憶が蘇る。
それは、あまりにも鮮やかな勝利だった。
四倍もの兵力差を誇る相手を、ここまで完膚なきまでに、少ない犠牲で打ち破った例は、歴史を見回しても稀だった。それこそが、後に彼の栄光として語り継がれることになる「ナルヴァの戦い」であった。
カールは、天候を読み、敵の布陣の弱点を見抜き、一点集中で敵を分断し、橋を落として退路を断った。
それは、完璧な作戦だった。
戦が終わったあと、雪の音が戻ってきた。火薬の匂いと血の熱に満たされた戦場に、ふたたび風の唸りが満ちていく。
ナルヴァの砦の丘に、スウェーデン軍の青と金の旗が立った。
兵たちはまだ息を荒げていた。剣を下げ、兜を脱ぎ、泥と凍土に膝をつく者もいた。だが、誰の顔にもあったのは恐怖ではない。
歓喜でもない――畏敬だった。
それは、明確に彼に向けられたものだった。
カールは吹きさらしの高台に立った。
血塗れの外套のまま、馬上ではなく、自らの足で。その姿は、神話から抜け出た彫像のようだった。寒風に揺れる金髪が、沈みゆく灰色の空を背景にして、まるで王冠のように輝いて見えた。
彼は誰の助けも借りず、その場に立ち、そして――口を開いた。
「スウェーデンの兵よ!」
彼の声は高らかだった。だが、感情の波に流されることなく、凛としていた
「今日、我らは神と祖国の名のもとに勝利を得た」
沈黙。兵たちが息を呑んだ。
「敵は我らの四倍。だが諸君らは屈しなかった」
カールは剣を掲げた。
「それが、スウェーデンの魂だ」
雷鳴のような歓声が上がった。
私は、王を見上げた。
今、私はこの瞬間のために生きていたのかもしれない。この王に仕え、この声を聞くために、命を賭けてきたのかもしれないとさえ思った。
「住民よ、リヴォニアの人々よ」
カールは振り向き、戦火を逃れたナルヴァの人々に向き直った。彼らは震えながら、泥と血に染まった地に並んでいた。老いた者も、母も、子も。
「余を信じよ。余がいればもう苦しむことはない。」
人々の中から、嗚咽が漏れた。若い母親が、子を抱いて涙を流していた。
私は、その光景を見つめていた。
ああ、この男は――
王である以前に、「運命」そのものなのだ、と。
カール十二世。その声、その姿、その決意。この瞬間、私は疑いようもなく確信した。
この人こそ、北の獅子。神に選ばれし者。世界に冠たるスウェーデンの象徴。
今思い返すならば、この瞬間が、彼の人生の最大の栄光であった。そしてこの瞬間を見届けられたことが、私の一生の誇りである。
今でもあの時の栄光は、一枚の絵画のように頭の中に美しく刻まれている。
私は膝をつき、剣を地に突き立てて頭を垂れた。
同時刻モスクワ・冬宮
報告書を叩きつける音が、広い部屋に響いた。
「吹雪が、だと……?」
ピョートル一世は誰の顔も見ていなかった。ただ、地図を睨んでいた。沈黙が長く続いた。
「……違う。天のせいではない」
彼は深く座り、指を組んだ。顔には怒りではなく、ある種の敬意があった。
「あいつは……天候を読み、"戦術"に変えたのか」
彼は乾いた笑いを浮かべた。だが、その目の奥は冷たく、全く笑っていなかった。
「あの若王にしてやられたな……ったく、別に舐めたつもりはなかったんだがな……」
彼は、この敗北を敗北のまま終わらせるつもりはなかった。
「ツァーリ……」
ピョートルは突如立ち上がり、彼を呼び止める側近たちを振り払いながら宮中を出て、一人で歩き出した。
「俺の野望のためにも本気でいかねぇとなこれは」
彼はそうとだけ言い残し、その巨体で扉を押し開け、暗闇へと消えていった。
それまで祝福のように舞っていた雪が、突然冷たくなった。
悪寒が体を襲った。
私は顔を上げた。
そして、見た。
誰もがひれ伏す中、ただ一人、カールは立ち尽くしていた。王はそのまま、遠く東の地平線を――誰も見ていない場所を、見つめていた。
それは、勝利の余韻ではなかった。誇らしさでも、安心でもなかった。
あの目は――
冷静さを装った、恍惚の瞳。
それは私にしか分からない。あの日、氷の川を渡った時の瞳。コペンハーゲンで敵王を屈服させた時の瞳。そして今——
今思えば、それはまるで何かに吸い寄せられるように思えた。勝利にではない。戦そのものに。その深奥にある、名も、血も、歴史さえも飲み込む"力"に。
そんな彼に、私は胸の奥に小さなざわめきを覚えた。
一年前、私はそんな彼に興味を抱き、忠誠を誓った。しかし、今この瞬間は違った。
私にあったのは、言葉にできぬ、微かな違和感だった。
吹き抜ける風が、まるで遠い戦の匂いを運んできたかのように。
だが私は、その意味を深く考えることはなかった。王は勝利を見ているのだろう、と――その時は、ただそう思っただけだった。
雪が静かに、地を覆いはじめていた。
第一章・完




