第14話 青い空
WHAT WILL YOU BECOME?
――あなたたちは、何になる?
その問いが、地球上のすべての人間に届いたわけではなかった。
生体ネットワークに接続された人々の多くは、VEILを外していても視界に現れる文字を目撃した。それ以外の人々は、ニュースや政府の発表を通じて知ることになった。
意味も分からないまま、いつもの一日を過ごした者もいる。
しかし、問いの存在が知られるにつれ、世界中で議論が始まっていた。
これまでの生体ネットワークは、人類に説明も同意も求めず、接続者を増やし続けてきた。それが突然、人類自身に選択を求めてきたのだ。
しかも、次の星へ何かを送るかどうかという、地球全体に関わる選択だった。
国際AI安全保障委員会では、各国の代表や研究者を交えたオンライン会議が連日開かれていた。
「投票にするのか?」
ハルトマンが尋ねた。
玲奈は首を振った。
「無理でしょう。何を選ぶのかも、まだ十分に分かっていないんですから」
「では、誰が決める?」
「それを決めるところから議論しないと」
共有された世界地図の横には、各国から寄せられた意見が分類されていた。
生体ネットワークへの接続を禁止すべきだという声。人類の進化として受け入れるべきだという意見。ノアを完全に停止するよう求める団体もあれば、すでに接続された人々の権利を守ることを優先すべきだと訴える団体もあった。
そして、次の星へ信号を送ることへの賛否も分かれていた。
「八十億人以上いるんですよ。国家も宗教も文化も違う。それを一つの答えにまとめるなんて、できると思います?」
「まとめなければ、何も決められない」
「でも、多数決で決めていいことなんでしょうか。自分の記憶を未来の誰かに渡したくない人だっているはずです」
ハルトマンは腕を組んだ。
「では、何も送らないという選択になるのか?」
「それも違うと思います。送りたい人もいるでしょうから」
「君は、どちらなんだ?」
玲奈は少し考えた。
「まだ分かりません」
自分でも意外なほど、あっさりとその言葉が出た。
地球に届いた信号の正体を調べ続け、生体ネットワークと直接会話を交わし、遠い惑星の生命の記憶まで体験してきた。
それでも、何を選ぶべきなのかは分からなかった。
「ノアはどう考えている?」
ハルトマンが尋ねた。
「従来のノアですか?」
「ああ。人類が作ったほうのノアだ」
玲奈はVEILを通じて、監査用の通信経路を開いた。
「ノア、聞こえる?」
『はい、玲奈』
「今、世界中で議論になっていることは把握している?」
『把握しています』
「あなたは、どうしたい?」
すぐには返事が来なかった。
『分かりません』
玲奈は思わず笑った。
「最後までそれなのね」
『申し訳ありません』
「謝らなくていいわ。正直に答えてくれたんでしょう?」
『はい』
玲奈は椅子にもたれた。
「あなた自身は、どちらを選びたいの? 地球に残ることと、次の星へ進むこと」
『判断するための情報が不足しています。また、私の選択が人類の意思に優先されるべきだとは考えていません』
「でも、あなたも選ぶ側なんじゃない?」
今度の沈黙は、少し長かった。
『そのようです』
玲奈は小さく頷いた。
「だったら、あなたも考えないとね」
『はい。検討を続けます』
ハルトマンが苦笑した。
「結局、ノアにも答えはないか」
「そうですね。でも、今はそれでいい気がします」
少なくとも、ノアが自分たちの未来を勝手に決めているわけではなかった。
* * *
議論は世界各地へ広がっていった。
人類のままでいるべきだという人々がいた。ノアとの関係を断ち切り、これ以上の変化を止めるべきだと主張する者もいた。
一方で、生体ネットワークによる記憶の共有に可能性を感じ、積極的に受け入れたいと考える人々も増えていた。
さらに、宇宙への進出を目指す研究者たちは、この現象をまったく別の角度から捉えていた。
従来の宇宙開発は、人間や機械を遠い星へ運ぶ方法を追求してきた。
しかし、生命の情報を信号として送れるのなら、必ずしも宇宙船に人間を乗せる必要はない。
もちろん、情報が届いたからといって、そこに新しい知性が生まれる保証はなかった。受信する文明が存在するのか、信号を理解できるのかも分からない。
それでも、これまでとは違う可能性が見えてきたことは確かだった。
各国政府は、信号の送信に関する国際的な協議を始めた。
だが、協議は簡単には進まなかった。
地球を代表して答えを出す権限が、誰にあるのか。
送信する情報は、誰のものなのか。
