第八話 ラグルスの記憶(前編)
――白き霧に包まれた世界。
そこは神々の座す神界。幾千もの光柱が天と地を繋ぎ、永劫の調和を保つ場。
ラグルスはその中でも「上位神」として数多の世界を統べる立場にあった。
長い黒髪を後で軽く纏め、切れ長の黄金の瞳がやけに冷たい。周囲の神々が自然と半歩退くのは、背丈のせいだけではなかった。
彼に与えられた使命は、各世界に派遣された神々を監督し、滅びゆく星々を導くこと。
幾度も任務を果たし、冷徹に役目をこなしてきた――はずだった。
《アルマルドの地が危うい》
ある時、上位の神々より告げられた。
人間が魔族と魔物に追い詰められ、数世代も経たずに滅びるだろうと。
派遣されるのは、若き女神イーリア。
金の髪に碧い目。小柄で、どこからどう見ても戦場に立つ器ではない。なのに彼女がいると、不思議と周りの空気が明るくなった。
だが神としては未熟で、その在り方すら危うい。
教育を兼ねるために、一時的にラグルスも同行することとなった。
「……わかった。見届けよう」
ラグルスはそう答え、神界の光を背にアルマルドへ降り立った。
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彼らを迎えたのは、血の匂いと哭き声が満ちる荒野だった。
人間の集落は炎に呑まれ、魔物たちの咆哮が夜を支配していた。
確かに、このままでは人の種族は滅ぶ。
イーリアはまだ幼さを残す表情で、それでも毅然と声を上げた。
「ラグルス様!人々を救おう!私達ならできるよね!」
その真っ直ぐな眼差しに、ラグルスは僅かに息を呑んだ。
(未熟だ。だが、だからこそ迷いなく言えるのか)
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人を守るためには、ただ神が魔物を祓うだけでは足りない。
「よいか、イーリア。最終的には我々神がいなくてもこの地が滅びぬように、まずは人間の友を創るぞ」
神無しでもこのアルマルドの地が平和を保てるように、力なき人間を補う同胞が必要だった。
「わかったよ!う~ん。せっかくならかわいい種族がいいかな?」
少しとぼけたことを言うイーリアにラグルスは冷たく言い放つ。
「真剣に考えろ。遊びではない」
幾重の話し合いののち、ラグルスとイーリアは神力を注ぎ、新たなる種族を生み出す。
獣人族――力と敏捷を兼ね備え、群れを率いる勇敢なる戦士たち。
エルフ族――森に溶け、自然と対話し、長命にして賢者となる民。
龍人族――結界を操り角と尾を持つ、誇り高き血脈。
「うまくいったね。ラグルス様! なんかこうやって二人で頑張って創り出したって考えると、二人の子供みたいだね」
無邪気に言うイーリア。
「……冗談を言うな」
ラグルスとしては、調子の狂う思いばかりであったが、この明るく無邪気な女神に悪い気はしていなかった。
あらたな種族が誕生したことで、人間は孤独ではなくなった。
彼らは人間を守り、時に互いに支え合い、魔物へ抗う力を培っていった。
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「見てみて、ラグルス様! あっちにも村ができてきたよ!」
イーリアの頬が嬉しげに綻ぶ。
新たな種族を創ってから数十年。
アルマルドに降り立った時には、小さな集落が点々とあるだけであったが、二人の神や新たな種族の尽力もあり、人々は村を造れるほど安定した生活を送れるようになってきていた。
「安定してきたな。そろそろ、新たな段階へ進んでも良いだろう」
ラグルスとイーリアはそれぞれの種族の代表者に神の力を与え守護者とした。
神々の代行者として、彼らが前線に立ち、神器を振るい人々を守る楯となる。
それはやがてアルマルドの秩序を形作り、滅びは遠のいた。
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歳月が流れる。
各種族の守護者はそれぞれの領域を護り、街道は繋がり、村には夜が安全に訪れるようになっていた。
「ラグルス様! ねぇ、まだ神界に戻らないよね!? ここまで一緒にやってきたんだから、まだこのアルマルドを見守っていこうよ!」
イーリアが無邪気な笑顔を浮かべる。
ラグルスは短く答えた。
「……あと少しだけだ」
そう言いながらも、実際には幾度も帰還の機会があった。
イーリアが判断を誤れば支えるために残り、新たな村ができれば落ち着くまで見守り、各種族の摩擦が起これば調停に赴いた。
気づけば、そのどれもが「少しだけ」のつもりだった。
だが、イーリアが嬉しそうに笑う姿を見ていると、どうしてもその背を置いていくことができなかった
。
彼女が一人前の神として自立していることは理解している。
だが、それでも。
神界へ戻る時期は、気づけば幾度も先送りになっていた。
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ある日、ラグルスとイーリアは森の深部で異様な光景を目にした。
十にも満たぬ人間の少年が、己の身ひとつで魔物を屠っていたのだ。
手にしたのは枝を削っただけの槍。痩せた身体と乱れた黒髪は泥と血にまみれ、裸足は傷だらけ。
だが、その瞳――黒曜石の濁りのない瞳には、怯えよりも鋭い光が宿っていた。
その一撃は蛇の鱗を貫き、狼の首を斬り裂く。
無邪気な笑みを浮かべながら。
「すごい……!」
イーリアは思わず声を漏らした。
あどけない少年の背に、血飛沫が舞う。
