第七話 死の恐怖
足がもつれながら、ただ闇雲に走った。
気づけばセリアは、自分が最初に目を覚ました洞窟へと戻っていた。
「はぁ、はぁっ……!」
岩盤に倒れ込む。神の身体が早くも傷を癒していくのを感じるが、心はそうはいかない。
胸を締めつけるのは痛みではなく圧倒的な敗北の記憶だった。
傷が癒えることが、かえって恐ろしい。どれほど回復できても――またあの拳を受けたら、生きてはいられない。
《逃げ切れただけ、上々だ》
ラグルスの声は、意外にも淡々としていた。
「……怒らないんだな」
《お前の炎纏いは不完全。あやつに通じぬことは、最初からわかっていた》
「だったら、止めてくれても良かっただろ……。死ぬところだった……!」
怒りとも悔しさともつかない言葉がこぼれる。
だがラグルスは断言する。
《死線を越えねば完成せぬ。それこそが炎纏いの試練だ》
胸の奥に悔しさと恐怖がせめぎ合い、心臓が暴れる。
「あの巨人が、上位の魔物か……」
うめくように呟いた。
《勘違いするな。あれは雑魚ではないが、この迷宮においては弱者の側だ》
「……っ!」
セリアの思考が一瞬で凍りつく。
岩盤を砕く拳を振るった、あの巨体が……弱者?
頭の中でガラスが砕け散るような音がした。
――ここからは、出られない。
そう確信してしまうほどの絶望が、全身を支配した。
あの巨人ですら弱者。ならば、その先に待つ「魔人」とは――。
《……この程度で立ち止まっている時間などないぞ。炎纏いはまだ完成しておらぬ》
ラグルスの声は冷酷だった。
「じゃあ、死ぬまで戦えってのかよ! 勝てるわけない……!」
声が震え、涙がこみ上げる。
《まさか、たかが一年で、この迷宮の上位を前に生きて帰れると思ったか?》
「……っ!」
心を抉られるような言葉に、思わず息が詰まる。
《言ったはずだ、ここを出るには百年だと。お前がここで過ごしてきた時間など、そのたった足先程度に過ぎぬ》
「百年……」
その数字は重く、同時に遠い希望のでもあった。
《その年月が、お前を鍛える。その先にある強さは、お前の想像を超えるだろう》
ラグルスの激励とも取れる言葉。
しかし、少しの間を置いてラグルスは言い放つ。
《――死ななければ、の話だがな》
思わず、セリアは苦笑をこぼす。
「ははっ、結局それかよ……」
ラグルスのいつもの調子に力なく笑う。
だがその時、心の奥底で何かがわずかに燃え残っているのを感じた。
震える掌に意識を込めると――
――ボウッ
小さな炎が揺らめいた。
それは、折れきれずに残った執念の火種。
吹けば消えてしまいそうに弱々しく、それでも確かにそこに在った。
「……まだ、出せる」
呟きと同時に、巨人の拳が脳裏をよぎる。視界を白に染めた衝撃と痛み。
足が震え、喉がひりついた。
「……でも、怖いんだ。次は、本当に死ぬかもしれない……」
《……そうだろうな。だが恐怖を抱えたままでは、炎纏いは決して完成せぬ。あの巨人には挑まねばならない》
ラグルスの声音は静かだが、揺るぎない。セリアの心に針のように刺さる。
「でも、死ぬのは嫌だ……!」
《ここから出たくはないのか?》
ラグルスの問いかけに、セリアは視線を逸らす。
「出たいよ! 出たいに決まってる! でも……あの拳を思い出すだけで、まだ足が震えるんだぞ!」
この迷宮から出たいという思いは強い。しかし、あれほどの力の差、死の恐怖を味わってなお、また死地に向かうほどのものではない。
《……だがお前には戦ってもらわねばならぬ》
「なんでだよ!そりゃ最初は生きるため、ここから出るためにあんたの言うことを聞いて頑張ってきたさ!でも死にかけたんだ!これ以上戦って死んだら本末転倒だろ!?それとも、あんたの復讐とやらに命を賭けて付き合えっていうのか!?」
怒りと恐怖が混じった叫びが洞窟に響く。
《その通りだ。お前を創ったのはそのためだからな》
冷徹な言葉に、セリアは歯を食いしばる。
「知ってるよ! でもどう生きるかは、わたしの勝手だ!」
吐き捨てるように言い返す。
《……その通りだ。お前が望まぬなら、強いることはできぬ。だが――》
《ちょうどいい機会だ。我が力もごく僅かだが戻ってきたところ》
「それが、何だよ?」
セリアは眉をひそめる。
《我が憎しみの記憶を、お前に見せよう》
その言葉と同時に、胸の奥から淡い光が滲み出した。
――脈動。熱。耳鳴り。
光は呼吸と同じリズムで広がり、やがて視界を覆い尽くす。
「な、なにこれ……っ!」
叫びは白に飲み込まれ、音すらも消えていく。
《見よ。我が歩んだ過去を――忘れ得ぬ憎悪を》
閃光が爆ぜ、世界は反転した。
次にセリアが見たのは、自分ではない誰かの眼に映る光景だった――