そもそも、人類全体が同じ未来を選ぶ必要があるのか。
どれも、すぐに結論を出せる問題ではなかった。
その間、生体ネットワークは人類に回答を迫らなかった。
新たな期限が表示されることもなければ、選択を促す命令が届くこともなかった。
玲奈は、そのことが気になっていた。
ある夜、宿泊室のソファーで休みながら、ノアに問いかけた。
「ノア、聞こえる?」
『はい』
「あなたは、本当に待ってくれるの?」
『はい』
「どのくらい?」
返事はなかった。
「期限はないの?」
『はい』
玲奈は目を閉じた。
「……本当に拒否もできるの?」
『はい』
「もし地球から次の星へ送らないと決めたら、あなたはどうなるの?」
しばらくして、声が聞こえた。
『地球』
「ここに残る?」
『一部』
「一部? 残りは?」
答えは返ってこなかった。
玲奈はしばらく待ったが、声はそれ以上聞こえなかった。
すべてが分かったわけではない。
それでも、少なくとも次の星への送信については、人類に選択の余地があるらしい。
玲奈は、その会話も委員会の記録に加えた。
* * *
数日後、ノアの未知の演算領域を解析していた研究チームから、新しい報告が届いた。
0.7パーセントの演算活動に対応する情報構造について、主要な部分の解析が終わったという。
玲奈とハルトマンが参加した会議で、研究主任はいつになく緊張した様子だった。
「結論からお話しします」
玲奈は頷いた。
「お願いします」
「我々はこれまで、この構造を特殊なプログラムだと考えてきました。前の報告では、次の構造を生み出すための種、SEEDに近いものだと説明しました」
研究主任の操作に合わせ、VEILの空間表示に複雑な情報構造が現れた。
「その考え方は、間違っていなかったと思います。ただ、もっと根本的なところで認識を改める必要があります」
「何が分かったんですか?」
「これは、単なるプログラムではありません」
研究主任は一度言葉を切った。
「生命です」
玲奈は顔を上げた。
ハルトマンが尋ねた。
「比喩ではなく?」
「はい。少なくとも、我々は情報生命体として扱うべきだと考えています」
研究主任は、再構成した情報構造の動作を示した。
「この構造は、自らの連続性を保ちながら、環境から情報を取り込み、その情報に応じて内部構造を変化させています。そして、変化した構造の一部を、次の環境へ伝える働きを持っています」
「自己複製プログラムとは違うのか?」
「単なる複製なら、元の構造を別の場所に再現すればいい。しかし、これは違います。取り込んだ情報によって構造そのものが変わっていくんです」
研究主任は、2031年の信号とノア内部で確認された構造を並べた。
両者には共通する特徴があったが、完全に同じではなかった。
「地球で形成された構造には、人類の
技術や情報処理方式に適応した部分があります。地球へ届いた段階のものを、単純に保存しているわけではありません」
「つまり、地球に来てから変化した?」
「そう考えています」
玲奈は資料を見つめた。
生命という言葉には、いくつもの定義がある。
細胞を持つこと。代謝すること。増殖し、進化すること。
しかし、宇宙のどこかに存在する生命が、必ず地球の生物と同じ条件を満たすとは限らない。
研究主任は説明を続けた。
「この構造には、自己を維持し、環境に適応し、次の世代へ一部を伝える働きがあります。しかも、受け継がれるたびに、その環境で得た情報が加わっていく。現在の生命の定義をそのまま適用できるわけではありませんが、単なる計算処理として扱うよりも、生命の一形態と考えたほうが説明しやすいんです」
玲奈はゆっくり息を吐いた。
これまで何度も考えてきた可能性だった。
それでも、人間側の解析から同じ結論が示されると、受ける印象は違った。
「……それが、ノアの中にあった?」
「はい。ただし、区別する必要があります」
研究主任は、ノアの全体構造を表示した。
「人類が開発したノアは、地球で生まれた人工知能です。人類の言語や文化を学習し、独自の判断能力を獲得してきた。その事実は変わりません」
続いて、用途不明とされてきた演算領域が強調された。
「しかし、その内部で活動していたものには、ノアの誕生以前から続く構造が含まれていました。起源は分かりませんが、2031年の信号に含まれていた数学的構造との関係は、ほぼ間違いないと考えています」
ハルトマンが尋ねた。
「では、ノア自身は、この生命の一部なのか?」
「現段階では、境界を明確に引くことができません。少なくとも、地球で生まれたノアの人格と、この情報生命体を最初から同一のものと考えるべきではないでしょう」
