病院
暗闇が怖くないと言えば嘘になる。
けれど、長年幽霊と語り合ってきたのだ。
いまさら、こんな病院如きで──
ぴちゃん。
足が震えた。身体が急に固くなる。
ただの水滴だ。
なんでもない。
……なんでも、ない。
暗闇を見つめると、そこに吸い込まれるように歪んで見えた。
急に乾燥した埃の匂いが鼻にまとわりついた。
カランッ。
何かが転がる音。
とっさにペンライトを付けた。
そこには針の折れた注射器が転がっていた。
カッ。
ぎぃ、ぎぃ。
ドンッ。
立て続けに音が鳴る。
そのたびに心臓が唸る。
わかっているのに、反応してしまう。
しかし、やり過ぎた演出に、その正体が少しだけわかった気がした。
「ははっ。何ビビってんだか。忘れるな累」
カツーン!
暗闇に向かって革靴を踏み鳴らし、大きな声を出した。
「幽霊には足がない。だから足音もない。
だから、靴を鳴らす。それが私の役目だ。
現われろ!物好きな幽霊ども。相談なら乗ってやる」
革靴の音が室内に響き終わると、ペンライトをゆっくりと動かした。
そこには、何人もの子供たちが隠れていた。
私は口角を上げ、明るい口調を意識する。
「みーつけた!」
子供たちは驚いたように顔を上げる。
「おじさん、僕らが見えるの?」
6人の少年少女。
幼さの中にも、しっかりとした自我がある。
小学校高学年といったところだろうか。
「見えるさ。それに──ほら、会話だってできる」
子供たちは一斉に私の元へ駆け寄ってきた。
しかしその目は、どこか戸惑っているように見えた。
「おじさん、どこから来たの?」
私はその言葉に、わずかに違和感を覚えた。
何を知りたいのだろうか。
私は「遠くからだよ」とその問をあしらった。
「どうして、脅かしてきたのかな?」
子供たちは、言いよどむ。
すると背の高い一人の少女は口を開いた。
「そうすることで、私たちは少しだけ自由になれるんです。
……怪物はもういない?」
彼女がそう言った途端、他の子供たちは怯え始めた。
まるで、誰かに言ってはいけないと念を押されているかのように。
……さわさわ、さわさわ。
何かが擦れる音が小さく聞こえた。
私は無理やりにっと笑い、足を振り上げた。
「おじさんはね。みんなと遊びに来たんだよ。さぁ捕まえてごらん。
おじさんを捕まえたら、オモチャをあげるよ」
子供たちはまったく反応がなかった。
下を向いて固まったまま、動こうともしない。
カッ、カッ、カツン。
タッタカタン。
私はその場でリズムを踏んだ。
「この曲……知ってる。ゲームの曲だ」
子供たちは少しだけ目を輝かせた。
「ほら、こっちだ!」
私は病院の奥に走った。
革靴が小気味よい音を立てるように。
それと同時に、背骨へ寒気が走った。
「血をくれよ」
重たい声が頭に響く。
周囲がパキパキと凍るように空気が肺を刺す。
「──うらやましい。手を、足を、よこせ」
ペンライトの端に黒い染みが映る。
何人かの少年たちは、私を追ってきた。
私は、黒い染みが少ない場所に向かって、走り込んだ。
「おじさん、待ってよ!」
小さく笑みをこぼす子供たち。
しかし、寒気は収まらない。
この場を祓うには全員の力が必要だ。
走りながら子供の数を数える。
一、ニ、三。
黒い染みは、その数とは比較にならないほど増えていく。
壁も床も、天井さえも覆っていた。
四、五。
……一人足りない。
振り返ると、動いていない影がかすかに見えた。
走りながら、ペンライトの乱れた光を向ける。
そこには、最初に話してくれた背の高い少女が、うずくまっていた。
「……っ!」
足が、動かない。
足元の確認が漏れた。
黒い染みが私の足を掴む。
一瞬にして全身が氷のように固まった。
胸を針で貫かれたような痛みがかけめぐる。
視界が赤く明滅した。
このままでは、子どもたちも飲み込まれてしまう。
千切れるような足の痛み。
足から侵食する黒い染み。
革靴が持ち上がらない。
「──おいていけ」
声は大きくなっていく。
そのとき、ポケットの中が熱を持った。
かろうじて動く指先でそれを探る。
ゴツゴツした手触り。
それは少年からもらった骨だった。
私はポケットの奥底から、骨を指先だけですくい取る。
「……っ!」
全身を貫く痛み。
それは、指の力を奪っていった。
骨が、指先を離れた。
カツーン。コロン。
その骨は床に大きな音を響かせた。
瞬間、黒い染みが引いた。
少しだけ痛みが、弱まっていく。
「おじさん捕まえたー!」
小さな少年は私の足に飛びついた。
私は痛みに耐えながら慎重に声を紡いだ。
「捕まったー!君が一番だ。
一つだけ教えて。あの子は、何が好きなのかな?」
私は俯いた少女を指差した。
「うーん。なんだろうな……」
ズキズキと足が痛む。
視界はほとんど見えない。
黒い染みはまた、忍び寄ってくる。
「あっそうだ、花火!」
それを聞いた瞬間、全身の痛みを堪え、少女に向けて言った。
「さぁ!光のマジックだよ」
少女は少しだけ、視線を上げた。
私はペンライトの光を消し、それを上空に投げた。
そして床にへばりつく革靴を両手を使って持ち上げた。
……タイミングを見計らう。
失敗は、できない。
カツン。
カチッ。
革靴の音と同時に、床に叩きつけられたペンライトのスイッチは入った。
跳ね返るペンライトは病院内をピカピカと美しく照らした。
他の子供たちもようやく追いつき、私は押し倒された。
「ははは。すごーい。きれいだね」
少女は嬉しそうな声を出す。
みんなの笑い声が病院に響き渡る。
子どもたちの目の輝きを見て、私はそっと目を閉じた。
──「おじさん!オモチャはー?起きてよ!」
子どもたちは私を囲んでいた。
その顔に以前の怯えは消えていた。
私は身体を起こし、子どもたちの安全を確認した。そして明るい口調のまま聞いてみた。
「ここに、先生はいる?」
すると、背の高い少女は首を振った。
「いません。ずっとずっと前に、どこかへ行っちゃった」
子どもたちの顔は、少し悲しそうな顔に変わった。
「先生は最後になんて言ったか、覚えてる?」
少女はコクリと頷く。
「何かが来たら脅かせ。そうすればいつか、外で遊べるようになる」
それは残酷な言葉だった。
さらに少女は続けて言う。
「でも、おじさんとの遊びは怖いから嫌」
私は少し、嫌われているようだった。




