3 不条理なる日常の音色
霧矢の姿が完全に光の余白へと融解し、ただの夜気のグラデーションへと戻ってしまったその場所で、紗夜はしばらくの間、微動だにせず立ち尽くしていた。
彼が立っていたはずの空間には、今や一筋の風さえも留まっておらず、ただ現実の東京の、冷たく淀んだ隙間風が、無神経に吹き抜けていくだけだった。
自分の右の掌を見つめる。
爪が皮膚に食い込むほど強く、何度も何度も握りしめてみる。
そこに残っているのは、もう霧矢の節くれ立った大きな手の確かな質量でも、血液がドクドクと脈打つようなあの熱量でもなかった。
手のひらは、夜風に晒されるまま、見る見るうちに冷たくなり、現実の不快な寒さを彼女の脳へと伝達し始めていた。
だが、彼女はもう泣かなかった。
彼女の胸の奥深く、その生命の最もコアとなる部分には、彼から受け取った錨の熱が、消えない刺繍糸のように1本1本、強固に縫い込まれていたからだ。
どんなに物理的な肉体が冷え切ろうとも、その中心にある熱源だけは、二度と誰にも奪うことのできない確固たる事実として、彼女を支え続けていた。
紗夜はゆっくりと、重い足枷を外すようにして、前進するための最初の1歩を踏み出した。
その瞬間、足元で琥珀色の円を描いて広がっていたはずのあの滑らかな水面が、カチリ、と硬質な音を立てて、乾いた、何の特徴もない無機質なコンクリートとアスファルトの質感へと完全に切り替わった。
路地の深い暗がりを、まるで夢の滓を自分の指先で一つひとつ振り払うようにして、静かに、一歩一歩、現実の側へと潜り抜けていく。
頬を刺すように撫でる、現実の冷たく湿った風。
その風は、排気ガスの微かな匂いと、古い雑居ビルが雨を吸って吐き出すコンクリート特有の、あの少し埃っぽい無機質な匂いを孕んでいた。
遠くの主要道路から聞こえてくる、深夜の救急車の、現実の生と死、不条理な日常を強引に告げるような、無機質で規則的なサイレンの音。
深夜営業のコンビニエンスストアの看板から漏れ出す、青白くチカチカと不規則に点滅する、情緒のかけらもない蛍光灯の暴力的な光。
それらすべてが、かつての彼女にとっては、息をすることさえ拒絶したくなるような冷酷な現実そのものだった。
おばあちゃんのいない、自分を独りぼっちで取り残した不条理な世界のノイズ。
けれど、今、境界を潜り抜けてその光を浴びた彼女の胸には、別の感情が芽生えていた。
不完全で、騒々しくて、理不尽で、けれどだからこそ、自分が今から自分の足で生きていかなければならない、愛おしい日常の音色なのだと。
彼女は、自分が今、世界のどの位相に立っているのかを確かめるように、路地の出口で一度立ち止まり、大きく、深く息を吸い込んだ。
肺が、東京の冷たい、少し澱んだ空気で満たされる。
その冷たさは、彼女が確かに生きていることを証明する、紛れもない生命の感覚だった。
ふと、自分が今通り抜けてきた、あの背後の路地を振り返った。
そこには、つい先ほどまで2人が並んで歩き、琥珀色の霧が幻想的に裸電球の光をオーラのように煙らせていた、昭和の面影を残す美しい路地も、古びた店残光堂の木製の引き戸も、もうどこにも存在しなかった。
ただ、冷たい街灯に照らされた、なんの変哲もない、錆びたトタン壁と、古びたエアコンの室外機が不快な低音を立てて回り続ける、深夜の、暗いアスファルトの行き止まりの袋小路が、しんと静まり返って、現実の静寂の中に沈黙しているだけだった。
境界の扉は、完全に閉じたのだ。
霧矢という奇妙な調律者も、琥珀色の温かな夜の世界も、すべては最初から彼女の脳が見せた一瞬の白昼夢、あるいは死の淵で脳内物質が作り出した都合のいい幻影であったかのように、静かに、そして完全に、その強固な扉を閉ざして、夜の向こう側へと帰っていったのだ。
それでも、紗夜の唇の端には、小さく、けれど温かな笑みが浮かんでいた。
夜の向こう側へと置いてきたものは、かつて彼女の足を引っ張り、暗闇へ引きずり込もうとしていた恐怖や、おばあちゃんの死から逃げ回っていた後悔ではない。
彼女がそこに静かに置いてきたのは、かつて刺繍を辞めて、祖母の死から逃げ回っていた、あの1年間の、縮こまった自分自身そのものだったのだ。
「さようなら、霧矢さん。……さようなら、私の止まっていた時間」
誰もいない、現実の行き止まりの袋小路に向かって、彼女は小さく、けれど二度と揺らぐことのない声で呟いた。
彼女は、もう振り返らなかった。
都会の深夜の、冷たい風を正面から受け止めながら、彼女は、自らのワンルームマンションがある、現実の日常へ向かって、真っ直ぐに歩み始めた。
朝が来るまで、もう時間はなかった。
境界の夜は明け、新しい、彼女自身の手で紡ぎ出すための人生の物語が、今、ここから、静かに始まろうとしていた。




