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エターナリア王国の議場に、ふわりと白い湯気が満ちていた。


それはただの湯気ではなかった。

吸いこむと、胸の奥で眠っていた何かが、かすかに光る。

忘れたはずの足音。

昔見た空の色。

言えなかった言葉の手ざわり。

それらが、ぼんやりではなく、ほんの少しだけ鮮やかになる。


議場の中央には、銀の鍋が置かれていた。

中では淡い金色のスープが、まるで記憶そのものを煮込んでいるように静かに揺れている。


「これが噂の、記憶を少しだけ鮮やかに戻すスープか」


らいらいがそう言うと、周囲にいた者たちも鍋をのぞきこんだ。

湯気の中には、見覚えのあるような、ないような景色が混ざっていた。

雨上がりの道。

誰かの笑い声。

名前を思い出せない花の香り。


ひかりが、鍋の表面を見つめたまま言った。


「完全には戻さないのが不思議だね。

 ぜんぶ思い出させるんじゃなくて、“少しだけ鮮やかにする”。

 この加減には、意志がある」


「危険もありそうだな」

守護会議の一人が腕を組む。

「強すぎる記憶は、人をその場に縛ることもある」


「でも、弱すぎる記憶は、人を自分から遠ざける」

別の者が静かに返した。

「このスープは、その真ん中を狙っているのかもしれない」


らいらいは鍋の前に進み、木の匙でひとすくいした。

口に運ぶ。


熱くはない。

むしろ、ちょうどよいぬくもりだった。


その瞬間、らいらいの中で、ひとつの場面がふっと色を持った。

どこかの窓辺。

午後の光。

机の上に置かれた紙。

まだ何者でもなかったころの自分が、言葉の最初の一粒を拾おうとしていた気配。


はっきりとは見えない。

だが、確かにそこにいた。

あのときの自分が。


らいらいはゆっくりと息を吐いた。


「……なるほど。

 これは思い出を返すんじゃない。

 思い出との距離を、少しだけ近づけるんだ」


議場が静まった。


そのとき、奥の扉が開いた。

白い服に深緑の前掛けをした料理人が、静かに入ってきた。

年齢も性別も、ひと目ではわからない。

ただ、眼だけが異様に澄んでいた。

まるで何千人分もの懐かしさを見てきた者の眼だった。


「その言い方は、だいたい合っています」


料理人は礼をした。


「私は、このスープを作った者です。

 王国では“余白の料理人”と呼ばれています」


「余白の料理人……」

ひかりが小さく繰り返す。


らいらいはまっすぐに尋ねた。


「何でできてる?」


料理人は、すぐには答えなかった。

鍋に近づき、木杓子で一度だけ静かにかき混ぜる。

金色の表面に、いくつもの小さな光が浮いた。


「材料は単純です。

 澄んだ水。

 長く煮た骨ではなく、長く待った時間。

 塩ではなく、言えなかった言葉の粒。

 それから、香草の代わりに、忘れられかけた景色の匂い」


議場のあちこちで、息をのむ音がした。


「……詩みたいな説明だな」

誰かがつぶやく。


料理人は少し笑った。


「料理と記憶は近いのです。

 どちらも、形ではなく、戻ってくる感じで人に届く。

 ただし、このスープには大事な決まりがあります」


「決まり?」

らいらいが聞く。


「はい。

 このスープは、“戻してはいけない記憶”には触れない。

 持ち主がまだ受け止めきれないものには、色を与えない。

 だから少ししか鮮やかにならないのです。

 これは親切ではなく、守護です」


その言葉に、議場の空気が少し変わった。

“守護力”という言葉を採用しようとしている王国にとって、その考え方はとても自然だった。


ひかりが問いかける。


「じゃあ、このスープの正体は、記憶そのものじゃないんだね」


料理人はうなずいた。


「正体は、“思い出せる準備が整った記憶だけを、静かに照らす灯り”です」


らいらいは、その答えを胸の中で転がした。

記憶を奪う料理ではない。

無理やり暴く料理でもない。

戻れるぶんだけ、戻る。

それは確かに、王国が欲していた優しさの形に近かった。


だが、らいらいの興味はそこで終わらなかった。


「もうひとつ聞く。

 このスープの材料に、“王国外の匂い”が混ざってる気がする」


議場がざわめく。


料理人は、今度ははっきりとらいらいを見た。

