6生 ep.2
ギィ、と古びた木のベッドが悲鳴を上げる。
薄い毛布にくるまり、湿った木の匂いを吸い込みながら、エンヴァは闇の中でそっと右手の指先を見つめた。
集中。
呼吸を整えるまでもない。
細く、鋭い「茨」が一本、静かに産声を上げる。
かつては大軍を絡め取り、城壁をも粉砕した破壊の萌芽。
だが今のそれは、暗闇を照らすことすら叶わない、無力で美しい一筋の影に過ぎなかった。
(……この魔法も、使うことはもう無いかもしれないわね)
指先をなぞる茨の感触。
鉄と硝煙が支配するこの時代、神秘はもはや「非効率な余興」でしかない。
ライフルの一撃が、数年の修練を要する魔術をあっさりと凌駕する世界。
エンヴァは、自らの中にある強大な力が、ゆっくりと化石になっていくような奇妙な安堵を覚えていた。
ふと、枕元に視線を落とす。
そこには、自分をこの「地獄」へ売り飛ばした家族と共に撮影された、一枚の古びた写真があった。
豚三頭と、小麦袋二つ。 自分の価値をその程度の物資に換算した人間たち。
エンヴァにとって、彼らの生死も幸福も、道端に転がる石ころほどの価値もない。 だが、工場主は狡猾だった。 「家族への仕送り」という名の鎖を子供たちの首に巻き、この写真一枚を「希望」という餌として与えることで、絶望の淵にある労働力を繋ぎ止めている。
「……反吐が出るほど、合理的ね」
写真の中の自分は、何も知らずに微笑んでいる。
エンヴァは茨を消すと、重い瞼を閉じた。 明日の朝、また時計の針が動けば、彼女はただの「三頭の豚の代用品」として、巨大な歯車の一部に戻るのだ。
「やったぁ! エヴァ! 一緒に街へ出ようよ!」
クラリッサの弾むような声が、湿った地下の大部屋に響く。
週七日勤務、数時間の祈りさえも労働の一部。
そんな日常の中で訪れた「工場のメンテナンス」の中で丸一日が休みという名の奇跡。
クラリッサは、まるで鎖から解き放たれた小鳥のように飛び跳ねていた。
「……そうね。だるいから、私は一日寝ていることにするわ」
「そんなこと言わないで! 新しい雑誌が出ているかもしれないじゃない!」
食い下がるクラリッサ。
彼女の瞳を輝かせているのは、この近代が生み出した安価な娯楽雑誌だった。
粗悪な紙に、刺激的な挿絵。犯罪、怪談、そして遠い過去の英雄譚。
銅貨1枚で買えるその薄っぺらな読み物は、労働者階級の少年少女たちにとって、唯一の「世界への窓」となっていた。
「見て! 今月は伝説のレオンハルト王の英雄譚! あぁ……レオンハルト様……!」
クラリッサが差し出した小冊子には、白馬に跨り、剣を掲げる美男子の王が描かれていた。
物語はこうだ。
『かつて、悪の帝国に対して寡兵で挑んだ若き王レオンハルト。彼は神秘の魔女と契約し、大地を呑み込む流砂を作り、砂の兵と不気味な茨の魔法を操って帝国を壊滅させた――』
(……どこかで聞いたような話ね)
「見てエヴァ! レオンハルト様が魔女と一緒に砂の嵐を巻き起こすの! すっごくロマンチックだと思わない?」
鼻歌混じりに小冊子を振るクラリッサ。
その表紙に描かれた「レオンハルト王」は、セトの猛々しさも、イブンの優しさも、レオの幼さも持ち合わせていない、どこまでも最大公約数的な「美形の王子様」だった。
(……砂の兵を操り、茨と共に戦場を駆けたのはディルガム。その後を継いだのがレオ。そして帝国を真に終わらせたのは、セトとミーナ……。時系列どころか、人格まで混ざっているわね)
エンヴァは、油で汚れた指先で、粗悪な紙の端をなぞった。
実際に歴史を動かしたのは、自分と共に「失踪」を選んだ、あの不器用で愛おしい二人の元奴隷だ。
