5生 ep.29
「ドサッ」
静まり返った夜の練兵場に、鈍い音が響く。
これで何度目だろうか。
セトは、筋肉痛で全身が軋んでいるはずのイブンに頭を下げ、剣の稽古を乞うていた。
イブンとて本調子ではない。
いや、むしろ明日の早起きを考えれば、今すぐにでもベッドに潜り込みたいのが本音だ。
だが、鬼気迫る表情を見せるセトの瞳を前に、王子はついついその願いを引き受けてしまっていた。
「やあああッ!」
セトが渾身の力で木剣を突き出す。
だが、イブンはそれを、まるで羽虫を払うかのような軽やかな動作で受け流した。
「カンッ!」
乾いた音と共に、セトの剣が夜空へとはじけ飛ぶ。
「……もっとしっかり剣を握ってください。半身に構えて、軸をぶらさないように」
イブンは、なるべくセトを傷つけないよう、最小限の力でその猛攻を無力化していく。
「くそぉ……ッ!」
「勢いだけではダメですよ、先輩。剣は、型が第一なんですから」
イブンは自ら木刀を手に取り、セトの歪んだ構えを一つずつ修正していく。
足を開く角度、腰の落とし方、肩の脱力。
その指導は驚くほど的確で、セトは悔しいほどに自分の身体が「正解」へと導かれていくのを感じていた。
「そう、この形のまま、まっすぐ上段から振り下ろしてください。身体の中心線がぶれないように。……僕も幼い頃、まずはここから始めたのです」
(……幼い頃から)
その何気ない一言が、セトの胸を深く抉る。
自分が泥の中で死に物狂いで生き延びようとしていたその間、この王子は陽光の下で、一流の師に囲まれ、この「型」を数万回と繰り返してきたのだ。
埋めようのない歳月の差。
涙が出るほどの劣等感。
「……ありがとう。……もう、休んでください」
セトは短く礼を言い、イブンを部屋へ戻した。
一人残された暗闇の中。セトは、イブンに教えられた通りの型を、一回、また一回と繰り返す。 脳裏にあるのは、砂漠の王子が見せた、淀みのない太刀筋。
気がつけば、白んだ東の空から、冷たい朝の光が差し込み始めていた。
昼間の農作業で奪われた体力。
震える腕を無理やり抑えつけ、セトは今夜も「師」の前に立っていた。
昨日よりも今日、今日よりも明日。一歩でも主の隣に相応しい自分に近づくために。
「まだ重心がぶれています。もっと腰を落として……。振り下ろす時に剣が左右にぶれぶれです。それに……」
夜の静寂を切り裂く、イブンの容赦のない指摘。
王子としての「当たり前」を突きつけられるたび、セトの自尊心は削り取られていく。
「……先輩。一度、本物の剣を、持ってみますか?」
イブンが自室から持ち出してきたのは、一振りの「剣」だった。
セトが持っているのは、エンヴァから貰った小遣いでようやく買った、市井の護身用ミドルソード。
鉄の質も悪く、ただの「道具」に過ぎない。
だが、イブンが差し出したそれは——。
(……なんだ、この威圧感は)
鞘に収まっているというのに、そこにあるだけで空気が凍りつくような存在感。
レオ王国屈指の名工が、王族のために魂を削って鍛え上げた一振り。
「どうぞ」
受け取った瞬間、セトは「ぞっ」とした。
ずしりと腕に沈み込む、圧倒的な重量。
スラリと鞘から抜くとそこにはぬらぬらとした刃が光る。
叩いて、突き刺すだけのセトのミドルソートとは一線を画する玉鋼の剣。
「重い……っ」
「これでもまだ、子供用の軽量なものです。大人の剣となれば、厚みが増してこの倍の重さになりますよ」
(これの、倍……?)
昨晩、血を吐く思いで覚えた型を、この剣で試みる。
だが、大きく振りかぶった瞬間、剣の重量に身体が持っていかれた。
「——っ!?」
踏ん張りが効かず、重心が崩れる。
あろうことか、セトの身体は独楽のようにクルクルと回り、無様に地面へ倒れ込んだ。
(……素振りさえ、できないのか)
あまりの落胆に膝をつくセトの前で、イブンがその剣をひらりと受け取った。
そして、淀みのない動作で完璧な上段の素振りを決めてみせる。
一閃。
夜気が鳴った。
「腕で振らないでください、先輩。足と腰です。よく見て」
何度も、何度も見本を見せるイブン。
その足は大地に深く根差し、どっしりと据わった腰は、爆発的な剣の慣性をいとも容易く制御している。
見惚れてしまうほどに美しい、完成された武の形。
「——クソッ!」
セトは自分の無力さに耐えかね、地面を拳で叩いた。
騎士になりたい。主を守りたい。
そう願った自分が、ただ剣を一回振ることさえできない。
絶望が涙となって溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
「……ありがとうイブン。もう、部屋へ戻ってください」
昨日のようにイブンを部屋へ帰すと、セトは闇の中で再び立ち上がった。
目に焼き付けたイブンの型。
大地に根差す足の感覚。
それだけを頼りに、木剣を握り直す。
その様子を、バルコニーから見下ろす黄金の瞳があった。
エンヴァは何も言わず、夜風に銀髪をなびかせながら、狂気的な努力を続けるセトの姿を静かに眺めていた。




