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1. 四天王最弱の治癒師

「奴は四天王の中でも最弱。いや、魔王軍の恥だ」


 石の床に膝をつく俺を、筆頭グラドスが見下ろす。深緑の長髪の下、痩せた長身の影と捻じれた角が昼の玉座の間に伸びている。床の冷たさは、もう膝では感じなくなった。


 剛力、幻術、猛毒。居並ぶ同僚の中で、俺に使えるのは治癒ひとつ。


 しかも魔族の体には効きが悪く、擦り傷を塞ぐのに半日かかる。


 十年、治りが遅いと舌打ちされてきた。手をかざしている間じゅう、患者の貧乏揺すりが膝に伝わってくる。あれが俺の仕事の音だ。剛力も幻術も目を逸らす。幹部たちの向こう、玉座は毛布の山だ。寝息に合わせて、端が小さく上下する。昨夜かけた治癒で、陛下はまだ眠っておられる。あの毛布が静かなままなら、それでいい。今夜の手のことだけは、言っておかないと。


「筆頭、陛下の今夜の治癒は、誰がなさるんですか? 今夜も、手をかざす者が要ります。それだけは、決めておかないと――」


 黄緑の目が細まり、筆頭が薄く笑った。こけた頬と高い鷲鼻が近づく。


「陛下の裁可は、筆頭の我が代わる。貴様はクビだ。擦り傷に半日かかる治癒など要らぬ。治るのを待つ間に、戦は終わるであろう。我は軍を待たせる者を養わぬ」


 紫の爪が左の角を掴み、根から折る音が乾いて響いた。頭の芯まで音が抜け、痛みは遅れてやって来る。


 ぐわぁぁぁ……。


 筆頭は黒い欠片を床へ落とす。


「最弱に角は二本も要るまい」


 折れた角より先に、いつもの返事が出た。


「……はい」


 筆頭の薄い笑いが、幹部たちのほうへ向く。


「聞いたか。返事だけは一人前だ」


 水も食料も持たされず、城門を出た。門の内側の天幕で、今朝包帯を替えたばかりの兵がこちらを見て、目を伏せる。替えの包帯の場所を言い残す暇も、なかったな。


       ◇


 その夜、玉座の毛布の山が動いた。幹部たちを並べた筆頭の前で、魔王の声がする。


「ゼフトはどこじゃ? 余は、眠れん」


 筆頭は薄く笑い、頭を下げる。


「クビにいたしました。奴は最弱ゆえ、陛下のおそばに置くには及ばぬ者でございます。軍の進みに支障はございません」


 毛布が玉座の端までずれる。魔王が欠伸をした。


「ほう。軍は進んでも、余は眠れん。では今夜、誰が余を眠らせるのじゃ?」


 筆頭の口が、薄い笑いの形のまま止まる。幹部たちの鎧だけが鳴った。毛布の中から命が飛ぶ。


「貴様が歌え。子守唄じゃ。筆頭であろう。兵は動かせても、余は寝かせられんのか?」


 筆頭は半開きの口を幹部たちへ向けた。誰も動かない。やがて号令のような低い歌声が石の壁に響く。毛布は動かない。


       ◇


 三日後の昼、国境の森で、水たまりを舐めようとして倒れた。落ち葉の湿った匂いが鼻に入る。腹はとうに鳴るのをやめている。映っている藍色の髪は、寝癖ごと襟足で括ってある。金色の目は縦に細い。垂れ目の隈に泥までついて、細面がますます頼りない。左の角は根だけだ。水たまりは、そこまで正直に映さなくていい。