その後、名前を継いだ二代目のレオとリナがイブン帝国の礎を築いた。
だが、平和な時代を生きる大衆にとって、そんな複雑な世襲や血の継承など、一文の価値もない。
彼らが欲しがっているのは、整合性のある歴史ではなく、「正義の王が魔女と契約して悪を倒す」という、胃にもたれない程度の勧善懲悪。
「レオンハルト様……! 本当に、こんな素敵な人が昔はいたのね。私たちを助けに来てくれないかなぁ」
「……そうね。もし彼が来たら、多分私の方を真っ先に助けに来るでしょうね」
「もう! エヴァってば、また可愛くないこと言って!」
ぷくっと頬を膨らませるクラリッサ。
彼女の純粋な憧れが眩しければ眩しいほど、エンヴァの胸には冷めた虚無感が広がる。 自分たちが命を懸けて演じたあの凄惨で、けれど「愛」に満ちていた舞台は、今や工場労働に疲れた子供たちの、安っぽい現実逃避の道具にされている。
(……まぁ、いいわ。正しく伝わったところで、この子たちの腹が膨れるわけじゃないものね)
エンヴァは窓の外、黒煙を吐き出す街の景色を見つめた。
「レオンハルト様、本当にかっこいい……! エヴァもそう思うでしょ?」
「……ええ。お伽話としては、よくできているんじゃないかしら」
熱に浮かされたようなクラリッサの問いに、エンヴァは空返事で応じる。
かつての真実が、安っぽいインクと紙に貶められ、銅貨一枚で売られている。
その事実は、魔女にとって屈辱ですらなく、ただただ「退屈」を深めるだけの喜劇でしか無かった。
休日の市場は、工場労働から解放された人々で溢れ返っていた。 クラリッサは、買ったばかりの『レオンハルト英雄譚』の新刊を宝物のように抱きしめ、「ねえ見て! この挿絵、前のよりずっと豪華よ!」とはしゃぎ回っている。
その横で、エンヴァは安物の香油を手に取りながら、値踏みをするようなふりをして周囲を観察していた。 だがその時、背筋を凍らせるような、粘りつく魔力の奔流が彼女を襲う。
(……魔女)
間違いなかった。この「個」を拒絶し、世界を侵食する感覚は、同じ根源を持つ者同士にしか分からない。 かつて「先輩」は言っていた。この世には六人の魔女が存在すると。
土に還った「先輩」、自分、そしてそれ以外。
残りの席に座るはずの何者かが、すぐ近くにいる。
エンヴァは人混みに紛れ、ごく薄い「霧」を放った。
視界を遮るためではない。霧に触れるすべての情報を、魔力の振動として読み取るための触覚。
(どこだ……どこに潜んでいる)
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ、若い魔女さん」
背後から、透き通るような、けれど感情を欠いた幼い声が聞こえた。
エンヴァが弾かれたように振り返ると、そこには、時代遅れの白銀のドレスを纏った一人の少女が立っていた。 その顔は、三百年前の帝都で、お姉さまに抱かれながら、その心臓をナイフで貫かれたはずの「妹」の魔女だった。
「……あなたは?」
エンヴァの問いに、その女性――かつての「妹」は、扇子で口元を隠しながら、鈴の鳴るような声で笑った。
「私? そうね、便宜上フリーダって呼んでもらえるかしら?」
背後には、黒塗りの漆と金細工で飾られた豪華な馬車。
御者が恭しく扉を押さえ、周囲の民衆たちはその圧倒的な「富」の気配に、道を開けて立ち尽くしている。
二十歳ほどに見えるその美貌は、上流階級の贅を尽くしたドレスに包まれ、この煤けた市場の中では、泥の中に落ちた真珠のように浮き上がっていた。
