6生 ep.4
「……あ、あの、エヴァ。こないだは悪かった」
真っ先に口を開いたのは、先日、震える手でサイコロを振ったリーダー格の少年だった。
彼の背後には、同じように一文無しになり、目の下に深い隈を作った少年たちが、逃げ場を失った野良犬のような目で立っている。
「……何の用? 仕事が始まるわよ」
エンヴァは、興味なさげに編み上げ靴の紐を締め直しながら、視線すら合わせずに答える。
「その……借金を返すまでは、あんたの言うことを何でも聞く。荷物持ちでも、工場の雑用でもいい。頼む、主任に炭鉱の話を蒸し返されたら、俺たちは本当におしまいなんだ」
プライドなど、空腹と死の恐怖の前では石炭の欠片ほどの価値もない。
少年たちは、自分たちを奈落へ突き落とした張本人であるはずの少女に、縋り付くことでしか生き残る道を見出せなかった。
エンヴァはしばらく沈黙した後、無造作にポケットへ手を突っ込んだ。
ジャラリ、と重苦しい金属音が響く。
「……そう。じゃあ、これをあげるわ。それから、今日の昼食に並んでおいてちょうだい」
彼女が放り投げたのは、彼らにとっての「命の滴」――数枚の小銭だった。
エンヴァにとっては支障のない程度の端金。
だが、完全に一文無しの上借金までこさえている彼らにとっては、今日の命を繋ぐための聖銀に等しい。
「あ、ありがてえ……!」
少年たちが泥にまみれた手で、競うように硬貨を拾い上げる。
その光景は、かつての帝国で跪いた騎士たちの忠誠誓願よりもずっと歪で、けれど強固な「従属」の形をしていた。
エンヴァは、自分の影を踏むように付き従う少年たちの列を一瞥し、「ハァ」と小さく息を吐いた。
「ねぇ、外に遊びに行きましょうよ」
煤けた空の下、エンヴァは主任にさらりと持ちかけた。
先日の博打で「あり得ない奇跡」を見せつけられ、さらに多額の配当を手にした主任にとって、今の彼女はただの女工ではない。
幸運の女神か、あるいは抗いがたい魔力を持つ異物か。
いずれにせよ、彼はその誘いを断る勇気も、理由も持ち合わせていなかった。
工場の門を出れば、そこは近代の象徴たる喧騒の街。
石畳の上を馬車が走り、至る所に吐き出された蒸気が視界を濁らせる。
「どこに行きたいんだ? エヴァ」
「どこか賭けられる場所へ。できれば、レートが高めなところがいいわね」
主任の背筋に、冷たいものが走る。
10歳の女工の少女が口にするにはあまりに不釣り合いな言葉。
だが、あの216分の1を引き当てた彼女が言えば、それは確信に満ちた「収穫の宣言」に聞こえた。
「……いいだろう。サイコロにするか? カードにするか?」
「なんでもいいわ。なるべく目立たず、大金が稼げるところがいいわね」
「なら、簡単だ」
主任がエンヴァを連れて向かったのは、街の端にある巨大な楕円の競技場。
そこには泥にまみれたコースと、飢えた獣のような目をした男たちの怒号が渦巻いていた。
――ドッグレース場。
鉄格子の向こうで、極限まで肉体を削ぎ落とされた猟犬たちが、獲物を求めて唸り声を上げている。
熱気と怒号、そして獣の体臭が混ざり合うドッグレース場。
うすら汚れた少女一人であれば、門前払いを食らうか、あるいは身ぐるみ剥がされるのが関の山。
しかし、地域の有力者である工場主任を伴うことで、エンヴァは一転して「風変わりな幼い貴客」へとその立ち位置を変えていた。
「……一番、倍率の高い犬に賭けて」
喧騒を切り裂くようなエンヴァの静かな声に、馬券を握りしめていた主任の手が止まった。
「はぁ? エヴァ、気は確かかい?」
主任が指差した掲示板には、残酷なまでの「格差」が刻まれていた。
一番人気の猟犬のオッズは1.5倍。
