問題
「いててっ」
バットで打たれた腹部の痛みは、じんじんと残っていた。
脈打つたびに、腹が千切れるように熱い。
「救急箱と松葉杖を!」
学生たちの声が教室に響いた。
「大丈夫ですか?」
ペンライトを持った学生は、私の身体を優しく起こし、湿布や包帯で丁寧に介抱してくれた。
私は松葉杖をもらい、かろうじて立つことができた。
「ありがとう。もう、大丈夫だ」
松葉杖はぎいと床を鳴らす。
その音だけが、やけに大きく響いた。
「久しぶりに外の人と会話できて、安心しました。怪物はもう、消えたのですか?」
首にリボンのついた学生服を身に纏う、女子学生は、明るい声を出した。
私は黒い染みが消えた床をライトで照らし、何もないことを確認する。
「もう、大丈夫だ」
教室には、四人の男子と二人の女子。
六人の学生が、私を心配そうに見つめていた。
男子はみんな、一様に金属バットを持っていた。
体格の良い学生は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
冷たい風が校舎を駆け抜ける。
背筋がざわめく。
この感覚は──
真希が消えたときと同じだ。
私はその学生をなだめる。
「それ以上、言わなくていい!」
頭を上げた学生は、申し訳なさそうに口を開く。
「でも、おじさんの姿は──」
その瞬間、大きく空間が歪んだ。
とっさに手を伸ばした。
その学生を強く押した。
……つもりだった。
けれどもう、そこには、誰もいなかった。
「……間に合わなかった」
話し声で溢れていた教室には、嘘のように静かになった。
「くそ!いったいこれは、なんなんだ」
声は、誰もいない廊下へ吸い込まれていった。
その静寂の奥で、骨が一度だけ、乾いた音を鳴らした気がした。
──私は松葉杖を突きながら、校舎の中を調べた。
職員室を調べる。
そこには生徒の成績や授業内容の資料が事細かく残っていた。
机の下にも、ゴミ箱の中にも、特に変わった様子はない。
証拠となるものは、残っていない。
「先生が生徒に何かできるとすれば……」
嫌な予感が頭をよぎった。
私はある部屋に向かう。
そこはまだ、ツンとした消毒薬の匂いがわずかに残っていた。
ベッドはバネがむき出しになり、カーテンはぼろぼろに朽ちている。
保健室。
怪我の多い野球部の生徒はよく訪れる場所。
机の引き出しや戸棚を調べる。
だが、目立った痕跡は何もない。
ゴミ箱の中を探る。
すると、繊維のほつれたガーゼに混じって、細長いプラスチックが入っていた。
尖った細長いプラスチック。
くすんではいるが、白だったと思われる。
底面には小さな穴が空いている。
私はその画像を礼子に送った。
ポコン。
”合致した”
やはり。
これは注射針を保護するプラスチックカバーだ。
ゴミ箱を逆さにする。
中身が床にばらばらと落ちた。
そこには六本のプラスチックが転がっていた。
── ちょうど、あの教室にいた生徒の数と同じだった。
私はそれをポケットに押し込んだ。
「これを使って、生徒に何をさせていたんだ?」
ポコン。
スマホが鳴った。
礼子からチャットが届いた。
”注射器で襲われた?”