「ずいぶんと難儀な所に産まれてきたみたいね。可哀そうに」
フリーダは、エンヴァの油汚れが染み付いたボロ服を、値踏みするように舐めるように見下ろした。
かつて自分をナイフで貫いた「姉」に代わり、今度は彼女が支配者として、エンヴァの「転落」を愉しんでいるかのようだった。
「私に何の用?」
「別に。珍しいご同類が近くにいたから、声をかけただけよ」
「そう。用が無いなら、もう行くわよ」
エンヴァは興味なさげに背を向けた。
彼女にとって、魔女同士の争いも、前世の因縁も、今はただの「ノイズ」でしかない。十六時間の労働で疲れ切った肉体は、ただ静寂と、少しばかりの食事を求めていた。
「待ってよ、エヴァ! あの方、すっごく綺麗な……凄いお金持ちとお話してたの!?」
隣で目を丸くしているクラリッサを無視して、エンヴァは歩き出す。
背後でフリーダが、楽しそうに目を細めてその背中を見つめていることにも、気づかないふりをして。
「ねぇエヴァ! 今回もとっても素敵なの! 一緒に読みましょう!」
肌着一枚の心細い格好で、クラリッサが薄い毛布を割り込ませてくる。
エンヴァの細い身体にしがみつくその体温は、この冷徹な工場のシステムにおいて唯一、生身の人間であることを証明する熱を持っていました。
「……今回は、どんなデタラメが書いてあるの?」
「デタラメじゃないわよ! レオンハルト様が、魔法で帝国の砦を落とす物語なの!」
クラリッサが興奮気味にページをめくる。
挿絵には、光り輝く杖を掲げる王と、崩れ落ちる巨大な要塞。
物語によれば、王は魔女から授かった聖なる雷で城壁を打ち砕き、自ら剣を取って悪の兵士をなぎ倒したという。
(……実際に城壁の中に投げ込んだのは、投石機で放った疫病の死体なんだけどね)
エンヴァは冷めた目で、安っぽいインクのシミを見つめる。
あの勝利は、輝かしい魔法などではなく、腐臭と絶望がもたらした泥臭い策略の結果だ。
だが、そんな真実を語ったところで、目の前の少女に何の救いがあるだろうか。
「ねえエヴァ! その魔女様って、今もどこかにいるのかな? もし会えたら、私たちを魔法で助けてくれるかな!」
キラキラと瞳を輝かせるクラリッサ。
その問いに、エンヴァの胸の奥で、かつてセトやミーナに向けたものとは違う、もっと静かで、諦念に近い感情が揺れた。
(……まぁ、目の前にいるんだけどね)
自分は彼女を救う「白馬の王子」ではない。
いつか自分にも白馬の王子様が現れて、この地獄のような環境から救ってくれる。
そうクラリッサは信じていた。
けれど、未来も見えず、自由も教育もないこの場所で、この薄っぺらな雑誌に縋らなければ、十歳の少女の心など、朝露のように簡単に壊れてしまう。
「……そうね。いつか、クラリッサの前に現れてくれるといいわね」
エンヴァは、油汚れの落ちきらないクラリッサのブロンドの髪を、そっと撫でた。
それは、魔女としての慈悲ではなく、ただ隣で眠る「同類」への、せめてもの嘘だった。
「それじゃ、私からしてあげるわね」
「お願い」
湿った地下室の片隅。
エンヴァは迷うことなく、煤けた肌着をその身から滑り落とした。
生まれたままの姿となった彼女の肢体は、過酷な労働環境にありながら、どこか非現実的なまでの瑞々しさを保っている。
クラリッサは、汲んできた冷たい水に布を浸し、祈りを捧げるような手つきでエンヴァの背を、腕を、丁寧に拭き取っていく。
(……ああ。かつて、セトとミーナにこうしてもらったわね)
目を閉じれば、豪華な宮殿の湯殿の香りが蘇る。
覇王と女王に跪かれ、慈しまれていたあの記憶。
今は、安物の布と冷たい水。
