後編
この数日間わたしの頭の中を占拠し続けていた、先生からの宿題。生徒会役員であるがために入学式の準備で登校していた四月一日に、校舎の屋上で出されたそれは、かなり難解なものだった。
日頃学校の中で見かける先生と、あの屋上で見た先生の違い。それはわたしに対する言葉遣いが、他の人に向けられるものとは違っているらしいという事。たとえば一人称。たとえば三人称。さらには口調まで、細かい違いを挙げればきりがない。
その違いの理由を考えて来いというのが宿題の内容だったのだけれど、いくら考えてもはっきりとした答えは見つからなかった。
限りなく都合のいい方向に考えれば、わたしだけ特別扱いを受けていると取る事ができる。けれどそれは本当にわたしにだけなのだろうか。わたしが知らないだけで、先生と一対一になった人は皆同じ扱いを受けているのではないだろうか。そうだとしたら、先生が言うように「オンとオフを使い分けている」だけなのではなかろうか。
それならばなぜあの時、勝手に泣き出したわたしを慰めてくれたのかが分からなくなってしまう。恥ずかしさをごまかすために、誰にでも抱きしめて慰めたりするのかと訊ねたのだが、先生ははっきりとわたしにだけだと言い切った。その理由を考えるのもまた、宿題だと言われていたのだけれど。
わたしの願望を含んだ勝手な自己都合解釈は、この際考えない事にする。けれどそうすると、本当に訳が分からないのだ。
こんなに頭を使ったのは高校の受験勉強以来じゃないかというくらいに、ない脳味噌を必死に絞って考えた。そしてなんとか捻り出した答えは。
「わたし、センセーに嫌われていますよ、ね」
必死に感情を抑えたつもりなのに、声が震えるのはどうしてなのだろう。
「は?」
先生が、なぜだか素っ頓狂な声を上げた。
「あんた、なに言ってんの」
眼鏡のレンズ越しに見える目が、驚いたように見開かれている。
「だって、ずっと考えていて。それこそ禿げるんじゃないかってくらいに考えて考えて、でもどうしてもそうとしか考えられないんだから、しかたないじゃない、ですか」
鼻の奥がつーんと痛くなり、視界がぼやけた。
「あー、もう。なんで泣くかな」
「そんな事、分かりま、せんっ」
当人のわたしにだって分からないのだから、他人である先生に分かるはずなんかない。
「答え合わせ、は?」
泣くとは言っても、正確にはまだ涙は零れていない。必死に堪えた甲斐があって、水分は目尻で留まっている。にもかかわらず声が途切れてしまうのは、恐らく感情がコントロールできないからだ。
「不正解。ってーか、なんでそういう答えに行き着いたのか、経緯を知りたいねえ」
わたしにお茶を出してくれた後、先生は椅子には座らず机に軽く腰をかけている。生徒の前でお行儀が悪いし、教職者としてそれはどうかと思う。でも腕を組んで小首を傾げるような仕種がなぜだか可愛くて親近感が持てる、なんて言ったら、先生は怒るだろうか。
「途中経過、ですか」
「そう。どこでどう間違えて嫌いだなんて答えが出て来たのか、ぜひとも検証してみたいと思うわけですよ」
にっこりと笑っているはずの先生の目は、けれど真剣そのもので。その目に引き込まれるような錯覚に、わたしはついうっかり頷いてしまったのだった。
ここ数日間ぐだぐだと考えていた事を、一部を隠して先生に説明するのはなかなか大変だった。もちろん隠したのは、わたしに都合のよすぎる勘違いの部分だ。絶対にあり得ないのだから、これは端折らないわけにはいかなかった。
必死に言葉を選びながら、時には同じ事を繰り返してしまいながらのわたしの言葉を、けれど先生は辛抱強く聞いてくれていた。途中で茶化されるかもしれないと思ったけれどそんな事はなく、わたしが言葉に詰まってしまっても、急かしたりせずにただ静かに最後まで聞いてくれた。
「つまり、あんただけっていう僕の言葉を、そう解釈したわけね」
低く唸るような声に、びくりとわたしの肩が震える。
先生は組んでいた腕を解き、きれいに梳かされている髪をがしがしと掻いた。そしてわたしの耳にまで届くくらいに大きな溜息をつく。
「そりゃ、ちゃんと言わなかった僕が悪いんだけどねえ。一応これでも教師の端くれだからさあ。僕から言うわけにはいかないっていう事情も、分かって欲しいわけですよ」
先生がほんの少しだけ、情けない表情を浮かべた。なんとなく困っているらしい事がわたしにも分かる。
今この部屋には先生とわたしの二人きりで。話をしているのもわたしと先生の二人だけで。つまり先生を困らせているのは、わたしだとしか考えられなくて。もちろんわたしは先生を困らせるつもりなどない。けれどわたしがいる事で先生が困るというのならば、ここにいるわけにはいかない。
鼻の奥にまた、つんとした痛みを感じた。