対して、エンヴァが指名したのは、足取りも覚束ない最下位人気の老犬――その倍率は、実に36倍。
「あいつはここずっと負けが込んでいる。身体もボロボロだ、勝てっこないよ」
「……いいから。これを全部、その犬に。そのためにあなたに連れ出してもらったの」
エンヴァが差し出したのは、ずっしりと重い銀貨の袋。
先日、工場の少年たちから情け容赦なく巻き上げた数か月分の給料と、彼女がこの時代でコツコツと蓄えてきた財産のすべて。
袋の口から覗く銀の輝きに、主任は思わず息を呑んだ。
「こんなに! 嘘だろう、あんな負け犬に注ぎ込むなんて、ドブに捨てるようなものだ!」
「主任も乗るといいわよ。……後悔したくないならね」
エンヴァは、泥にまみれたコースの先を見つめたまま、淡々と告げた。
その瞳には勝負の「結末」がすでに見えているかのようだった。
だが、近代の合理性に生きる主任に、その言葉を信じる度胸などあるはずもなかった。
「……現金の受け取りは、大人のあなたにお願いするわ。勝った分の半分を、あなたにあげる」
エンヴァの言葉が、主任の耳元で甘い毒のように響いた。
半分。
この少女が差し出した銀貨の袋、その十八倍の額が、ただ換金所に並ぶだけで自分の手に入るというのか。
(……負けても、俺の懐は痛まない。もし勝てば、しばらく遊んで暮らせるほどの額が転がり込んでくる……!)
近代の合理性は、欲望という名の魔物に容易く屈した。
主任は震える手で、エンヴァに指示された通りのチケットを購入する。
それは、この場にいる誰もが見向きもしない老犬「五番」への全賭けだった。
「五番だな……。五番が来れば三十六倍だ……! 頼むぞ、エヴァ!」
「……黙って見ていなさい」
エンヴァは冷ややかに告げ、群衆の喧騒を突き抜けるようにコースを見据えた。
パン! と乾いた号砲が響き、猟犬たちが一斉に飛び出す。
「ああ、出遅れた! もうだめだ!」
主任が頭を抱えて叫ぶ。
最下位人気の五番は、スタートから完全に取り残されていた。
対照的に、一番人気の二番が圧倒的な脚力で独走状態を築き上げる。
だが、その時だった。
独走する二番のステップが、唐突に狂い始めた。
何かに怯えるように耳を伏せ、注意散漫に周囲を気にする仕草。
まるで、目に見えない「何か」がコース上に潜んでいるかのような。
「魔女」の発した気配におびえた2番は走りながらも尻尾を丸めだした。
「どうした! 前を向いて走れ!」
観客の怒号が飛ぶ。
だが、二番の混乱は収まらない。
混乱は焦りを生み、焦りは致命的なミスを招く。
二番が自らの足をもつれさせて転倒した瞬間、後続の先頭集団が逃げ場を失い、次々と巻き込まれて派手な土煙を上げた。
阿鼻叫喚のコース上で、唯一。
大きく遅れていたがゆえに惨劇を回避した「五番」が、呆然とする観客を置き去りにして悠々とゴールへと飛び込んできた。
「やっt……ッ!?」
歓喜を爆発させようとした主任の口を、エンヴァの小さな手が力強く封じた。
「目立つような真似はやめて。換金したら、すぐに工場へ戻るわよ」
エンヴァの瞳には、勝利の喜びなど微塵もなかった。
ただ、予定通りの仕事を終えただけの冷徹な光。
「……わかった。しかし、君はどうして……」
「私との縁を切らないことね。……また、稼がせてあげるわ」
少女の唇が、わずかに弧を描く。
その日、エンヴァが手に入れたのは、庶民なら働かずとも数年は遊んで暮らせるだけの富。
そして、工場の支配者を「欲望の鎖」で繋ぎとめるという主従関係だった。
主任は、エンヴァの言う通り財布の中のコインを全てあの老犬に賭けなかった事を本当に悔いていた。




