第80話 届かざる神の雫
ステラの『星霊の慈雨』によって、限界を超えていたパーティ全員の肉体は、嘘のように万全の活力を取り戻していた。
「……よし。これでようやく、アタシの出番ってわけだ」
マイヤは、背中に担いでいた愛用の巨大包丁をゆっくりと引き抜いた。黄金の瞳が、最下層の湖の中央で脈打つ一滴の水滴――『世界樹の朝露』を鋭く見据える。
千年の呪いを濾過し、星の生命力を極限まで圧縮した究極の雫。
それは、ソフトボールほどの大きさの透き通った球体でありながら、内部には銀河のように無数の光の粒子が渦巻き、ドクン、ドクンと、まるでそれ自体がひとつの心臓であるかのように脈打っていた。
「テオ、アマルを出せ。ルシアは下がってな。……チビっ子魔王、アタシがしくじって爆発しそうになったら、その時はステラを連れて全力で逃げろ」
マイヤは、いつになく低い、ヒリつくような声で指示を出した。
「マイヤさん……っ」
ステラが心配そうに見つめる中、マイヤは静かに『世界樹の朝露』へと歩み寄った。
(事前に仕込んでおいた麻痺毒と泥竜の油で作った『中和用のスープベース』はある。だが、それでもあの熱量をそのままブチ込めば鍋ごと蒸発する。……まずは、アタシの『幻の霊火』であの雫の表面を包み込み、星のエネルギーを強制的に休眠状態にするしかない!)
「燃えな……ッ!!」
マイヤが気合と共に巨大包丁を構えると、刀身から青白い『幻の霊火』が猛烈な勢いで立ち昇った。
彼女の料理人としての生命力を燃やす、全てを焼き尽くす業火。マイヤはそれを限界まで圧縮し、包丁の刃先から『世界樹の朝露』の表面へと這わせようとした。
だが――。
ジリッ……! ジリジリジリッ!!!
「なっ……!?」
マイヤの青白い霊火が『世界樹の朝露』に触れる数センチ手前で、見えない超高密度の壁に弾き返された。
いや、弾かれたのではない。朝露から無意識に漏れ出ている『星の生命力』の圧力が強すぎて、マイヤの霊火が酸素を奪われたように鎮火させられてしまったのだ。
「ふざけんな! アタシの火力が負けるだと!?」
マイヤは奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、さらに霊火の出力を上げた。
包丁を力任せに押し込もうとするが、刃先が朝露の周囲の空間に触れた瞬間、ピキッ……と、嫌な音が響いた。
「……マイヤさん、ストップ!!」
テオが悲鳴のような声を上げた。
「ダメだ! その包丁の素材じゃ、星の質量の中心点には耐えられない! それ以上押し込んだら、刃が砕け散るだけじゃなく、反発したエネルギーでマイヤさんごと消し飛ぶよ!!」
「……ッ!!」
マイヤの額から、滝のような冷や汗が流れ落ちた。
手首に伝わってくるのは、食材を切る感触ではない。途方もなく巨大な『惑星そのもの』を、たった一本の鉄の包丁で真っ二つにしようとしているような、絶対的な絶望感だった。
「……くそっ」
マイヤはギリッと唇を噛み切り、血を滲ませながら、ゆっくりと包丁を手元へ引き戻した。
そして、刀身の刃先に走った微かな亀裂を見つめ、深く、深く息を吐き出した。
「……アタシの負けだ」
マイヤが包丁を鞘に収めると、ピンと張り詰めていた最下層の空気がふっと緩んだ。
「マイヤ……」
ルシアが声をかけると、マイヤは振り返り、自嘲気味に笑って肩をすくめた。
「笑っちまうよ。目の前に究極の食材があるってのに、アタシの包丁じゃ皮一枚傷つけることもできないし、アタシの火じゃ下茹ですらできない。……こいつは食材が良すぎる。今の未熟なアタシじゃ、調理する(ねじふせる)資格すらないってことだ」
「そんなことないよ! マイヤさんはすごい料理人だもん!」
ステラが慌てて駆け寄るが、マイヤはその頭をポンと撫でて遮った。
「慰めはいいさ、ステラ。料理人が食材の格に負けるなんてのは、腕が足りない証拠だ。……だがな」
マイヤは再び振り返り、祭壇の上で神々しく輝く『世界樹の朝露』を、まるで恋人でも見るかのように熱を帯びた瞳で見つめた。
「諦めたわけじゃない。……この世界には、まだアタシの知らない神話級の包丁や、星の熱にも耐えうる幻の調理器具が眠ってるはずだ。アタシ自身の『霊火』の出力だって、まだまだ底上げできる」
マイヤは朝露に向かって、ビシッと指を突きつけた。
「首を洗って待ってな、究極の雫サマ。アタシがもっと強くなって、絶対に折れない包丁と、星すら煮やがす業火を手に入れたら……必ずここに戻ってきて、お前をこの世で一番美味いスープにしてやるからな!!」
それは、敗北の言葉ではない。
料理人としての己の限界を知り、さらなる高みへと登るための、狂気にも似た力強い『誓い』だった。
「……ふはははっ! 傑作じゃ!」
フォニアが腹を抱えて空中で笑い転げた。
「神の雫を前にして、ひれ伏すでもなく、無理に手を出して死ぬでもなく、『出直してくる』と言い放つか! 人間というのは、本当に底抜けに業が深くて面白い生き物じゃな!」
「笑ってろチビっ子。いつかお前にも、そのスープの味見くらいはさせてやるよ」
マイヤが鼻で笑う。
「ああ、待ってるぜ。マイヤの究極のスープ、絶対に食いたいからな」
ルシアが拳を突き出すと、マイヤは力強くその拳を打ち合わせた。
テオも「僕も、マイヤさんの新しい包丁、絶対に打ってみせるよ!」と意気込む。
世界樹の深淵迷宮、最下層。
目的であった『ステラの真の覚醒』を果たし、もう一つの目的であった『世界樹の朝露』は、未来への極上の宿題としてこの地に残された。
「さて……腹も減ったし、地上に帰るか。エルフの爺さんたちに、千年ぶりの『森のお掃除完了』の報告もしてやらなきゃな」
ルシアの言葉に全員が頷く。
彼らは一度だけ祭壇を振り返り、神の雫の輝きをその目に焼き付けると、迷宮の出口へと向かって、力強い足取りで歩き出した。