「そ、ですよね。うん」
先生は、教師という立場上、はっきりとわたしを拒絶する事ができないのだ。そうする事でわたしが傷つくだろう事を心配してくれているのだ。そんな事にも気付けないくらいに方向違いな勘違いをした挙句、じくじくと思い悩んでいたわたしは馬鹿ではないか。
四月一日、エイプリルフールの冗談でごまかしたわたしの気持ち。本当は、本当に眠っている先生にキスしようとしていた。わたしにとって生まれて初めてのキスは、本当に好きな人としたいと思っていたから。結局は寸前で先生に止められてしまったのだけれど。
教師である先生に、わたしの想いを告げるつもりなどなかった。どうせ本気と受け取ってはもらえない。思春期にありがちな、身近な大人の男性に憧れる一過性の熱病だと思われるだろう事が、容易に想像できて。その事で傷つくのが怖くて。
そして何よりも、先生に迷惑をかけたくなかった。いや、違う。そんな奴なのだと。勘違いで告白をして来るような馬鹿な生徒なのだと。そう思われるのが、疎まれ蔑まれるのが怖かった。
だから好きだと言った言葉は冗談なのだと。そう先生に告げながら、本当は自分自身に言い聞かせていたのだ。
「もしもーし? あんた、また勘違いしてるんじゃないの?」
「勘違い?」
「ちゃんと聞いてた? 僕はあんたの事を嫌ってなんかいないって言ったでしょうが」
それは分かっている。わたしは先生に嫌われていない。けれどそれは裏を返せば、好きでもないと言われているのと同じなのだ。好意を持つ事はあっても、恋愛感情はあり得ない。生徒は、教師にとっての恋愛対象にはなり得ないのだ。なぜなら、それは禁忌だから。
「も、いいです」
これ以上耐はえられない。わたしは椅子から立ち上がった勢いのまま、先生に背を向けた。
「え。おい、こら」
廊下に面したドアは、さっき入って来る時に使った物で。わたしは迷わずそのドアノブに手を伸ばす。手首を捻ってドアノブを回し、ドアを引いた。にもかかわらず、わたしの意に反してドアは開く事はなかった。
「さっき、鍵をかけておいて正解だったなあ」
「は? 鍵を?」
つまり先生とわたしはずっと、この狭い密室に二人きりでいた事になる。先生が一体何を思ってそんな状況を作ったのかは分からないけれど、誰かに知られでもしたらあり得ない誤解を招いてしまうだろう。
外から開くには鍵が必要だけれど、中からならばワンタッチでできる。もちろんそれは解錠する時も同様だ。焦る気持ちの中で冷静なわたしがそう告げる。
そして解錠のために黒いツマミに伸ばした手は、けれどそれに触れる事はできなかった。
「ちょっと、待って」
背後から伸びて来た大きな手のぬくもりに、わたしの手が包み込まれる。ちょうど手を握られている状態になり、背中に感じる熱にどくりと心臓が跳ね上がった。
「忘れてたよ。あんた勉強はできるのに、こういう事は無茶苦茶鈍かったんでしたっけ」
耳元で吐かれる溜息に、思わずこちらの息が止まる。
「本当はこういうのもダメなんだろうけど、誤解されたままっていうのも困るでしょ」
先生の独り言は、まるで今の行動に対する言い訳のように聞こえた。
「て事で、あんた、社会科の教科担当になりなさい」
「は?」
なにが「て事で」なのか理解できなくて、思わず振り向いて大いに焦った。目の前に先生の眼鏡があったからなのだが、考えてみれば手を握られたままだった。
「正解できるまで、ここに通いなさい。ちゃんと僕の事を見て知れば、すぐに分かるはずだから」
先生の口調はとても優しくて。日頃の軽い調子でもなければからかうような響きさえも含んでいない。
これが、たぶん。先生が言う「あんただけ」なのかもしれない。
「社会、科の、教科担当って、競争率が高いの、知ってます?」
特に女子生徒の希望者が多いのだ。理由は至極簡単。先生がお目当て。
「それに、わたし、生徒会もあるから」
「ん? なに、僕の担当になるのが嫌なんだ?」
「そんな事は言ってませんっ」
「じゃあ、決定。担任には俺から推薦しておけば問題はなし、と」
あれ、と思った次の瞬間、先生の体がわたしからすっと離れて行った。手と背中に感じていたぬくもりまでもが離れて行き、わたしは無意識に握られていた手をもう片方の手で握る。
「さすがにこれ以上はいろいろまずいから、今日はここまで」
いつの間にか解錠されていた戸を、先生が開いた。出て行けと、言葉に出さないまでもその仕草が物語っている。
まだ一緒にいたい気持もあったのだけれど、何よりも混乱している頭をどうにかしたくて、わたしはそれに従う事にした。
「気をつけて帰れよ」
結局答えは分からないまま、先生の真意を測る事もできず。
ひらひらと手を振りながら部屋の中に消える姿を見送り、わたしはしばらく呆然と立ち尽くしていた。