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第八話 ラグルスの記憶(後編)

アルマルドでの穏やかな日々が流れている。

しかし、影は確実に芽生えていた。


ある日のこと。

神殿の静かな書庫で、ウィアードは分厚い本を抱えたままページをめくっていた。まだ少年の面影を残しながらも、その横顔には妙な鋭さがあった。


「ねぇ、イーリア様」


本から視線を上げ、素直な調子で問いかける。


「この本に書いてあるんだけど……イーリア様たちって、元々この世界の存在じゃないんだよね?」


イーリアは少し驚いたが、すぐに頷いた。


「そうだよ。私たちはこのアルマルドを救うために来たの。

獣人も、エルフも、龍人も、人間を守るためにラグルス様と私が創ったんだ」


「……そう、なんだ」


ウィアードは本を閉じ、ほんの少し考えるように目を伏せた。

そして顔を上げ、無邪気な笑みを浮かべる。


「人間を守るために……外から来た神様が、後から仲間を作ったんだね」


言葉は素直だった。ただ、その響きの奥に、微かに揺れるものがあった。

好奇心か、それとも――。

イーリアはその揺らぎに気づかず、いつもの明るさで答えた。


「そうだよ!みんな仲間だし、大切な家族みたいな存在なんだよ」


「……うん」


ウィアードは従順に頷いた。

だが、その笑顔の奥に差し込む影を、その場で見抜いた者はいなかった。

________________________________________


年月は流れ、やがて青年へと成長した彼は、人間の誰よりも整った容貌を備えていた。

均整の取れた肉体、背筋の伸びた立ち居振る舞い。笑みを浮かべると、見る者は自然と惹きつけられる。だが、あまりに整いすぎていて、人の温もりをどこか欠いていた。


彼の剣は鋼をも断ち、戦場に立てば百人の兵に勝ると讃えられる。

村々の人間たちは彼を「人間の希望」と呼び、子供たちはその背に憧れを抱いた。

そしてついにその日が訪れる。


「はっ、ありがとうございます」


頭を垂れるウィアードに、ラグルスは初めて人間を守護者として認めた。

その瞬間、人間族は「守られる側」から「共に抗う側」となり、歴史の一歩を刻んだ。

イーリアは母のような喜びで彼を抱きしめ、涙を浮かべて祝福する。

ラグルスもまたかすかな誇りを覚えていた。

人間からついに守護者が生まれた。

________________________________________


――それから、幾年。

ウィアードは、名実ともに人間最強の象徴になっていた。

街道を護る遠征では、獣人の先鋒に単身で割って入り、魔物の群れを切り裂く。

森影では、魔族の斥候を追い払い、村を守った――そう、人々は信じた。


「ウィアード様だ!」


「また救ってくれたんだって!」


子らが憧れの目で駆け寄ると、青年は指先で額にとんと触れ、軽やかに笑って見せる。

均整の取れた肢体、隙のない所作。微笑めば人は安堵し、剣を取れば誰もが背に従う。

ただ、ときおり――戦場から戻る彼の外套に、見知らぬ紋の黒い灰が薄く付いていることがあった。

誰も気づかないほど、ほんの薄く。

________________________________________


「……今日は静かだな」


暮れの見張り台で、ラグルスはゆっくりと空を見上げた。

夕暮れに浮かぶ雲の切れ間から、最後の陽光が差し込み、遠い村の屋根を金に染めている。

隣でイーリアが頬杖をつき、同じ空を見つめていた。

風に揺れる金の髪は夕焼けの光を含んで、炎のようにきらめく。


「静かなの、好き?」


「嫌いではない」


「ふふ。私はね、好き。耳を澄ませば、子供の笑い声とか、家畜の鳴き声とか……小さな音が風に混じって届くんだよ。それを聞くとね、ちゃんと守れてるって思えるの」


イーリアは立ち上がり、村の灯を指差して数え始めた。


「ひとつ、ふたつ……ほら、また増えてる」


数えるたびに瞳が輝き、笑顔がこぼれる。

その声を聞きながら、ラグルスは心にひそかに刻んだ。


――この穏やかな刻を、もう少しだけ……。


「ラグルス様」


「なんだ」


「ここに来られて、ほんとうに良かった。最初はね、ちょっぴり怖かったんだ。失敗したらどうしようって。……でも、あなたがいてくれたから」


