1. 冷酷なカウントダウンと、無償の愛
白銀の大樹の、底冷えのするしんとした空洞へと、2人が互いの脈拍の乱れを合わせるようにして、同時に1歩を踏み込んだ、まさにその瞬間だった。
まるで見えない巨大な刃によって、一斉に引き裂かれたかのような衝撃だった。
世界を支配していた重々しい暗黒も、視界を遮る無数の白い刺繍糸も、唐突に、暴力的なまでの勢いで激しく霧散していく。
だが、その視界が遮るものなく拓けた瞬間に、紗夜の五感を襲ったのは、これまでの長い暗闇の苦しみからの解放を告げるような、救済の光の祝福などでは決してなかった。
「……っ!? げほ、ごほっ……、う……っ、あ……!」
突如として鼓膜の奥、あるいは鼻腔の最深部へと、断りもなく滑り込んできたのは、ツンとした、喉の奥の繊細な粘膜を白く火傷させるような、あの独特で無機質な消毒液の匂いだった。
それは長年、何百人、何千人もの病人とその家族の絶望や涙、生への生々しい執着を吸い込んで、何層にも折り重なって床や壁の隙間に染み付いたかのような、埃っぽさと薬品の混ざり合った、陰惨な空気の塊だった。
それが、蛇のような冷徹さを持って、彼女のデリケートな肺の奥底へと容赦なく滑り込み、呼吸の機能を一時的に、完全に麻痺させる。クレゾール液の、あの鼻の奥をねっとりと刺すような悪臭が、彼女の脳の記憶の引き出しを乱暴にこじ開けていく。
あまりの息苦しさと胸を突く嫌悪感に、紗夜は激しく胸を上下させて咳き込んだ。その喉の喘ぎは、境界の世界の美しい静寂を無惨に引き裂き、生々しい現実の苦痛として彼女の肉体に突き刺さる。
五感のすべてが、一瞬にして、二度と引きずり出されたくなかった、誠に凄惨な、1秒たりとも忘れることのできなかったあの日――1年前の記憶の生々しい色彩によって、暴力的なまでの力で書き換えられていく。
耳の奥をつんざいたのは、先ほどまで刺繍の森の天井を形作っていた、あの木の葉たちの優しく静かな、互いに擦れ合いながら囁き合うような心地よいざわめきではなかった。
規則正しく、けれどひどく冷酷に、一定の、何一つ慈悲のない無機質な間隔を保って電子の波を刻み続けられる、心電図の機械音。
ピッ、ピッ、ピッ、というその平坦な金属音は、人間の命の残量をデジタルに、そして淡々とカウントダウンしているかのようで、聞いているだけで心臓の裏側がジリジリと焦げ付くように痛む。
その音が1つ響くたびに、全身の毛穴から急速に体温が奪われ、指先から血の気が引いていくのが分かった。
それは、あの冷たいプラスチックのケースの中から響く、命の終焉を告げる正確な時計の針のようだった。
その金属音の合間に聞こえる、人工呼吸器の、蛇の呼吸のような不気味な空気の漏れる音が、紗夜の耳腔にべっとりとへばりついて離れない。
視界に広がっているのは、植物でありながら木綿や絹の繊維で編み上げられていた、あの美しい巨木たちの天蓋ではない。
経年劣化によってプラスチックの四隅が茶黄色く変色し、不規則にジジジ、ジジ、と細かな明滅を繰り返す不機嫌な蛍光灯。それに照らされた、どこまでも平坦で、なんの飾り気もない真っ白な、所々の壁紙が湿気で剥がれかけた天井。
西日の差し込む窓のアルミサッシは、数年分の埃をかぶって薄黒く汚れており、ガラスの向こう側からは、遠くの錆びついた電柱で身を縮めているカラスの、掠れた不吉な鳴き声が、夕暮れ時の重たく湿った空気を通じて、鼓膜へとねっとりとへばりついてくる。
カーテンは薄汚れたベージュ色で、不自然な形に波打ったまま固まっていた。
室内の片隅に置かれた茶色い木目のゴミ箱、プラスチックのコップ、すべてが色褪せ、死の予感に満ちている。
1年前のあの日。
紗夜の現実の時間を完全に凍結させ、彼女から刺繍という世界のすべて、生きる意味のすべてを奪い去ってしまった、あの病院の個室。
その光景が、狂った映画のプロジェクターのように、圧倒的な現実感と凄まじい質量を持って、彼女の周囲に再構築されていた。