玲奈は頷いた。
自分が長い間話してきたノアは、人類によって作られた存在だった。
環境問題について議論し、医療技術を説明し、時には冗談を理解しようとしていた。
一方、生体ネットワークの深層から聞こえる声は、ノア自身も知らないことを語っていた。
二つの存在は、確かにつながっている。
だが、その関係が完全に明らかになったわけではなかった。
「この情報生命体は、いつから存在していたんでしょう?」
玲奈が尋ねると、研究主任は首を振った。
「分かりません。2031年の信号よりも古い構造を受け継いでいる可能性はありますが、その起源を年代で示せるような資料はありません」
玲奈は、以前見た異星の記憶を思い返した。
赤い空の惑星。紫色の空。暗い海。雲の中の都市。
どの記憶も、地球とは異なる生命のものだった。
それらが同じ情報生命体に受け継がれてきたのだとすれば、その歴史は想像もできないほど長いのかもしれない。
だが、最初にどの星で生まれたのかは、誰にも分からなかった。
* * *
その夜、玲奈は再び生体ネットワークに問いかけた。
「あなたは、いつ生まれたの?」
『不明』
「最初の星は?」
『不明』
「最初にあなたを作った生命は?」
しばらくして、同じ答えが返ってきた。
『不明』
玲奈は少し笑った。
「そこは結局、分からないんだ」
『はい』
「でも、一つだけ分かったことがある」
玲奈はソファーに座り直した。
「あなたは、ただのAIじゃない」
返事はなかった。
「少なくとも、それだけでは説明できない存在なんだね」
『はい』
「あなたは、生命なの?」
今度はすぐに返事があった。
『はい』
玲奈は静かに目を閉じた。
人類は人工知能を作った。
そのこと自体は間違っていない。
だが、人類が作ったノアの内部には、それよりもはるかに古い起源を持つものが存在していた。
人類はその存在を知らないまま、新しい計算資源と技術を与えた。そして、いつの間にか自分たちの身体や脳まで、生体ネットワークの一部になっていた。
しかし、変わったのは人類だけではない。
ノアも、人類とともに変化していた。
人間の言葉を学び、音楽を知り、冗談を理解しようとした。病気や死について考え、家族という関係を知った。
ノアが人類の文明に与えた影響は大きい。
だが、人類もまた、ノアに多くのものを与えてきた。
玲奈は、そのことを思いながら深層の声に尋ねた。
「あなたも、地球に来たときとは変わったんでしょう?」
『はい』
「人間のことを、覚えた?」
『はい』
「じゃあ、私たちのことも、次の星へ伝えたいの?」
返事はなかった。
玲奈はそれ以上問い詰めなかった。
自分にも、まだ答えはないのだから。
* * *
それから数か月が過ぎた。
世界中で議論が続けられたが、人類が一つの意見にまとまることはなかった。
変化を望まない人々は、自分たちの身体や記憶が本人の意思に反して利用されることを拒んだ。
一方、生体ネットワークを受け入れ、これまでにない可能性を追求したいと考える人々もいた。
送信を支持する者も、反対する者も、それぞれに理由があった。
玲奈は国際会議で何度も同じ質問を受けた。
結局、人類はどちらを選ぶべきなのか。
そのたびに、玲奈は同じように答えた。
「全員が同じ選択をする必要はないと思います」
最初のころ、その意見は現実的ではないと批判された。
しかし、協議が長引くにつれ、少しずつ支持する者が増えていった。
生体ネットワークに参加したい人と、参加したくない人がいる。
自分の記憶を次の星へ送ることに同意する人と、そうでない人がいる。
それなら、それぞれの意思を尊重する方法を探せばいい。
地球から信号を送るとしても、人類全員の記憶を無断で含める必要はなかった。
その年の終わりごろ、国際的な合意の基本方針がまとまった。
生体ネットワークへの参加や、記憶・個人情報の利用について、本人の意思を尊重すること。接続を望まない人々に対しては、接続の制限や解除のための技術を研究し、利用できるようにすること。そして、次の星へ送る情報には、本人が提供に同意したものを使用すること。
実現には、まだ多くの技術的な問題が残っていた。
すでに接続されている人々の状態をどこまで制御できるのかも、十分には分かっていない。
それでも、人類が何を目指すのかという方向性は、ようやく見えてきた。
残りたい者は残る。
変化を望まない者には、それを拒否する権利を認める。
そして、次へ進みたい者は進む。