けれど、自分を慈しもうとする他者の熱量だけは、あの時と何も変わっていない。
「それじゃ、私の番ね」
交代して、エンヴァがクラリッサの身体を拭い始める。
労働の汗と、肺を焼く石炭の粉。
それらが水と共に拭い去られるたび、クラリッサの表情から「女工」としての険しさが消え、年相応の少女の輝きが戻っていく。
「この習慣、とってもいいわ! なんだか毎日、生まれ変わった気分!」
「そうね。……そうかもね」
拭き終えたクラリッサは、爽快感に頬を染めながら、まじまじとエンヴァの肢体を見つめた。
「それにしても、本当にエヴァの肌って綺麗よね……。まるでお伽話のお姫様みたい」
「あなたも、綺麗よ。クラリッサ」
それは、魔女の気まぐれな追従ではない。
泥を啜り、鉄に削られながらも、明日を夢見ることを止めないクラリッサの生命力。
その魂が宿る肉体は、どんな宝石よりもエンヴァの目には価値あるものに映っていた。
午前三時。
地下の大部屋を支配するのは、重苦しい静寂と、疲弊しきった少女たちの微かな寝息だけ。
冷たい木のベッド。
薄い毛布を分け合い、互いの体温だけを頼りに眠る二人の間に、現実の煤煙を撥ね退けるような「甘い言葉」が紡がれる。
「ねえ、エヴァ……起きてる?」
耳元で、クラリッサの囁き声がした。
時計の針は午前三時を回っている。
あと三時間もすれば、あの呪わしい工場の鐘が鳴り響くというのに。
「……どうしたの、クラリッサ。早く寝ないと、明日の十六時間が持たないわよ」
「ううん、なんだか目が冴えちゃって。ねえ、エヴァ」
クラリッサは、毛布の下でエンヴァの細いウエストをぎゅっと抱きしめた。
その小さな手は、昼間の重労働のせいで、あちこちに小さな切り傷や油の染みが残っている。
「いつか、ここを出たら……本物のドレスを着て、真っ白なレースがついたやつ! それでね、美味しいケーキを一緒に食べようね。イチゴが乗っていて、生クリームがたっぷりのやつ!」
それは、この地下の檻に繋がれた子供たちにとって、お伽話よりも遠い、決して叶わぬ夢。
日給銅貨数枚の奴隷労働から抜け出す術など、この近代のシステムには存在しない。
病気になって捨てられるか、過労で動けなくなるか、あるいは……。
エンヴァは、闇の中で天井を見つめた。
かつての自分なら、「そんな夢を見ても腹は膨れないわ」と冷たく突き放していただろう。
あるいは、この不毛な世界を丸ごと消し去って、お望み通りの宮殿を用意してやったかもしれない。
けれど、今の彼女の胸にあるのは、かつての覇王と女王から受け取った「愛」の残光。
この過酷な現実を生き抜くために、十歳の少女が必死に紡ぎ出した「嘘の未来」。
それを否定するほど、今のエンヴァは無粋ではなかった。
「いいわよ」
エンヴァは、迷うことなく快諾した。
「約束ね。ドレスは、あなたのブロンドの髪に合わせて、淡い青色がいいわ。ケーキは、そうね……三段重ねの、とびきり甘いものにしましょう」
「えへへ、やったぁ……! 青いドレス、絶対に似合うよね! 約束だよ、エヴァ」
安心したように、クラリッサの呼吸が次第に深く、穏やかなものへと変わっていく。
少女の小さな温もりを腕に感じながら、エンヴァはそっと目を閉じた。
(……ドレスもケーキも、用意するのは造作もないわ)
魔女の快諾は、決して気休めの嘘ではない。
彼女がその気になれば、世界を裏返してでもその約束を果たすことができる。
静かな闇の中、エンヴァは少しだけ。
夢見がちで無邪気なこの少女の為に、「退屈な時代」のルールを曲げてみてもいいかもしれないと、思い始めていた。