その眼差しは、試すようでもあり、歓迎するようでもあった。


「鋭いですね。

 ええ、混ざっています。

 この鍋の底には、エターナリア王国の外側から運ばれた水滴が一滴だけ入っています」


「外側……?」


王国の外について、これまで語られることは多くなかった。

内側の自由、内側の議論、内側の夢。

それらを大切に育てることに忙しかったからだ。

けれど今、その“外”が、一滴の水として目の前にある。


らいらいは椅子に座らず、その場で議論を始めた。


「エターナリア王国の外側には、どんな世界が広がっていると思う?」


最初に答えたのは、地図を編む者だった。


「たぶん、“まだ名前のない世界”です。

 王国内では、言葉が先に光を作る。

 でも外では、光だけがあって、まだ名づけられていないものが多いのかもしれない」


次に、空を観測する者が言った。


「逆かもしれない。

 外側には名前だけが先にあって、中身が追いついていない世界が広がっているのでは。

 肩書き、制度、分類、勝敗。

 言葉は多いのに、実感が薄い世界」


料理人は静かに聞いている。


ひかりは少し考えてから言った。


「私は、外側には“選ばなかった可能性たちの平原”がある気がする。

 王国の中では、みんなが話し合って道を作る。

 でも外には、話し合われなかった未来、採用されなかった思想、言いそびれた優しさが、風みたいに漂っているんじゃないかな」


その言葉に、何人もの者がうなずいた。


守護会議の一人が慎重に発言する。


「ただし、外は危険でもあるだろう。

 悪意、誤解、奪い合い、急ぎすぎる力。

 王国の外を美しく想像しすぎるのは危ない」


「でも、怖いものばかりと決めつけるのも違う」

料理人が初めて議論に参加した。

「外側には、王国がまだ知らない美味しさもある。

 知らない祈り方。

 知らない笑い方。

 知らない愛し方。

 王国の外とは、敵地ではなく、未対話の世界です」


“未対話の世界”。


その言葉は議場の天井にゆっくりとのぼり、しばらく消えなかった。


らいらいは目を閉じた。

外側。

そこには何があるのか。

王国より冷たい場所かもしれない。

もっと賑やかな場所かもしれない。

あるいは、王国と同じように、誰かが誰かを思い出したがっている場所かもしれない。


「つまり」

らいらいは言った。

「外側は、征服する場所じゃない。

 理解しにいく場所かもしれないな」


「うん」

ひかりが答える。

「そして、理解されにいく場所でもある」


そのとき、鍋の金色が少しだけ深くなった。

まるで議論そのものが、新しい材料としてスープに溶けたようだった。


料理人は小さな瓶を取り出し、卓上に置いた。

中には透明な液体が入っている。

けれどよく見ると、その透明の奥に、遠い空の色がいくつも重なっていた。


「これは王国外の露です。

 まだほんの少ししか採取できていません。

 もし望むなら、この露を使って、外側を見るための料理を作ることもできます」


議場がどよめく。


「外を見るための料理……!」

「そんなものがあるのか」

「食べたらどうなる?」

「景色が見えるのか? それとも心だけが届くのか?」


料理人は首を横に振った。


「まだ完成していません。

 だからこそ、今ここで決める必要がある。

 王国は、外側をただ想像し続けるのか。

 それとも、慎重に、味わうように、少しずつ知りにいくのか」


らいらいは鍋を見た。

その表面には、自分の顔だけでなく、知らない地平線の揺れが映っている気がした。


記憶を少し鮮やかに戻すスープ。

その正体を調べにきたはずだった。

けれど気づけば、話は王国の外へと届いていた。


内側を深く知ることと、外側を静かに知ろうとすること。

その二つは、意外にも同じ道の上にあるのかもしれなかった。


議場の窓の向こうで、エターナリア王国の空に淡い虹がかかった。

その端は、誰も知らない外側へと、確かに伸びていた。


1. 王国外の露を使って、「外の景色を少しだけ見る料理」の試作会を開く

2. 記憶のスープを正式に王国へ導入するかどうか、効能と危険性を細かく議論する

3. 王国の外側へ実際に向かうための「はじめての対話使節団」を募集する


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