「……お前は未熟だった。だが、未熟であることを恐れなかった。だから今がある」


「それ、褒めてる?」


「事実を述べた」


イーリアはくすりと笑い、肩を揺らす。その横顔は無邪気で、それでいて揺るぎなく、この地に根を張った神の顔でもあった。


ラグルスは、己の心が静かに震えているのを悟った。

今まで数多の世界を監督してきたが、そんな感覚を感じたことはなかった。

彼女の笑顔を護ること――それこそが、自分がこの地に留まり続ける理由だと、ようやく認める。

イーリアは空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。


「……もっと、アルマルドを良くしていこうね。これからも、一緒に」


その声は風に溶け、夕暮れの色に滲んだ。

ラグルスは答えず、ただその願いを胸の奥深くに焼きつけた。


________________________________________


その夜、風向きが変わった。


「北境で大規模な蠢動」「東の森に魔族の旗」「西の峡谷で集落炎上」

矢継ぎ早に届く報に、神殿の広間はざわめいた。

「分散は危険だ。だが救えるものは救う。各守護者は領域ごとに局地制圧へ――」

ラグルスが采配を下す。


「じゃあ、わたしは東へ!」


イーリアが勢いよく立ち上がった。


「待て。お前はここに残れ」


「でも――!」


「同時に各地で魔物が暴れ出すなど、偶然にしては出来すぎている。何者かが、意図的に我らを分散させようとしているのかもしれん」


「だからってほっとけない――」


言葉を継ぐ前に、部屋の結界にひび割れの音が走った。

大きな振動。神殿の空気が低く唸り、外の魔力が雪崩れ込む。

黒い角を戴いた魔族が三、四体。


「……魔族!?何故……!」


彼らがここまで潜り込み、しかも気配なく結界を突破するなど、通常ではありえない。

この神殿は数重の結界に守られており、魔族が近づけば兆しが走るはずだった。

だが今、兆しは一切なく、影はもう内側にいた。


「どうして……! こんなに早く、ここまで……!」


イーリアが息を呑む。その顔に、信じられないものを見た恐怖が浮かんでいた。

だが、すぐに彼女は唇を結び、光を強く放つ。


「理由は後だよ、ラグルス様! 今は、ここを守らなきゃ!」


「ああ」


二人は肩を並べ、同じ場所で迎え撃つ覚悟を決めた。

即座にラグルスは一歩前に出て、指を弾いた。雷光が走り、魔族二体を床に釘付けにする。

そこへ、石段を駆け上がる足音。


「ラグルス様!」


ウィアードが飛び込んだ。

血飛沫の線を肩に光らせ、剣は既に抜かれている。


「遅れてすみません、援軍の手配で! 今、助太刀します!」


「遅いぞ」


ラグルスは短く返し、魔族の角を掴んで捻じ折った。


その瞬間――

背に、冷たい鉄の気配。


「ラグルス様」


耳元で、穏やかな声が笑った。


「神様の血って、どんな匂いがしますか?」


ウィアードの神器の刃が、ラグルスの背を深く抉った。

ラグルスの視界が白く跳ね、結界が揺らぎ、魔族が咆哮した。


「――ウィアード……!!」


「……つまらない。別に人間と大差ない、か」


ウィアードは剣についた神の血を見ながら興味なさげに呟く。

その声音に怒りも嘲りもなく、ただ事務のような平坦さがあった。

ラグルスが呻きながら問いを絞る。


「なぜだ……」


「単純な理由ですよ」


ウィアードは血を払いながら剣を翻した。


「外来種が偉そうに上に立つのが我慢ならない。……神などいなくても、この世界は問題などなかった。最初からね」


ラグルスを嘲るように言い放つウィアード。だが次の瞬間、魔族の一体が嗤った。


「愚かな小僧。神を葬った後は、貴様も不要よ」


黒き槍が閃き、容赦なくウィアードの胸を狙う。

予想外の裏切りに、青年の瞳が一瞬だけ揺れた。


「――!」

防御が間に合わない。

その刹那、白い影が割り込む。


「やめて!」


イーリアの杖が槍を逸らし、代わりにその身を貫かれる。

鮮血が飛び散り、彼女の体が崩れ落ちた。


「イーリア!!」

ラグルスが叫ぶ。倒れ込んだ彼女の胸には深々と槍が突き立っている。

イーリアは睫毛を震わせ、微笑もうとした。


「大丈夫……だよ、ウィアード。あなたは……私たちの、子供なんだから……」


震える声に、まだ彼女が彼を信じていることを感じさせた。