その光景に、ラグルスは目を細める。
(十歳そこらの人間が……)
やがて戦いを終えた少年がこちらを振り返った。
汗に濡れた髪の隙間から、輝く瞳がのぞく。
「ねえ、あなたたち、人間?」
その問いかけに、イーリアは思わず駆け寄った。
「君、どこから来たの?」
イーリアが膝を折り、視線を合わせる。
「森。前も、もっと前も」
少年は首を傾げ、にこりと笑った。
怯えは薄い。無邪気と飢えだけが、その瞳に定着している。
少年の名は――ウィアード。
両親は魔物に殺され、村からも遠く離れた森で独り生き延びていたという。
人懐っこく笑うが、時折どこかずれた言葉を放つ。
「お母さんもお父さんも食べられちゃった。でも僕は大丈夫だった。だって、魔物のほうが弱かったから」
普通の子供なら涙と共に語るはずの記憶を、彼は笑いながら言った。
その無垢な残酷さに、ラグルスは瞳を細める。
「……放って置けないよ」
イーリアは迷わずそう言った。
「この強さ……利用価値がある」
ラグルスは冷静に応じたが、イーリアの意思を尊重する気持ちがあった。
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森で出会ったウィアードを、二人は神の居城へ連れ帰った。
両親が死んでから初めて暖かな屋根の下に入った少年は、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回す。
毛皮の敷かれた床を踏みしめ、窓から射す光を手で掴もうとする姿は、まるで幼い獣のようだった。
「ここに住んでいいんだよ。もう一人じゃないからね」
イーリアは膝をつき、少年に微笑んだ。
差し出された手に、ウィアードは首を傾げながらも小さな手を重ねる。
その笑顔は屈託がなく、けれど瞳の奥はどこか冷えていた。
「……腹が減っているな」
ラグルスが言うと、イーリアがぱっと顔を輝かせる。
「じゃあ私がご飯作る! ウィアード、魚は好き?」
「食べられるなら、なんでもいい」
あまりに無造作な返答に、イーリアは小さく眉を曇らせた。
やがて食卓に並んだのは焼いた魚と根菜のスープ。
イーリアは楽しげに説明する。
「これはエルフのお姉さんが教えてくれたの。森の実を入れると甘くなるんだよ!」
ウィアードは黙々と口に運び、しばし黙ってから呟いた。
「……うまい。魔物の肉より、ずっと」
その一言に、イーリアは胸を撫で下ろし、ラグルスは黙して瞳を細めた。
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日々は穏やかに過ぎていった。
イーリアは母のように衣を繕い、読み書きを教え、夜には歌を口ずさんで眠りを誘った。
ラグルスは剣を握らせ、鍛錬を行い武を鍛えた。
次第にウィアードは年相応の少年らしい笑顔を見せるようになった。
「イーリア様! また焼き魚と根菜のスープ作ってよ!」
「また? ウィアードはそればっかり!」
「だって、初めてイーリア様が作ってくれた料理だし、美味しかったんだ!」
「もう~……じゃあ、特別だよ!」
頬を膨らませながらも、嬉しそうに鍋を抱えるイーリア。その様子を見ていると、ラグルスはふと何かが温かくなるのを感じた。
――ある日。
「ラグルス様! 獣人のみんなと魔物の群れを倒したんだ!」
息を弾ませながら、ウィアードが誇らしげに報告してきた。
「一人で二十体もやっつけたんだよ!」
ラグルスは思わず眉をひそめた。
「また勝手な真似を……。軽率だ」
叱責の言葉。しかしその声音には、僅かな安堵が混じっていた。
無茶をしたはずの少年は、傷一つ負っていない。鍛え上げた剣筋は既に獣人の熟練戦士に匹敵している。
「でもね、ラグルス様! 獣人の戦士が『あの子は頼もしい』って褒めてくれたんだ!」
横でイーリアが満面の笑みを浮かべる。
「すごいよね! もう立派な戦士だよ!」
「……調子に乗るな。次は必ず我に報告してから動け」
そう口にしながら、ラグルスの口の端は僅かに上がっていた。
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「ウィアード、すっかり馴染んできたね」
イーリアが微笑む。焚き火に照らされた横顔は、どこにでもいる村娘と変わらなかった。
「お前のお陰だろうな。我は武を与えただけだ」
ラグルスはそっけなく答える。
「ふふっ、素直じゃないなぁ」
イーリアは肩を揺らして笑った。
「でも、なんだか家族みたいで嬉しいね」
「家族?」
ラグルスは思わず聞き返した。
「うん。……ずっと一人で戦ってきた子が、ここで笑えるようになったんだよ? 見守ってると、どうしてもそう思っちゃうんだ」
イーリアの眼差しは優しく揺れていた。
「……お前は甘すぎる。神が人に心を寄せすぎれば、判断を誤るぞ」
「ううん。私は間違ってないよ」
イーリアは真っ直ぐに見つめ返す。
「だって、救うために来たんだもの。人を守るって、ただ命を繋ぐだけじゃないよね?
笑って生きられるようにしてあげたい。……私はそう思うんだ」
言葉がするりと胸に差し込む。
ラグルスは視線を逸らし、わずかに低く呟いた。
「……相変わらず、無駄に前向きな女神だ」
「え?無駄ってなにさ!」
イーリアが膨れっ面で笑う。
ラグルスは答えず、ただその横顔から目を離せずにいた。
「……こんな時間がずっと続けばいいね、ラグルス様」
その願いを聞きながら、ラグルスは初めて神界に戻りたくないと、心の底から思っていた。




