5生 ep.30
帝都の喧騒を離れた衛星都市への買い出し。
それは、この屋敷の家計を支えるための重要な「遠征」だった。
イブンという強力な護衛と、セトの母、見習いとしてのミーナを伴い馬車が砂塵を上げて去っていく。
残されたのは、静まり返った屋敷と、二人の主従だけだった。
「……よし、これで終わりだ」
午前中の農作業を終え、セトは額の汗を拭った。
母たちが用意してくれた食事を、主であるエンヴァと二人きりで囲む。
普段は賑やかな食卓が、今は奇妙なほどに静かだ。
カチリ、というカトラリーの音さえ、今のセトには鼓動を急かせる劇薬のように響いた。
食後、昨夜の教えを身体に刻むべく庭へ出ようとしたセトを、冷涼な声が呼び止める。
「セト、来なさい。……部屋へ」
何の用か、と首を傾げながら扉を潜ったセトの視界で、世界が静止した。
窓から差し込む午後の柔らかな光の中、エンヴァは流れるような動作で、その衣を解き始めたのだ。
「っ……!?」
咄嗟に目を覆うセト。
だが、視界の端で捉えたのは、部屋の中央に置かれた水桶と、白く清潔な布だった。
それは、本来なら妹のミーナが担う「清め」。
かつて、二人きりで森を彷徨ったあの日。
泥と血に汚れた彼女の身体を、震える手で拭ったあの時の記憶が、熱を帯びて蘇る。
「……何をしているの。早くしなさい」
拒絶を許さぬ、傲岸で、けれどどこか誘うような言葉。
セトは覚悟を決め、桶の水を布に浸した。
目前にさらされたのは、月の光を凝固させたかのような、あまりにも滑らかな肌。
あの日、森で見た時よりも、彼女の身体は確実に変貌を遂げていた。
少女特有の危うい細さを保ちつつ、柔らかな曲線を描き始めた輪郭。
掌に吸い付くような肌の弾力。
そして、布越しにも伝わる、確かな「女性」としてのふくらみと芳香。
セトの指先に伝わる雫が、静寂の中にポツリと、重い音を立てて落ちた。
熱を帯びた「清め」を終え、セトは逃げるようにその場を辞そうとした。
視界に焼き付いた主の残像。
指先に残る、吸い付くような肌の感触。
これ以上この部屋に留まれば、己の理性が砂上の楼閣のごとく崩れ去ることを直感していたのだ。
「それでは、失礼いたします。……おやすみなさいませ」
(……早く、外へ。冷たい夜気に当たって、死ぬ気で素振りをしよう)
震える声を押し殺し、セトが重い扉に手をかけたその時。
背後から、心臓を直接鷲掴みにするような冷涼な声が響いた。
「どこへ行くのじゃ。……寝るぞ」
「はぁッ!? ……い、今、なんと!?」
セトの脳内で、何かが派手に火花を散らして爆発した。
振り返れば、そこには月の光を吸い込んだような銀狼の毛布。
その上に横たわるのは、薄手の絹の肌着一枚を纏っただけの、この世のものとは思えぬ美貌を晒した主の姿だった。
「……ミーナがおらんのだ」
有無を言わさぬ誘い。 エンヴァの視線が、ベッドの隣を指し示す。
逆らうことなど、できようはずもない。
セトは半分幽霊のような足取りで、指示されるままに灯りを消した。
漆黒に沈む部屋。視界が閉ざされたことで、他の感覚が異常なまでに研ぎ澄まされていく。
隣から漂う、清め終えたばかりのエンヴァの芳香。衣擦れの音。
そして、不意に首筋に絡みついてきた、細く、しなやかな腕。
(……っ! ど、心臓がうるさすぎる……!)
ドクドクと、全身の血が逆流するような激しい鼓動。
その音は、密着したエンヴァの身体を通して彼女自身にも伝わっているのではないか。
そう思うと、セトは羞恥と興奮で意識が遠のきそうになった。
だが、そんな少年の葛藤をよそに、主は満足げに小さく鼻を鳴らした。
セトの肩に頭を預け、まるで極上の抱き枕を手に入れた子供のように、穏やかな寝息を立て始める。
(……ああ。俺は)
絡みついた腕をほどく勇気など、持ち合わせてはいなかった。
三日間、不眠不休で剣を振り続けた身体は、主の体温に触れたことで急速に弛緩していく。
今夜ばかりは、剣よりも、型よりも、この安らかな温もりを優先させよう。
「……今日の稽古は、中止だ」
自分にだけ聞こえる小さな声でそう呟くと、セトは深い、深い眠りの淵へと、主と共に沈んでいった。
数日間の不眠が嘘のように、セトは深い眠りから浮上した。
「日の出前に起きる」セトの奴隷時代の習慣も今日に限っては働かなかった。
そして、覚醒した瞬間に彼を襲ったのは心臓を突き破らんばかりの衝撃だった。
「……っ!?」
右腕に伝わる、柔らかな重みと、絹のように滑らかな感触。
窓から差し込む朝の光が、枕元に広がる鮮烈な「銀」を照らし出していた。
昨夜の暗闇では曖昧だったその輪郭が、今は残酷なほど鮮明だ。
薄い絹の肌着一枚を纏い、無防備に寝息を立てる主の姿。
白磁のような肌が朝日に透け、セトの理性は今まさに、断崖絶壁の縁で爪先立ちの状態にあった。
自分の肩口で眠る小さな頭はスゥスゥと透明度の高い寝息を立てている。
少し視線を落とすと寝乱れた肌着の隙間から覗く純白の肌と膨らみ。
そして無防備にも程があるピンク色の唇。
「!」
(見てない……見てないぞ)
一瞬で視線を戻すセト。
(……落ち着け。動くな。……いや、逃げろ、俺!)
音を立てることも、呼吸を荒らげることも許されない。
セトは熟練の暗殺者のような慎重さで、自分の腕をそっと抜き取った。
主の身体が冷えぬよう、静かに、かつ迅速に掛け毛布を肩までかける。
そのまま音もなく部屋を抜け出したセトは、廊下で大きく息を吐き出した。
(……危なかった。あと一秒、見ていたらどうなっていたか……)
荒れ狂う心音を静めるため、セトはすぐさま台所へと向かった。
昼にはミーナたちが帰ってくる。
エンヴァもそろそろ目を覚ますだろう。
それまでに、主の胃袋を満足させる朝食を用意しなければならない。
卵を落とし、パンを焼き、新鮮なサラダとチーズを並べる。 パチパチと薪がはぜる音に混じって、背後から衣擦れの音が響いた。
「……よく寝られたか?」
振り返れば、そこにはいつものように凛とした、それでいてどこか柔らかな空気を纏ったエンヴァが立っていた。
服もしっかりと着こなしている、ミーナがついていないので髪は多少バサバサであるが。
「はい、お陰様で! すっかり身体が軽くなりました」
「なら……良い」
その短い言葉の響きに、セトは気づいた。
彼女は、不眠不休で自分を追い込み続けていたセトを、彼女なりのやり方で休ませたのだ。
言葉で「休め」と言う代わりに、自らの熱を与えて。
「エンヴァ様、チーズが良い感じに焼けておりますよ」
切り分けたパンの上に、ほんのり焦げ目のついた黄金色のチーズを乗せて差し出す。
受け取ったエンヴァの口角が、ほんのわずかに上がった。
「……ふふん」
機嫌が良い、どころではない。
その鼻歌のような短い呟きに、セトは昨日までの劣等感が少しだけ溶けていくような、そんな錯覚を覚えるのだった。