礼子も推理を始めている。
しかし、それは違う。
思えば、襲ってきたのは学生たちで凶器は金属バットだった。
それが、この学校で行方不明になった原因なのだろう。
けれど、なぜ学生たちは、人を襲う必要があったのだろうか。
先生に言われたから、とは到底思えない。
話のわかる優秀な学生たちだった。
それに一瞬だけ、学生の姿が見えたとき、私を見た顔は、
……驚いた顔をしていた。
その瞬間、頭の中の記憶が次々に蘇っていく。
「でも、おじさんの姿は──」
学生たちの言葉。
「あのときの累さんは──」
真希の言葉。
「おじさん、どこから来たの?」
子どもたちの言葉。
──私は、
人間ではなかったのかもしれない。
その時、きぃと金属が揺れる音がかすかに校庭から聞こえた。
ライトを向けると、
誰もいないブランコが、静かに揺れていた。
「そうか……前に進みたかったら後ろに進め、か」
私は礼子に電話をかけた。
「寺に預けた子どもたちに聞いてくれ。
私があの子たちに会う直前、
何を脅かしていたのかを」
電話を切る。
私は松葉杖を突きながら、事務所へ急いだ。
明らかに闇に潜む何かは、我々に敵意を向けている。
霊を押しつぶす歪み。
地縛霊を使った強襲。
廃寺を調査している先輩は無事だろうか。
いや、きっと、どうにか切り抜ける。
先輩はそういう人だ。
それよりも、真相に迫ろうとしている礼子が心配だった。
襲われない根拠は、ない。
──事務所に戻ると、正面の扉が開いていた。
私はそこに飛び込む。
コツン。
革靴を響かせる。
室内はまるで嵐が過ぎ去ったかのように資料が散乱していた。
「礼子!どこだ!?」
返事はない。
キーボードを叩く音も、呼吸の気配も。
倒れたモニター。
粉々に割れたコーヒーカップ。
床に溢れた珈琲にはまだ、温もりがある。
ぎぃと、虚しく床が鳴った。
私は事務所を飛び出し、周囲を見渡した。
礼子はいなかった。
いや、倒れていなかった。
それなら、近くに逃げ延びている。
すると、ポコンっとスマホが鳴った。
チャットには”公園に来て”と礼子から連絡が入っていた。
腹部の痛みと疲れが全身を覆う。
身体の感覚は、ほとんどなくなっていた。
──公園に着くと、そこにはブランコに座る礼子が見えた。
「礼子!無事か!?」
礼子はノートパソコンを膝に乗せながら、ひらひらと手を振ってみせた。
けれどその顔は、ひどく怯えている。
きぃきぃと隣のブランコは前後する。
そこには少年がブランコを漕いでいた。
けれどその音は、少年の動きと合っていなかった。
「あはは。進めば戻るのは当たり前ですよ」
その声は耳に重くのしかかり、少年の視線は凍りつくように冷たい。
「それに、遅いですよ。累さん。
待ちくたびれて、襲っちゃいました」
少年の足元には黒い染みが集まっていた。
「どういうことだ?」
少年はピタリとブランコを止めた。
最初からブランコなど、動かしていなかったかのように。
「鈍いですね。
僕が黒い染みの創造主。
あなた方の探している”先生”です。
その名前は好きではないですがね」
少年はぴょんとブランコから降りた。
そして、礼子の肩に手を置いた。
「痛っ!」
その瞬間、礼子は苦悶の表情を浮かべる。
肩に黒い染みが取り憑いている。
「でも、まだなのです。あなた方にはもう少しだけ、仕事をしてもらわなければなりません」
「礼子を離せ。お前の目的はいったい何だ!?」
少年は小さく笑う。
「問題を一つ出します。それに正解できれば礼子さんは解放しますよ」
礼子の顔はどんどん青白く変わっていく。
「それはなんだ?」
「ははは。やる気があって結構。
では、地縛霊たちはなぜ、人を襲うのでしょう?
チャンスは一度きりですよ」
我々の動向をすべてわかっているかのような問。
その答えは、なんとなくわかっている。
浄化する音を聞いていない彼らは、私を人として見ていない。
けれど、それが何なのかは、まだわからない。
子どもたちだけが、その答えを知っている。
礼子のノートパソコンには、その答えがあるのかもしれない。
けれど今、下手に動けば何をされるかわからない。
「もーいーかーい?」
少年は礼子の肩を強く掴む。
礼子の身体は小刻みに震えている。
私はこれまでの記憶を辿った。
ふと、病院の少女の言葉が蘇ってきた。
「……怪物はもう、いない?」
「おじさんとの遊びは怖いから嫌」
地縛霊たちは私を何かと錯覚していた。
……おじさんとの遊び
かくれんぼ
追いかけっこ
私は──
「もーいーかーい?」
少年は礼子の肩に力を込めた。
「まて!わかった」
鼓動が唸る。
「答えは──」
一拍。
「鬼だ!」
ぬるい風が公園を通り抜けた。
少年は、手を叩いて大きく笑った。




