再会
──あれから、数日が過ぎた。
街の影は、かつてほど暗くない。
けれど。
あの音だけが、まだどこかに残っている気がした。
「……先輩」
私は、少しだけ言葉を選ぶ。
「地面に音を響かせられるようになりましたよね。
御神木は……もう、役割を終えたんでしょうか」
先輩は答えなかった。
机に肘をつき、指先で机を軽く叩いている。
コツ、コツ、と乾いた音。
軽快なキーボードの音が、事務所に重なった。
「やっぱりここじゃないと捗らない」
礼子は無理を言って、病院から抜け出していた。
珈琲の香りが、部屋にやわらかく満ちる。
「それ、ちょっともらっていいか?」
礼子はポットを持ち上げ、カップに珈琲を注いだ。
「おまち。オリジナルブレンド。
サービス料込み、千円ね」
私はカップを受け取る。
「ツケで頼む」
礼子は、わざとらしくポットを置いた。
けれど、その口元は少しだけ緩んでいる。
そのとき。
──コツン。
机の上で、乾いた音が鳴った。
誰も触れていないカップが、わずかに揺れていた。
一瞬、沈黙が落ちる。
「……まだ、先がある」
低い声だった。
礼子の手が止まる。
「この街の古文書に書かれていた通り、三つの木魚の骨は、病院と学校と廃寺にしっかり納めましたよ。
隣町の神主様にも確認してもらいましたし」
先輩は小さく息を吐いた。
「それで終わるほど、この街は単純じゃない」
指先の音が止まる。
「わからないのか」
礼子は不満げに口を尖らせた。
私は、カップに視線を落とす。
黒い液面が、わずかに揺れていた。
「……あの少年が、“先生”だったんでしょうか」
自分でも、違うと思っている。
「地縛霊に薬品を打つような人間には見えなかった」
先輩は、ゆっくりと頷いた。
「三ヶ所だ」
その一言で、空気が変わる。
「病院、学校、寺。
あれは“点”じゃない。最初から配置されていた」
礼子の指が、再びキーボードに触れる。
「……都市設計、ですか?」
「それに近い」
先輩は短く言った。
「誰かが、この街に“仕組み”を作った。
……最初から、人を閉じ込めるためのな」
私は息を止めた。
「礼子、役所の古い記録を洗え。
特に、再開発と公共事業だ。
累、市長とその周辺だ。
表に出てる人間だけを見るな」
私と礼子は、同時に背筋を伸ばした。
「はい!」
その瞬間。
──コツン。
また、音が鳴った。
私は、無意識に足元を見た。
……なぜだろう。
あの音を、私は“知っている”のではない。
──思い出している、気がした。
先輩が、わずかにこちらを見る。
「やっと、聞こえたか」
その声は、小さかった。
だが、確信に満ちていた。
ボーン。
どこからか、また音が響いた。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
それはもう、御神木の音ではない。
──けれど。
なぜか、その音の“鳴らし方”を、私は知っていた。
──この街の調査をはじめると、事務所の音は大きくなっていった。
コツン。
礼子は顔をしかめた。
「累さん、私まだ、黒い染みに侵されてます?」
礼子は身体のあちこちを見つめていた。
「いや、黒い染みはどこにもない。
それに私にも、聞こえてる」
その音は、事務所の来客用ソファーの近くで鳴っている気がしていた。
すると突然、冷蔵庫を開けたかのように、事務所の空気が冷えた。
窓が、バンバンと鳴る。
強い風が部屋の中を吹き抜けた。
私と礼子は、目を合わせた。
「サボってないで、さっさと調査しろ!」
嫌味な声が降ってきた。
その風が先輩だとわかって、胸を撫で下ろす。
以前、真希は事務所の中で突如として消えた。
それからこの現象が、とても怖くなっていた。
「先輩。来るときは静かにしてください!」
礼子はいつものように、資料の山を整えた。
──コツン。
また、鳴った。
先輩も眉をひそめた。
先輩は何も言わず、机の上に一枚の紙を置く。
──御神木生誕祭のご案内
……コツン。
今度ははっきりと聞こえた。
ソファーのすぐ後ろからだ。
視線がそこに奪われる。
しかし誰も、そこにはいない。
視線を机に戻すと、黄ばんだ和紙には薄っすらと文字が並んでいた。
流れるように連なった古い文字の羅列。
その文字は、読めなかった。
いつの時代の紙なのだろう。
この街の人々は、確かに御神木を信仰していたようだった。
ふと、その紙から甘い香りがした。
……どこかで嗅いだことがある。
礼子を救った香りに似ていた。
「どこでこれを?」
礼子は身を乗り出してその紙に顔を寄せる。
「古くからの付き合いでな」
先輩はそれ以上語らず、読めない文字を指でなぞる。
「ここに”先生”と書いてある」
その瞬間、電気が一度、完全に落ちた。
暗闇。
呼吸の音だけが残る。
覗かれているような嫌な気配が、事務所を貫く。
じわりと明かりが戻る。
コツン。
音が耳に響く。
……すぐ後ろで鳴った。
振り返る気には、なれなかった。
礼子は私と目を合わせ、小さく頷く。
私もすでに感じていた。
この気配は、あのときと同じ。
”先生について喋ると消される”
礼子は椅子から飛び上がり、先輩の口元に手を伸ばした。
先輩は眉をひそめ、あっさりとその手をかわす。
「先輩!喋らないでください!
その話は、危険です」
先輩は机に手をついて、私を無視した。
私は手を伸ばした。
その手は、冷たい感触を残し、ふわりと先輩の身体をすり抜ける。
「ふん、俺の推測では──」
次の瞬間──
先輩の身体がぐにゃりと歪み、骨の位置がずれるように、音もなく内側から崩れ落ちた。
目の前に透明な大木が見えた気がした。
そしてその身体は、押しつぶされるように消えた。
……真希が消えたときと同じように。
「……先輩!?」
礼子は手を震わせながら、視線を彷徨わせた。
「もう、冗談はやめてくださいよ。
……笑えない、ですよ」
礼子は私を見た。
「……また、しれっと現れるん……ですよね?」
私は何も答えられなかった。
もう肌で感じてしまっていた。
……持っていかれた。
御神木はこの街を守る存在だと思っていた。
けれど、地縛霊を作り、霊を消す。
その鍵を握る先生。
いつの間にか私は、何もわからなくなっていた。
──コツン。
それでも音だけは、
すぐ近くで鳴り続けていた。
音のない時間が異様に長く感じた。
私と礼子は、ただ続く次の音を待った。
……。
…止まった。
音が消えた。
パリッ。
ガラスにヒビが入るような高い音が鳴る。
その音は、空中でバリバリと裂けるように大きくなっていった。
天井から、押しつぶすような冷気が降りてきた。
ピキッ。
「逃げろ!」
礼子と私は事務所を飛び出そうとした。
その瞬間、白い光の筋が空間を裂き、まるで氷が割れるように、歪んだ空間が崩れ落ちた。
半透明の歪んだ破片が、光を反射しながら床に散った。
そこから、長い黒髪の人影が落下した。
「きゃぁっ!!」
甲高い声が部屋に響く。
あまりのことに、状況がうまく飲み込めなかった。
「いたた。やっと、出られました」
その声は、どこか遠くから響いているように聞こえた。
呼吸の間が、わずかに遅れている気がした。
そこにはゆっくりと立ち上がる真希がいた。




