7生 ep.20
「革命」という名の熱病が去った後、帝都を包んだのは静寂ではなく、底なしの絶望だった。
王座を挿げ替えたところで、空っぽの胃袋が満たされるわけではないという冷酷な現実が、民衆の前に突きつけられた。
意気揚々と宮殿へ入城した革命軍が、まず直面したのは、あまりに無残な「国家の家計簿」だった。
民心の安定のため、ニコライたちは即座に国庫の開放を命じた。
だが、重厚な扉の奥に眠っていたのは、輝く金貨でも山積みの小麦でもない。
ただの埃と、使い古された帳簿の山だった。
「革命が成れば、全部良くなる。……そう信じていたのに」
街角では、昨日まで革命の旗を振っていた市民たちが、力なく地面に座り込んでいた。
期待が大きかった分、裏切られたと感じるまでの時間は短かった。
「臨時政府が食糧を独り占めしているらしいぞ」
「あのニコライとかいう男、皇帝から奪った金で贅沢をしているんだ」
そんな根も葉もない噂が、毒霧のように帝都を侵食していく。
かつての英雄は、今や「飢えの責任者」として民衆の憎悪の矢面に立たされていた。
革命軍の内部からも「話が違う」と突き上げられ、民衆からは石を投げられる。
八方塞がりとなったニコライは、幽霊のような足取りで、再びあの「逆さ十字」の主の門を叩くしかなかった。
「『全部良くなる』ですって? ふふ、おめでたいわね。……太陽が昇ればお腹が膨れるとでも思っていたのかしら。世界を動かしているのは空想じゃないわ」
「はい、エンヴァ様の仰る通りです。どうかお力をお貸し頂きたく。」
「今度の『授業料』は、貴方の命でも足りないかもしれないわよ?」
門の奥から響く、鈴を転がすような少女の声。
ニコライは、雨に濡れた捨て犬のような、憔悴しきった表情でその場に膝をついた。
かつての「革命の英雄」は、今や泥濘にまみれた敗残兵のようだった。
豪華な応接室のソファで優雅に指先を眺めるエンヴァの前で、ニコライは震える声で懇願を続けていた。
「……助けてくれ、エンヴァ。このままでは、臨時政府は内部から崩壊する。民衆の暴動を止めるには、君の持つ備蓄を放出してもらうしかないんだ」
ニコライの悲痛な叫びに対し、エンヴァは視線すら向けず、冷たく言い放った。
「断るわ。……そんなことをして、私に何の得があるのかしら?」
「金なら払う! 帝国が溜め込んでいた秘密資産の場所を突き止めた。それをすべて君に――」
「お金? ふふ、笑わせないで。ニコライ、貴方は根本的な勘違いをしているわ」
エンヴァはゆっくりと立ち上がり、ニコライの目の前で足を止めた。
その瞳には欠片ほどの情けも残っていない。
「貴方、裏で何をしていたか忘れたとは言わせないわよ? 西方の豪農たちに、私を通さず直接買い付けの交渉をしていたわね。しかも銃と軍隊で脅したと言うじゃない……私の商売に横槍を入れようとした罪、万死に値すると思わない?」
ニコライの背筋に氷のような戦慄が走った。
確かに彼は、エンヴァへの依存を断ち切るため、密かに西方諸国へ使いを出していた。
だが、帰ってきた答えは絶望的な拒絶だけだった。
『旦那、無茶を言わないでください。……私らも、命が惜しいですから』
豪農たちは皆、一様に怯えていた。
かつてクリフが黄金を積んで道を作り、そのすぐ後ろからエンヴァの放った「掃除屋」たちが、裏切りが何を意味するかを徹底的に叩き込んで回っていたのだ。
彼らにとって、エンヴァの「逆さ十字」に背くことは、一家全員で地獄の門を叩くことと同義だった。
「……っ、あれは、政府としての正当な――」
「正当? 面白い冗談ね。……この国を支配しているのは、紙切れ(法律)じゃない。私の『意志』よ。……下がって。……それとも、あの大聖堂の空きスペースがお望みかしら?」
ニコライは、もはや言葉を返す力すら残っていなかった。
命を繋ぐために差し伸べた手は、自分自身の愚かな野心が招いた報いによって、無残に切り落とされたのである。
「命を持ち帰られるだけ、幸運と思いなさい。せっかく成し遂げた革命なんですもの、最後まで面倒を見るのよ。……『王様』なんでしょう?」
エンヴァは、興味を失ったように手元のティーカップに視線を落とした。
(エンヴァ……。お前に踊らされて、成就『させられた』革命だけどな……)
ニコライは奥歯を噛み締め、心中で毒づくのが精一杯だった。
そんな男の屈辱を見透かしたように、十二歳の少女は艶然と微笑む。
「勘違いしないで。私としても、この国が完全な無政府状態になるのは困るのよ。略奪や暴動が頻発して、物流が止まれば……色々『面倒』じゃない」
あくまでも、エンヴァが語るのは自分の都合だけだった。
事実、彼女がその気になれば、強大な私兵集団『アルテリ』と食糧という名の最強の兵器を用いて、この国を力ずくで統一し、自ら女王として君臨することすら容易いだろう。
だが、それはエンヴァにとって、あまりに「面倒なこと」だった。
統治、外交、内政……そんな瑣末なことに時間を割けば、あの大切なお母さまと過ごす時間が削られてしまう。
彼女の今生にとっての世界の価値は、自分に愛を注いでくれたリーリャという一人の女性の笑顔と、その他の「有象無象」の二つにしか分かれていないのだ。
「……用が済んだなら、早く帰りなさい。何も話す事は無いわ」
有無を言わさぬ拒絶。
手ぶらで、そして魂を削られた状態で邸宅を追い出されたニコライは、雨の降り始めた帝都の街へと消えていった。
臨時政府に何一つ持ち帰ることができず、民衆の飢えと、同志たちの不信感という名の激流に飲み込まれたニコライ。
追い詰められた「英雄」は、その数週間後、誰一人として予想しなかった
――あるいはエンヴァだけが予見していた――最悪の選択をすることになる。




