覚悟
数日後、アイヴァンはやってきた。
部屋に入ってきたアイヴァンは顔色が優れず、随分やつれたようにザイラには見える。そして、あまり機嫌が良さそうには見えない。
ミア嬢の体調が悪いのだろうか、それとも侯爵にザイラの事で詰められたのだろうか、大方見当がつきそなうな理由はいくつかある。
ザイラの鼓動は速くなるが、痛む胸を出来るだけ動かさない様、深呼吸を繰り返した。
「体調はどうだ?詳細は先日聞きました。
……大変な思いをさせてしまった」
アイヴァンの低い声が、ザイラの耳に届く。一体どこからどこまでの話をアイヴァンが聞いたのは分からない。
コリンが、どのようにザイラのついて言っているのかも、ザイラには分からなかった。
ザイラはアイヴァンに哀れみを抱かれるのは嫌だった。怪我は治れば問題無い。
傷跡も残らなければ、その痕跡は無くなる。記憶の中のことだけになるのだ。
だが、ザイラにはどんなに消したいと願っても、消えない傷跡が、少ないく無い数残っている。
「いえ、こうして無事ですので……」
下手な事は言えないが、今更言う事も無い様な気がして、ザイラは口を噤む。
暫く、言いようのない深い沈黙が、二人の間に流れた。
「君が……ザザが心配することは、もう何も無い。安心して屋敷に戻って来て欲しい」
沈黙を破ったアイヴァンの言葉にザイラは少し驚いたが、ザイラは信じて喜びが湧くという感触は感じられない。
「フォーサイス医師に往診を頼もう。君が望むなら、ローリー領で療養するのも良い」
いくら耳障りの良い言葉を並べられても、ザイラは安心して生きていける程、アイヴァンを信じることは出来なかった。
「あの日……なぜ、ブローチを?」
ザイラがそっとザイラに問い掛ける。
「あのブローチは、アイヴァン様からの謝罪なのか感謝なのか、それを私は考えていました」
アイヴァンは奥歯を噛み締め、眉間に皺を寄せるが、何も答えない。
アイヴァンの口から聞きたいことが、山ほどあった。
あなたの連絡をお屋敷で待ってたんですよ。私を探してくれましたか?
あなたが助けに来てくれると、勘違いをしてしまいました。
そんな言葉だけ、発される事なくザイラは思い浮かんで沈黙に沈む。
そんな事を言ってはいけないのだ。
夏帆がザイラに転生して、ザイラが生きてしまったからきっとアイヴァンとアレシアは結ばれなかった。
責任を感じている——
ストーリーは逸れてしまった——
逸れてしまって、もう元には戻れない。
そう、元には戻れない——
ザイラは小机の上に置かれた、エルメレの小さな花瓶に入る小さく素朴な花束を見る。
「……もう、決して、君を悲しませない。どうか、もう一度……私に機会を与えてくれないか?」
アイヴァンはそう言って、ポケットからモスグリーンの小箱を取り出した。
それを開くと、ザイラの目の高さに、それを差し出す。
予想外の出来事に、ザイラは目を大きく見開いて呆気に取られた。
目の前には、アイヴァンと同じ色のエメラルドグリーンの指輪が光り輝いている。
ザイラの脳裏に浮かぶのは、目の前のエメラルドグリーンでは無く、サイズの合わない蜂蜜色の指輪だ。
舞踏会の夜、あの蜂蜜色が、ザイラの掌に食い込んで、痛かった——
「また……今度はこのエメラルドグリーンの指輪で、私を縛るのですか?私がブローチでは不満に思うと?」
ザイラの口から出た言葉の意味を、アイヴァンはきっと理解出来るだろう。
「ミア様には何と?フェルゲイン侯爵様のからご助言があったのですか?」
ザイラの問い掛けに、アイヴァンは答えず、ただアイヴァンの顔から血の気が引いていく。
「用済みだと思ったお飾りの妻が、今エルメレと繋がっていると皆さん焦っておられるのでは?」
「そうではないっ……!」
アイヴァンが声を張り上げてので、ザイラは驚き、体が揺れる。
アイヴァンがこれほど感情を曝け出すのをザイラは初めて見た。
抗うから、苦しいのだ——目の前に居るアイヴァンをザイラはじっと見つめる。
「アイヴァン様……。どちらも取ろうと足掻けば、どちらも失います。アイヴァン様も、私も、皆が、幸せにはなれないのです」
覚悟を決めなければならない、潮時だ——とザイラは小箱の中の指輪をアイヴァンに押し返す。
「早めに荷物は纏めます」
ザイラがそう口にすると、アイヴァンは真っ白な顔でザイラを見た。
「……エルメレの連中に吹き込まれたのか?
