7生 ep.13
帝都の攻防から二年。
街は帝国軍が辛うじて秩序を維持しているものの、繰り返される内戦によってその土壌は疲弊しきっていた。
「……ああ、やっぱり。私は、ここにいたのね」
十歳のエンヴァは、自室の机に広げた世界地図の西方、かつて「共和国」が栄華を誇った地を細い指でなぞった。
帝都に構えた武器工場や様々な投資によって得られた帝都の利益は今や貴族領に匹敵する土地程度なら買い取れるほどに膨れ上がっている。
だが、内戦で痩せ細ったこの帝国では、金はあっても「食糧」そのものが枯渇し始めていた。
(お母さまに、またあの粗末なパンを食べさせるわけにはいかないわ。……貿易という手段で、外の豊穣を引き込む時ね)
エンヴァは冷徹に状況を分析する。
共和国においてかつて自分が統治していた土地。
そこにあった広大な耕作地も、白亜の城も、主を失った後は他国との戦火に晒され、すべて国家に没収されたはずだ。
今更戻った所で権利など、今の自分には塵ほども残っていない。
だが、利権がないのなら、力で上書きすればいい。
その夜。
帝都の裏通りにある、アルテリが管理する秘密の会談所に、一人の商人が現れた。
西方からやってきたというその男は、使い古された旅装に身を包んでいたが、その佇まいには隠しきれない気品が漂っている。
「……お待たせいたしました、エンヴァ様」
男が深々と頭を下げた瞬間、ランプの灯りに照らされたその瞳が、鈍く光った。
それは、かつてのエンヴァの同族であることを示す、だいぶ薄くはなっているが、瞳に「黄金の光」を残していた。
その瞳を一見してエンヴァの表情が少し硬くなる。
「まずは、お座りなさい」
エンヴァの声は、十歳の子供とは思えぬ冷徹な響きを帯びていた。
商人の青年——クリフは、その黄金の瞳に射すくめられ、魂を直接掴まれたような錯覚に陥りながら、促されるままに椅子へ腰を下ろした。
「……ありがとうございます。初めまして。西方で商いをしております、クリフと申します」
「……クリフ。その名前に、私は少しばかり聞き覚えがあるわ」
エンヴァは優雅に足を組み、深淵のような瞳で彼を観察する。
「もしかしたら貴方の祖父か、あるいは曾祖父と同じ名……なのではないかしら?」
「ッ! どうしてお分かりになったのですか!? もしかして、貴女様は私の一族について何かご存知なのですか?」
クリフが身を乗り出す。
その瞳に宿る薄い黄金の光が、興奮で微かに強く輝いた。
非支配地域の新興商人に過ぎないクリフにとって、この帝国への旅はなかば博打のようなものだった。
活動範囲も狭く、後ろ盾もない彼がこの地に降り立ったのは、ただ「帝国が有能な商人を探している」という、出所不明の微かな噂を耳にしたからに過ぎない。
まさか、その噂の主が十歳の少女であり、さらには自分の家系の深淵を知る者だとは、夢にも思っていなかっただろう。
「……失礼ながら、閣下。私はただの、名もなき商人に過ぎません」
クリフは、動揺を隠しきれないまま声を震わせた。
「帝都で食糧難に喘ぐ有力者が、西方の物資を求めているという噂を聞きつけ馳せ参じただけなのです。私の家系など、田舎の片隅で細々と商いをしてきた程度のもの。……それを、なぜ貴女様が?」
「ふふ。噂を流したのは私よ、クリフ。貴方のような『鼻の利く』人間を炙り出すためにね」
エンヴァはその薄い黄金の瞳をじっと見つめた。
「少しね。興味があるの……貴方の家系の話を、私に聞かせてくれるかしら?」
エンヴァに促され、クリフは自らのルーツを語り始めた。
彼の祖父の代に、無一文から身を起こした商人の家系であること。
祖父母の間に生まれた子がさらに子をなし、それが自分であること。
「その祖父母は……まだご存命なのかしら?」
「いえ。私が生まれた頃に、相次いで亡くなったと聞いております」
「そう……名前は解る?」
「はい。祖父はレオ、祖母はリナと言ったそうです」
(…………レオ、そしてリナ。世界って、こんなに狭かったかしら)