ウィアードは僅かに目を見開き、そして口元を歪めた。


「……これはついてるな。手間が省ける」


嘲るでもなく、感謝でもなく。

ただ、計算を修正するような、冷淡な声音だった。

次の瞬間、ウィアードは魔族を切り裂き、倒れたイーリアに影を落とす。


「……そうだ。ラグルス様、『これ』を助けたいなら――あなたの力を僕に下さい。

偉い神様なら、それくらいできるはずでしょう?」


「……っ! それは……」


ラグルスが言い淀んでいる間に、ウィアードは躊躇無く刃を振り下ろす。

――ザシュ

イーリアの短い呻き声がか細く響く。


「ウィアード貴様……!!」


「叫んでいる暇はないでしょう?」


イーリアはウィアードの足元で血を流しながら、か細い声を絞り出した。


「はあ、はあ……ウィアード、は……。魔族に、操られてるんだよ……。ラグルス……助けて、あげて……」

彼女は最後まで、彼を信じていた。


ウィアードはその言葉に目を瞬かせ、次いで大きく笑い声を上げる。


「はは……ははははは! 馬鹿だ……! 本物の馬鹿だ! この期に及んで、まだ僕を庇うのか!」


その声は愉悦ではなく、冷笑に満ちていた。


「……わかった!力などくれてやる!いいからイーリアを助けろ!」


ラグルスは歯を食いしばり、掌に神力を凝縮する。紫紺の光は水晶の核となり、砕けぬ輝きを放った。

己の力のほとんどを削り取り、外付けの器へと変えた結晶。それが彼の唯一の望みを繋ぐ手段だった。


「なぁんだ。やっぱり出来るんですね。これはうれしい収穫だ」


「これを渡す!必ず、イーリアを救え!」


怒りと焦燥を滲ませ、ラグルスは結晶を放る。

ウィアードはそれを受け取り、口角を冷たく吊り上げた。


「ありがとう。本当に渡すとは……さすが神様だ。……じゃあ、これは用済み、と」


――ズブリ

結晶を受け取った瞬間、迷いなく神器でイーリアの胸を深々と貫いた。


「イーリアァァァ!!!!」

ラグルスの絶叫が、居城を震わせる。ラグルスは身体を引きずりながらも急いでイーリアに駆け寄る。しかし、彼女はもうほとんど動かない。


「……は……ラグ、ルス……」


かすれた声が彼の耳に届く。


「……あなたと……来られて……幸せ、だった……」


唇が微かに動き、笑おうとする。


その刹那――


――ザシュ


「しぶとい」


ウィアードの追撃により、光は完全に絶たれた。


「イーリア……ッ!」


ラグルスの中で、何かが砕けた。神界に残してきた冷徹な理性はどこかに消えていた。

対するウィアードは、血の滴る剣を肩に担ぎ淡々と告げる。


「あぁ。安心して下さい。あなたは殺しませんよ。せっかくもらった力が消えちゃうかもしれないので」


「貴様ァァァ!!」


ラグルスの咆哮と共に、残された神力が爆ぜる。稲妻の奔流がウィアードを襲う。

だが、ラグルスは気づいていた。力はほとんどを、すでに結晶と共に奪われている。残り滓の力ではウィアードを傷つけることはできない。


「そんな力が残っているなら、それもくれたら良かったのに」


無造作にラグルスの一撃を弾き飛ばし、ウィアードは手にした結晶を掲げ、唇に冷たい笑みを浮かべる。


「それでは。地獄でゆっくり観光でもして下さい。魂だけでね」


その言葉とともに、床から無数の鎖が出現しラグルスを絡め取る。


「ぐ……っ!」


さらにウィアードは地図を広げるように、掌を空へ向けた。

石床がうねり、古い術式の輪が、神殿のさらに下――地の底へと展開する。

そこは、はるか昔からこの地に穿たれた巨大迷宮。

幾万の分岐、幾十の深層。


「ネスヴィラ。外来種に相応しい」


「よくも……イーリアを……!」


鎖は徐々にラグルスを締め上げ、地の底に沈んでいく。それと同時にラグルスの身体はボロボロと崩れていく。


「ラグルス様」


「感謝しますよ。馬鹿な女神に」


「貴様ァァァ!!!」


怒りと悔恨が混じる咆哮。

次の瞬間、ラグルスの身体は崩れ落ち、渦に呑まれ、迷宮の底深くへと封じられていった。


最後に見たのは、白い衣の裾だった。

その色が闇に飲まれ、すべてが閉じる。

ラグルスは、深く、深く沈んだ。

そして誓った。


――必ず、戻る。

――必ず、復讐を。

この世界ごと、焼き尽くしてでも。


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