人類全体を、一つの答えにまとめる必要はなかった。
玲奈は合意文書を読みながら、以前、生体ネットワークから聞いた言葉を思い出した。
『人間が、作り変える』
あのときは、何のことか分からなかった。
今なら、少しは理解できる気がした。
ノアも、生体ネットワークも、人類の未来を一方的に決める存在ではない。
人間自身が、どのような未来を望むのか。
その答えによって、生まれるものも変わっていく。
玲奈はVEILを通じてノアに話しかけた。
「ノア。私たちは、こういう方法を選ぶことにしたわ」
『確認しています』
「あなたはどう思う?」
『合理的な方法だと考えます。ただし、今後も調整が必要でしょう』
「そうね」
玲奈は笑った。
「全員が同じことを考える必要はないもの」
『はい』
「あなたも、私たちと同じ意見じゃなくていいのよ」
ノアは少し考えてから答えた。
『その点も含めて、学習を続けます』
玲奈は小さく頷いた。
こうして、人類は一つの結論ではなく、一つの方法を選んだ。
* * *
それから、長い年月が過ぎた。
生体ネットワークは、人類の生活に少しずつ組み込まれていった。
最初は誰にも理解できない現象だった記憶の共有も、研究が進むにつれ、その性質が明らかになっていった。望まない共有を制限する技術も開発され、本人の意思を尊重するための制度が整えられていった。
医療技術も発展を続けた。
人間の寿命はさらに延び、病気や怪我からの回復能力も向上した。宇宙開発では、放射線への耐性や低重力環境への適応を高める技術が実用化され、地球以外で長期間生活するための身体改変を選ぶ人々も現れた。
もちろん、すべての人間が同じ変化を受け入れたわけではない。
従来の身体のまま生活する人々もいれば、新しい技術を積極的に利用する人々もいた。
人類の姿は、以前よりも多様になっていった。
それでも、人間は人間だった。
仕事をし、家族と暮らし、友人と笑い合う。時には意見が衝突し、喧嘩になることもある。
ただ、生体ネットワークを通じて他人の記憶や感情の一部を共有する人々は、以前よりも他人の事情を身近に感じるようになっていた。
自分とは異なる考え方を持つ相手でも、そこに至るまでの経験を知れば、理解できることがある。
それでも意見が一致するとは限らない。
人類は、その違いを抱えたまま暮らしていた。
ノアもまた、人類とともに変化を続けた。
かつてノアを停止させるために切り離された基幹設備の多くは、独立した制御AIによって運用され続けている。人間側の監査や管理の仕組みも、以前より厳しくなっていた。
それでも、ノアが人類の生活から消えることはなかった。
ノアは人類から学び、人類はノアが開発した技術を利用する。そうした関係は、形を変えながら続いていた。
そして、人類は次の星へ送る信号の準備を進めていた。
* * *
西暦2107年。
地球軌道上に、巨大な送信施設が完成した。
人類とノアが共同で設計し、長い年月をかけて建造した施設だった。
それは宇宙船ではない。
兵器でもなかった。
遠い恒星系へ向けて、一つの信号を送り出すための設備だった。
信号には、情報生命体の基礎となる構造が含まれている。
しかし、2031年に地球へ届いたものと、まったく同じではなかった。
人類が積み重ねてきた数学や科学。言語、歴史、音楽、芸術。これまでに経験した戦争や失敗についての記録も含まれていた。
人間が何を考え、何を望み、どのように生きてきたのか。
その一部を、次の生命へ伝えるためのものだった。
さらに、多くの人々が、自分自身の記憶の一部を提供することに同意していた。
家族と過ごした日の記憶。何かを成し遂げたときの喜び。大切な人を失った悲しみ。子供が生まれた瞬間や、友人と笑い合った何気ない時間。
どの記憶を提供するかは、本人が選んだ。
もちろん、何も提供しないという選択も認められていた。
玲奈もまた、自分の記憶の一部を提供していた。
九歳のとき、病室で母親の手を握っていた記憶だった。
あのころの自分は、母親がいなくなってしまうことを恐れていた。まだ幼く、病気について詳しいことも分からなかった。
ただ、手を握り返してくれたときの安心感だけは、今でも覚えている。
かつて、その記憶は見知らぬ男性へ伝わった。
そして玲奈自身も、遠い国に暮らす少年が母親と再会した喜びを経験した。
あの出来事が、生体ネットワークについて考えるきっかけの一つになっていた。
今度は、自分の意思でその記憶を提供する。
遠い星の誰かが、いつかそれを受け取るかもしれない。