彼等は君をここから出す気が一向に無い。フォーサイスは守秘義務だと言って、最低限のことしか教えてはくれなかった。
夫である私よりも、フォーサイスは全てをよく把握している。なぜだ?君が言ったのか?エルメレの野蛮な男どもが寄ってたかって君に群がり、君を誑かしているのではないか?」
アイヴァンはそれでも必死に自身を抑えながらザイラに尋ねる。だが、その声色には隠しきれない怒りが滲んでいた。
「アイヴァン様、私もエルメレの方達同様……黒い髪と焼けた肌を持ちます。あなたの言う、〝野蛮〟と、私は同じです」
ザイラの言葉に、面食らったようにアイヴァンは目に見えて狼狽えた。それがやはり本心なのかと、内心ザイラは失望し、また悲しみの針が無数に自身を突き刺す。
「……私の容貌のことなど、今更どうということでは無いのです。
私が……この結婚で隠していた秘密に比べれば、些細なことでしょう」
ザイラはそう言って、アイヴァンを見た。自身の負い目——暴けない秘密——それをアイヴァンに告げるのは、ザイラなりの誠意でもあった。
「私は最初から、結婚できる様な身ではありません。アイヴァン様がそこに興味があったかは分かりませんが……。
肌に見える傷痕もこの身にはたくさん残っています。そして……見えない傷跡も」
悲しい訳ではない、苦しい訳でも無い——なのに、ザイラの目から、一筋の水滴が、ただ、零れ落ちた。
「離婚の書類は早い方が良いでしょう。私はまだこの体で外に出れないので、そちらで用意して……」
「っ何を言っている!そんな事はしない!」
ザイラが言い切る前にアイヴァンの怒号がザイラの鼓膜を震わす。
怒っているのか、悲しんでいるのか、どちらにも捉えられる表情でアイヴァンは顔を歪め、小刻みに震えていた。
ザイラはその姿を、呆然と眺める。
「一体誰なんだ!誰が君にそんなことをした!」
アイヴァンが怒りを露にする姿に、偽りは見えない——そんな風に思ったことが、ザイラも何回か確かに在った。
けれど、結末は、いつも同じだ——
「……私がもし、この肌をアイヴァン様に晒せば、あなたはきっと、また拒絶するでしょう」
植物園で、珍しいあの花を一緒に眺めた時と、同じ様に——
「その手を振り払い……〝醜い〟と、私の元を去るのではありませんか?」
ザイラがそう言ってアイヴァンを見上げる。その拍子に、また、溢れ出るものがザイラの頬を伝った。
アイヴァンの緑色の瞳が怯んだのを、ザイラは見逃さなかった。
だがアイヴァンは、途端に顔を歪めて喉の奥から唸り声のような声をあげる。
そして行き場のない怒りに任せて長い腕を振り上げ、小さな花瓶目掛けて腕を振り下ろした。
花瓶は音を立てて砕け散り、素朴な花達は無惨に床へ散らばる。
「ぁ……」
摘まれた花と砕け散った花瓶の破片を、ザイラは動くことの出来ないベットの上で捉える。
すると、唸る様な声と共に、ドアはノックも無く乱暴に開かれた。
これ以上無いほど顔を歪ませたレオが、砕けた破片を踏み潰し、アイヴァンとザイラの間に割って入る。
「この国の紳士は重症の奥方にそんな態度をとるのか」
顎と首の血管を浮き出させ、レオは血走った目でアイヴァンの胸元を掴む。
「外で聞き耳を立てているとは。ベルナルディ卿、貴殿がずっと面会の許可を出さなかったのは知っている」
部屋の中の空気が一変し、緊張が走る。
「屋敷総出で献身的な看護を心掛けているまでです。フェルゲイン卿が奥方を放り出して愛人と跡取りの事でお忙しいのは皆が知っていますので」
するとアイヴァンがレオの胸元を掴みぐっと顔を近づた。眉間に深く皺を寄せて、目を見開いている。
「夫婦の話だ。余計な首は突っ込まないでもらおう」
アイヴァンがそう言うと、レオは一瞬更に強い怒りに顔を歪めたが、不意にふっと力を抜いた。
「なるほどな、この屋敷は治外法権、エルメレの地だ。ではエルメレのやり方でやろうではないか」
好戦的に牙を剥き出す獣が、妖しい笑みを浮かべる。狩り場で獲物を見つけた獣が、獲物を甚振ろうとしている——
ザイラは異様な気配に気圧されたが、大柄な男がもしここで喧嘩を始めたら、また自分も怪我をしかねない……とハラハラと危機感を募らせる。
冗談では無い、これ以上骨を折るわけにはいかないの——ザイラの首に汗が滴った。
おやめ下さい、とザイラが声を上げようと息を吸った時だった。
「私の屋敷では、貴婦人の前で乱闘騒ぎなど許していない」
乱暴に開かれたままのドアに、フィデリオが優雅に立っていた。
「……失礼致しました」
視線をフィデリオに向けたアイヴァンが、先に手を離す。レオは不満に眉を顰めたが、その手を離し、フィデリオの横にさっと移動した。
『夫人、騒がしくして申し訳無かった。起き上がれるようになって何よりだ』
フィデリオはそう言って笑みを浮かべ、ザイラに歩み寄る。
『……手厚いお心遣い痛み入ります。お陰様ですっかり良くなりました』
とりあえず平穏を取り戻した空気に安堵し、ザイラはまだ立つことがままならない体でも恭しく頭を下げる。
フィデリオはスッと表情を変えて、アイヴァンとレオに視線を移した。
「面会は終わった様だ。フェルゲイン卿をお見送りしろ」
それを聞いたレオと、扉の前に居たラティマが目でアイヴァンに退出を促す。
フィデリオに言われれば、誰もが従わざる得ない。この屋敷で フィデリオに異議を唱えられる者は居ないのだ。
「……ザザ」
退出間際、アイヴァンが振り返り、ザイラを見る。
「すまなかった」
悲哀に染まった瞳で、アイヴァンはザイラにそう言った。
ザイラは複雑な気持ちで、退出するアイヴァンを見送る。
もし屋敷への出禁を言い渡されるなら、それはクレイグだとザイラは思っていたが、それはアイヴァンかもしれない。
『血気盛んな男どもも居なくなった事だし、少し話しましょう。夫人にお話があるのです』
部屋の中には、フィデリオとザイラしか残っていなかった。
なんだか妙にスッキリとした笑みを浮かべるフィデリオに、ザイラは胸騒ぎを覚える。フィデリオは、ゆったりと美しい動作で、自身の髪の毛を後ろに撫で上げる。
こういう時の話とは、大抵聞いてはいけないような話だ。
フィデリオもザイラに言っているのかもしれない。覚悟を決めろ、と。