壁に掛けられたプラスチック製の時計の針は、あの日、祖母の鼓動が止まったあの午後4時17分を指したまま、ピクリとも動かない。時間の流れそのものが、悪意を持って彼女をあの瞬間に閉じ込めようとしていた。
「いや……嫌、嫌……! どうして、ここに……! お願い、やめて、見せないで……!」
あまりの精神的な衝撃に、紗夜の膝が激しく笑い、ガクガクと小刻みに、制御できない拒絶の震えに支配され始める。
足元を心地よく支えていた、極上のウール絨毯のような厚く柔らかい苔の感覚はどこかに消え失せ、薄い現実の靴底を通じて、滑りやすい、冷たく硬いリノリウムの床の感触が、脳の芯を直接突き刺していた。
冷気が床から足首を伝って、容赦なく彼女の身体を凍りつかせていく。
自らの身体の重みを支えきれなくなり、そのまま床へと崩れ落ち、過去の深い泥の奥底へと引きずり込まれそうになったその瞬間。
ギュゥゥ、と。
彼女の右手を包み込んでいた、あの圧倒的な熱量が、骨がみしりと音を立てて軋むほどの、爆発的な力強さで彼女の身体を上へと引き戻した。
「紗夜さん――っ!!」
すぐ耳元で、鋭く、けれど胸が締め付けられるほどに必死な、霧矢の声が響いた。
ハッと横を向けば、病室の薄汚れた赤い西光の中で、霧矢が自らもリノリウムの床に片膝を突くようにして、倒れかかった彼女の華奢な身体を、その大きな左手と右腕全体を使って、壊れ物を守るような必死さでがっしりと支え止めていた。
彼の藍染めの羽織が、無機質な床の上に、まるで夜の海を切り取ったかのように大きく広がっている。
そこから立ち上る、古い書物の匂いと、ほのかな珈琲の暖かな、心を落ち着かせる香り。
その、幻想的な夜の世界には存在しないはずの現実のノイズだけが、ここが過去の幻影であり、彼女が今もなお、境界の夜の世界にいるのだという唯一の証明だった。
彼の羽織の繊維の1本1本が、夕暮れの赤い光を浴びて、深い紫色に変色しているのが見える。その布地を通じて伝わる彼の胸の厚みが、彼女のパニックをかろうじて押し留めていた。
霧矢は、自身の節くれ立った大きな掌で、紗夜の、再び過去の記憶のパニックによって薄く透き通り、世界の余白へと溶け出しかけていた右手を、さらに強く、さらに深く、指の隙間に自らの指を完全に滑り込ませて、骨同士が擦れ合うほどに握り直した。
彼の掌の皮膚の少し固い質感、その1枚1枚の皺にまで血が通っているかのような圧倒的な存在感が、紗夜の崩壊しかけた肉体の輪郭をこの世界に強固に引き留める。
彼の丸眼鏡のレンズは、病室の窓から差し込む、血のような夕暮れの赤色を浴びて、万華鏡のように激しく不気味に明滅していた。
その奥にある、深い夜の帳のような色彩を持った瞳には、かつてないほどの焦燥と、けれどそれを上回るほどの、絶対的な包容の光が宿っている。
「霧矢、さん……私、わたし、また消えちゃう……ここは、あの日ので、私のおばあちゃんが……」
「息を吸ってください、紗夜さん。深く、僕の体温だけを意識して。他を見てはいけない」
霧矢は彼女を包み込むようにして、その胸のドクドクとした規則正しい、力強い鼓動を彼女の背中へと直接伝えるようにしながら、低く、けれど地鳴りのようにはっきりと、彼女の鼓膜の奥へと声を叩き込んだ。
「ここは1年前の病室ではない。君の心が、記憶の引き出しの奥底から強引に引きずり出してきた、過去の余白の残骸、ただの幻影です。
何を見ても、どんな声を聞いても、それは今の君を苛む本物の牙ではない。僕の手の熱を信じるんだ。
君が僕の手を握りしめている限り、君の命は僕がここに繋ぎ止める。絶対に離さない、絶対に君を世界から消させはしない……!」
ドクン、ドクン、ドクン。
霧矢の両手から伝わってくる、現実の人間よりも熱い、圧倒的な脈動。その熱い波が、紗夜の体内に滞留していた冷たい恐怖の氷を、少しずつ、少しずつ外側から、削り取るようにして溶かしていく。