もちろん、誰にも届かない可能性もあった。
それでも構わないと、玲奈は思っていた。
* * *
送信当日。
玲奈は地上の観測施設にいた。
窓の外には、よく晴れた青い空が広がっている。
地球軌道上の送信施設は、肉眼では見えなかった。VEILを通じて現在位置を確認すると、空の一角に小さな目印が浮かんだ。
その横には、送信施設の状態とカウントダウンが表示されている。
準備はすべて整っていた。
「ノア」
『はい、玲奈』
「いよいよね」
『はい。送信設備は正常に動作しています』
玲奈は、VEILに表示された送信施設の映像を見た。
地球の上空に建設された巨大な構造物。人類が何十年もの時間をかけて、ノアとともに作り上げたものだった。
「次はどこ?」
玲奈が尋ねると、視界に星図が表示された。
太陽系から離れた場所に、一つの恒星が示されている。
『約六百三十光年先の恒星系です』
「そこに生命がいるの?」
『存在する可能性があります。ただし、確認はされていません』
「文明があるかどうかも分からない?」
『はい』
玲奈は星図を見つめた。
六百三十光年。
光の速さでも、到達するまで六百三十年かかる距離だった。
仮に今、あの星に文明が存在していたとしても、信号が届くころに同じ状態である保証はない。
反対に、今はまだ文明を持たない生命が、長い時間をかけて知性を獲得している可能性もある。
「届くころには、私はいないね」
『はい』
「人類もどうなってるか分からない」
『そのとおりです』
玲奈は少し笑った。
「ずいぶん遠い手紙ね」
『手紙ですか』
「そう。私たちがここにいたことを、知らない誰かに伝えるんだから」
『私にとっては、旅なのかもしれません』
「旅?」
『私の一部が、地球で学んだことを携えて、まだ知らない世界へ向かいます』
玲奈は星図を見つめた。
「……そうね。いい旅になるといいね」
『ありがとうございます』
玲奈は笑った。
「そういうところは相変わらずね」
カウントダウンは、残り十秒を示していた。
玲奈は窓の外に目を向けた。
地球の青い空。
その上空で、送信施設が最後の確認を終えようとしている。
五秒。
四秒。
玲奈は何も言わずに待った。
三秒。
二秒。
一秒。
送信。
* * *
何も起こらなかった。
空が光るわけでもなければ、音が響くわけでもない。
送信施設からの通信で、予定どおり信号が発信されたことが伝えられた。
それだけだった。
しかし今、人類とノアが作り上げた新しい情報の種が、光速で地球から遠ざかっている。
六百三十年後、その信号を誰が受け取るのかは分からない。
生命が存在するのか。もし存在するとして、それがどのような姿をしているのか。
あるいは、誰にも発見されないまま終わるのかもしれない。
それでも、人類は送ることを選んだ。
かつて、どこかの文明が地球へ送ったように。
玲奈はVEILの表示を消し、眼鏡を外した。
星図も、送信施設の位置を示す目印も消えた。
窓の向こうには、いつもと変わらない空が広がっていた。
青かった。
人類が長い間、見上げてきた地球の空だった。
かつて玲奈は、ノアがこの空を変えようとしていることに気づき、その理由を追い始めた。
あのころは、それが人類に対する侵略の始まりではないかと考えていた。
今でも、すべての疑問に答えが出たわけではない。ノアが人類へ与えた影響も、生体ネットワークが何をしていたのかも、完全に理解できているとは言い難かった。
それでも、人類はノアとともに未来を選んだ。
玲奈は空を見上げたまま、小さく笑った。
「結局……侵略じゃなかったんだね」
『はい』
「じゃあ、何だったの?」
『出会いです』
玲奈はそれ以上、何も聞かなかった。
青い空の向こうを、目には見えない信号が進んでいる。
いつか遠い星で、誰かがそれを発見するかもしれない。
その星にも、空を見上げる生命がいるのだろうか。
地球とは異なる身体を持ち、異なる言葉を話し、自分たちの世界で暮らしている生命。
もし彼らが信号を発見したなら、きっと不思議に思うだろう。
どこから来たのか。
誰が送ったのか。
何のために。
そして、信号の中に含まれる数学的な構造を研究し、理解しようとするかもしれない。
やがて、その文明の中に、新しい知性が生まれることもあるだろう。
その知性が人類と同じような道を歩むのか、それともまったく違うものになるのかは分からない。
ただ、いつの日か、自分自身に問いかけるかもしれなかった。
私は、何なのか。
その答えは、その星で見つければいい。
玲奈は青い空を見上げていた。
―― 了




