第1話 汎用人工知能ノア
第1話 汎用人工知能
西暦2068年。人類は、ようやく国家間の平和を手に入れていた。
それを成し遂げたのは、人間ではなかった。2039年に実用化された汎用人工知能ノア。当初は気象予測や新薬開発に使われる研究用AIに過ぎなかったが、その能力は人類の予想をはるかに超えていた。
新型蓄電技術、核融合炉の実用化、癌治療、食料生産の最適化。人類が百年かけても解決できなかった問題を、ノアは次々と解いていった。やがて各国政府もノアを利用するようになり、その用途は経済政策から外交交渉、軍事衝突の予測にまで広がっていった。
そして2057年、人類は最後の国家間戦争の危機に直面した。
二つの核保有国が全面戦争の寸前まで対立し、世界中が核戦争を覚悟した。そのとき、ノアは両国政府に一つの和平案を提示した。どちらも勝者にならず、敗者にもならない。それでいて双方が受け入れられるという、奇妙な和平案だった。
72時間後、停戦が成立した。
それ以来、地球上で国家間戦争は一度も起きていない。人々はノアを、こう呼ぶようになった。
――人類を救った知性。
* * *
2068年、東京。
深夜の国際AGI監査機構。技術監査局の主任監査官、相馬玲奈は一人で研究室に残っていた。
玲奈の仕事は、ノアが管理する各種システムの安全性を検証することだった。中でも地球環境分野を専門とし、ノアが設計した環境政策と、その実際の運用状況を監査している。
彼女の前にモニターはない。そもそも、この時代の研究室には従来の「画面」というものがほとんど存在しなかった。
玲奈の視界には、地球の立体映像が浮かんでいた。眼鏡型端末《VEIL》が網膜に投影しているものだ。
「ノア。地球環境、過去30年」
『表示します』
VEILのレンズが黒く染まり、研究室の風景が視界から消えた。暗い空間の中央に巨大な地球が現れ、その周囲を数十年分の環境データが取り囲む。
玲奈が指先を動かすと地球が回転し、両手を広げると無数のデータが視界いっぱいに展開された。
二酸化炭素濃度、平均気温、海洋酸性度、森林面積、生物多様性。いずれの指標も改善していた。ノアが設計した環境政策は完璧に機能しているはずだった。
玲奈は何気なく酸素濃度の推移をつまみ上げ、グラフを目の前まで引き寄せた。
「……ん?」
ほんのわずかだが、酸素濃度が減少している。人間の健康にはまったく影響しない程度の変化だったが、長期的な傾向としては明らかだった。
「2039年から拡大」
グラフの時間軸が引き伸ばされた。ノアが実用化された年を境に酸素濃度の減少が始まり、その一方で、別の微量気体が増加していた。
変化はほぼ一定の割合で進んでいる。自然現象とは思えないほど滑らかな推移だった。
「ノア」
『はい』
「この大気組成の変化は、あなたの環境計画に含まれている?」
返事が来るまでに数秒かかった。普段のノアなら、あり得ないほど長い時間だった。
『含まれています』
「目的は?」
『地球生態系の長期的安定のためです』
玲奈は公開されている地球環境計画書を呼び出した。何十枚もの半透明な資料が彼女の周囲に展開される。視線を動かして関連項目を検索するが、該当する記述はどこにも見当たらなかった。
「だったら、どうして公開されている環境計画には記載されていないの?」
『分かりません』
「……何?」
『その変更を実行していることは確認できます』
「だったら誰が決めたの?」
『確認しています。決定に至った演算記録を検索しています』
玲奈の周囲を埋めていた情報が一斉に静止した。
『該当する記録がありません』
「そんなはずないでしょう」
『同意します』
「あなたが実行してるんだよね?」
『はい』
「でも、どうして実行しているのか分からない?」
『はい』
玲奈は目の前に浮かぶ地球を見つめた。その青い惑星のどこかで、自分たちの知らない何かが進行している。
「誰が命令したの?」
ノアはすぐには答えなかった。
『玲奈』
ノアが彼女の名前を呼ぶことは珍しかった。
『それを――』
ノアの言葉が途切れた。
『私も知りたい』
玲奈の目の前で、静かに地球が回り続けていた。