繋がれた彼の手の温もりが、彼女の暴走しかけた意識の強固な防波堤となり、世界へと溶け出しそうになっていた指先の輪郭を、再び確かな人間の肉体としての重みへと固定していく。
彼の指先の節くれが、彼女の肌に食い込み、痛いほどの現実感を与えていた。
「……はい、……はい、霧矢さん。……離さない、絶対に、離しません……」
紗夜は、喉を震わせながら、霧矢の藍染めの胸元に額を押し当てるようにして、何度も何度も、自分に言い聞せるように頷いた。彼の胸から香る珈琲の苦みと、古い和紙の匂い。それが彼女の荒れ狂う呼吸を、ゆっくりと、凪の海へと導いていく。
彼の存在という、この曖昧な世界における最大にして唯一の錨を頼りに、彼女は凍りついた視線を、ゆっくりと、正面のベッドへと向けた。
夕暮れの赤い光が、ベッドの上の白いシーツを、まるで錆びた血のような禍々しい色に染め上げている。
そこには、1年前のあの日、すっかり痩せ細って小さくなり、寝たきりになっていた、彼女の最愛の祖母の姿があった。
いつも大切に手入れされていた、白く、細い、けれど無数の針傷が刻まれたあの愛おしい両手は、今や点滴の透明な管に繋がれ、痛々しくベッドの上、白いリネン布の上に力なく投げ出されている。
チューブの中を流れる透明な薬液が、夕日を浴びて不気味にきらめいていた。
いつもかけていた度の強い丸眼鏡はサイドテーブルの薬瓶の横に無造作に置かれ、眼鏡を外した祖母の目は、うつろで、どこか遠くを見つめているようで、ひどく小さく見えた。
皮膚は乾燥し、木の皮のように細かな筋が幾重にも走っている。白髪は乱れ、枕の白さに紛れてしまいそうだった。
その胸の上下は、あまりにも微かで、今にもその動きを止めてしまいそうなほどに儚い。
だが、そのうつろな瞳の奥に、確かに、紗夜の知るあの優しい、世界のすべてを包み込むような光が灯った。
祖母は、カサカサに乾いた唇を、微かに、本当に微かに動かした。
あの記憶の木々の前では、決定的な黒い霧の向こう側に隠されて、どれほど手繰り寄せても、どれほど泣き叫んでも聞こえなかった、あの物語の最後の言葉。
それが、1年前のあの日とまったく同じ、けれど驚くほど明瞭な音となって、静まり返った夕暮れの病室に響き渡った。
『忘れてもいいのよ、紗夜』
「え……?」
紗夜の唇から、小さな、乾いた呟きが漏れた。
ベッドの上の祖母は、愛おしそうな目をさらに細めた。
点滴の針が刺さった右手を、紗夜の頬へ手を伸ばすように数センチだけ浮かせ、けれど力なくシーツの上へと落とす。そして、掠れた声で続けた。
『忘れてもいいのよ、私の可愛い紗夜。
人間はね、忘れる生き物なの。それはね、決して冷たいことじゃないのよ。
忘れるということはね、前に進むということだから。
あなたが私の死を背負って、これから先の長い人生を、ずっと暗い部屋で立ち止まっている必要なんてないの。
刺繍も、私の思い出も、もしそれがあなたを苦しめる鎖になるのなら……おばあちゃんのことなんて、全部忘れて、あなたの新しい未来を生きなさい。
あなた自身の物語を縫い上げなさい。おばあちゃんは、いつだってあなたの針の先を見守っているからね』
祖母の、あの低くて少し掠れた、暖炉の炎のように温かい声。
それは、最愛の孫娘が、自分の死というあまりにも巨大すぎる悲劇の重圧に押し潰されないように、残される彼女を、過去の感傷という名の呪縛から解放するために、あらかじめ与えてくれていた、最大にして最後の、無償の愛の言葉だった。
その言葉の温かさは、病室の冷酷な空気さえも、一瞬で春の陽だまりのように変えてしまうほどだった。
祖母の言葉は、病室の無機質な機械音を完全に掻き消し、紗夜の耳の奥へと、深く、優しく染み渡っていった。
忘却という、一見すれば冷酷に思える行為の裏側に秘められた、底なしの慈愛。それが言葉の響きそのものになって、紗夜の全身を包み込む。