エンヴァは、手元にある最高級の紅茶に視線を落とした。
密談所の冷たい空気の中で、十歳のエンヴァはクリフの言葉を反芻していた。
レオとリナ。
その名が紡がれるたび、彼女の記憶は時間を飛び越え、あの「灰色の島」へと引き戻される。
(……そう。あの子たちが島を出たのは、まだ十五の春だったわね)
前世の記憶。
流刑の島での、静かで、けれど終わりへと向かっていた日々。
エンヴァとクリフの息子であるレオと、レオンとクラリッサの愛娘であるリナ。
二人が十五歳になったとき、エンヴァ、クラリッサ、クリフ、レオンの4人は、決断を下した。
「いい? ここは、未来のある若者がいつまでもいていい場所ではないわ。……さっさと大陸へ渡りなさい」
エンヴァは、掃除の行き届いた愛着のある家から、二人を追い出すように言い放った。
手渡したのは、二人にに叩き込んだ「商売の極意」という名の武器と、袋に担いでどうにか運べる位の黄金。
「そうよ。自分たちの手で居場所を作るの。……そして、そこで新たな仲間たちを見つけなさい」
クラリッサもまた、寂しさを殺して背中を押した。
その時、レオとリナの瞳に宿ったのは、悲しみではなく深い悟りだった。
(ああ……この人たちはここで生き、そして死んでいくつもりなんだ。……私たちのために、この檻を壊してくれたんだ)
二人は両親たちの「覚悟」を胸に大陸へ渡った。
エンヴァから持たされた黄金は、ただの金貨ではなかった。
それは、見知らぬ土地で「土地」を買い、「人」を雇い、領地経営という名の新たな居場所を築くための種火。
レオの知略とリナの献身は、荒れ地を肥沃な大地へと変え、農業から始まった事業はやがて多角的な経営へと成長を遂げた。
そして、時は流れ。
自分たちの役割が終わったことを悟った二人は、次代へとすべてを引き継ぎ、静かに現役を退いた。 不自由のない穏やかな晩年。仲間にも商売にも恵まれて二人は豊かな老後を過ごした。
最後は、まるで天国でも傍にいることを約束していたかのように、日を置かずして、二人は共にこの世を去ったという。
「ありがとう。とても興味深いお話だったわ」
エンヴァは、手元で冷めかけた紅茶のカップを愛おしそうに眺めながら言った。
その声には、十歳の子供が持つはずのない、悠久の時を渡ってきた者だけが宿せる深みが混じっている。
「こちらこそ……。ところで、恐れながらお訊きしてもよろしいでしょうか。何故、エンヴァ様は私の曾祖父の名前をご存知だったのですか?」
クリフは、目の前の少女に宿る圧倒的な「格」に圧倒されながらも、どうしても拭えない疑問を口にした。
曾祖母の名は『エヴァ』。
そして、この少女の名は『エンヴァ』。
その奇妙な符合。
さらに、自分の家系の秘事を言い当てたこの幼き支配者は、一体何者なのか。
「ふふ、そんなに不思議そうな顔をしないで」
エンヴァは可憐に唇を綻ばせ、黄金の瞳を細めた。
「私の御先祖様がね……かつて同じ金色の瞳をした子供を、そちらの国に残してきたとか、何だとか。そんな話をお母さまから聞いたの。こんな色の目なんて珍しいでしょう? だから、もしかしたらと思って聞いてみただけよ」
「……左様でございましたか。まさか、そんな古の縁が、今この場所で繋がるとは」
クリフは感銘を受けたように息を吐き、深く納得したように頷いた。
目の前の少女がつく、あまりにも「もっともらしい」嘘。
まさか、自分たちの血の源流である『魔女』その人が、時を超えて自分よりずっと年若い姿で目の前に座っているなど、夢想だにしない。
(……本当のことを言ったところで、狂人扱いされるだけだものね)
エンヴァは心中で小さく苦笑した。
『貴方は私のひ孫なのよ』
そんな言葉をこの実直な青年に投げかけて、商売の話を断られても困る。
それに、この「距離」こそが今は心地よい。
「――それでは、取引の話をしましょうか」
エンヴァの声が、一瞬で温かさを脱ぎ捨てた。
その響きは、もはや幼い少女のそれではなく、数多の利権を啜り、国家の運命を弄ぶ「支配者」のそれだった。