 赤い一つ結びが、頭の上から覗き込む。白い頭巾の娘は、金の三つ編みを揺らして後ずさる。それから赤毛の娘の袖を引いた。


「魔族です! 角が! 離れてください、リュッカさん! 人間の街道で寝ている理由が分かりません!」


「折れてるじゃん。痛そう。角より先に顔を見てよ。あたしたちを見上げるのだって、やっとじゃん。立てないんでしょ?」


 そばかすの鼻に皺を寄せるリュッカを見て、娘が帳面を抱え直す。


「教義では、魔族を助けては――。わたしは聖女なんですよ! リュッカさん、聞いてますか?」


「行き倒れは拾う。あたしが決めた。なら見ててよ、助けるところまで! 立てない相手を、魔族だからって置いていけないでしょ?」


「置いていけないのは分かります! でも、助け方にも順序があるんです!」


「なら最初に助ける。次にあたしを叱る。ほら、ちゃんと順序どおり!」


 緑の目が真っすぐこちらを向いた。娘は盾を背負った老兵へ振り返る。


「ドーガさんも何か言ってください! リュッカさんは、決めると聞いてくれないんです!」


「……粥なら、余っとる」


 娘の「もう!」が森に響く。沢のそばへ運ばれ、粥の椀を持たされた。椀が温かい。誰かに食べ物を渡されるのは、いつ以来だろう。誰も、早くしろとは言わなかった。名を訊く娘に、かすれた声で答える。


「ゼフト、です。粥まで頂いて……聖女殿、そんなに離れなくても、噛みませんよ。頂いた粥のお礼に噛んだりはしません」


「噛まないってさ。ほらフィネア、もう一歩こっち。あたしが見てる」


「い、一歩だけですよ! 一歩だけですからね! 勝手に次の一歩まで決めないでください!」


 聖女はフィネア、盾の老兵はドーガ。赤毛の娘が勇者リュッカだと、聖女が教えてくれた。魔王軍が追っている勇者に、粥をもらっている。リュッカが小柄な体を乗り出し、空の傷薬の瓶を振った。引き締まった日焼けの腕に傷あとが多い。この三人、回復役がいないのか。


       ◇


 その晩、薪を拾いに行ったリュッカを、ドーガが担いで戻った。牙猪(きばじし)に腹を裂かれ、血が出ている。昼にあれだけ喋った口が、閉じている。盾を置くドーガの声は低い。


「死人の顔色だ」


 フィネアの祈りが腹へ落ちる。光は腹の上で消えた。色白の丸顔から、さらに色が抜ける。小さな鼻が震える。すみれ色の目を見開いて、彼女が首を振る。


「わたし、擦り傷しか……塞げないんです……。お願いです、止まって、傷だけでも……! リュッカさん、返事をしてください!」


 帳面を開こうとする、墨の染みた手が震えた。俺の視界まで白くなる。血は苦手だ。膝で寄り、長い指を伸ばして腹へ手をかざした。


「はい息を吸って。勇者殿、新しい傷です。腹を押さえる手を退けて、こちらを見てください。返事は要りません」


 半日かけるつもりだ。そこまで、もってくれ。薄い脈が、手の下で跳ねる。手のひらが熱い。いつもなら、ぬるい湯ほどの熱が、じわじわと相手へ染みていくだけなのに。


 ――三つ数える前に、勇者は立ち上がって走っていた。


「……え、何これ。前より元気なんだけど」


 ドーガが後を追い、腕を伸ばす。


「嬢ちゃん、走るな。腹が――」


「傷がないの! ドーガ、見て、ほら! 止まって見せたいのに、脚が走りたがる!」


 焚き火の向こうでリュッカが跳ねる。裂けた服の下の腹には、傷あとひとつ残っていない。空になった手のひらを裏返した。いつもなら、ここで舌打ちが来る。聞こえるのは、もう痛くない、と笑う声だけだ。この手で、笑う声を聞けるとは思わなかった。


 魔族の治癒は、人間には効きすぎる。


 茂みが割れる。追ってきた牙猪だ。リュッカが剣を掴んだ。傷あとだらけの腕が振れる。剣の腹で鼻面を打つ。悲鳴を上げ、牙猪は森へ逃げ帰った。剣を収めた彼女が、俺の前で止まる。


「あなた、今日からうちの子ね。うちで一番偉いのは回復役だから」


「待ってください。僕は戦えませんし、さっきも血を見て倒れかけたんですけど。それでも、ここにいていいんですか?」


「回復役でしょ?」


 差し出す手に、膝が固くなった。けれど、折れた角を避けた手が掴むのは、俺の袖だ。焚き火の煙と、汗の匂いが近い。手のひらにはまだ、彼女の脈の感触が残っている。俺は、引かれた袖のほうへ立った。今度の返事は、膝をつかずに言える。


「……はい」


 フィネアが折れた角と俺の手を見比べ、帳面を持ち上げる。


「祈りでも薬でもないのに、三つも数えないうちに……! わたし、帳面が間に合いません! あ、あなた、何者なんですか?」


「四天王最弱の治癒師です。人間に使ったら、死人が走りました」

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