あの人
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燃えるような痛み、圧迫されるような苦しさ、絶え間ない悪寒——
幾度と無く引いては返すを繰り返したその波が、段々と勢いを治めつつあった。
その波間、時折ザイラが薄らとだが目を開けると、穏やかそうな面持ちを持つエルメレの医師らしき人物と、沈痛な面持ちの見知った男が居た。
なぜそんな顔を?——
そんな顔をして欲しい訳じゃない。
夢か現実かも今になっては分からないが、カップケーキとブーケをくれた時のように、悪戯っぽく少年のような笑みを浮かべて欲しい——
そうザイラが望んでも、またすぐに睡魔が意識を奪う。昼夜問わずザイラが波間を揺蕩い、何度もそんな事を繰り返していたある日、微かに目を開けると、ぬっとクレイグがザイラの視界に現れた。
余りに驚いて、これ以上ない程力を込めたザイラは目を見開く。
急にしっかりしないといけないと力がみなぎってきた。猛烈に脳内の回路は活発になり、動かす気の無かった口を動かす。
『ラティマ、ザザが起きたみたいだ』
クレイグは目線をザイラに向けたまま、ラティマに声を掛ける。クレイグの顔色は以前より幾分良い。
『たまに目を覚ますよ、またすぐ寝てしまうけど』
ずっとくぐもっていた耳に、ラティマの声がはっきりと通って、ザイラの鼓膜を震わせる。
脳内に電流が走って、再起動したような感覚だった。
『いや何か言おうとしてるよ』
クレイグは虹彩と瞳孔を小刻みに揺らして、ザイラの様子を食い入るように観察している様だった。
『え!?』
淡々とするクレイグとは反対に、ラティマと呼ばれる医師が血相を変えてザイラの様子を窺った。
『フェルゲイン夫人?聞こえますか?』
ラティマは優しくザイラに問いかける。
クレイグは相変わらずザイラの目は見てはいない。
顔は見ているが、どこか興味津々で、興奮の色を帯びていた。
『ここを縫ったのはラティマ?綺麗だね。傷の割に突っ張りも無い』
クレイグは許可も無くザイラの頬や顎に当てられたガーゼをペロリと捲り、そう言う。
『私の声が聞こえますか?どこか痛みますか?』
クレイグの事など気にせず、ラティマはザイラに声を掛け続ける。
『掌の傷は深かったんだね。でもこの方法なら血流も妨げないし、治りも早そうだ』
次にクレイグはザイラの掌に巻かれた包帯を勝手に取ってまじまじと傷跡を観察する。
ザイラの体が動かないのを良い事に、クレイグは好奇心のまま好き勝手にしているのだ。
この男の好きにさせる訳にいかない。
ザイラは力を込めて、必死に言葉を紡ごうと口を動かす。
『ぁ……』
『大丈夫、ゆっくりでいいです』
ラティマはずずっと一層ザイラに顔を近づけて、ザイラのいかなる声も拾おうと、体を屈めた。
『ねぇ体の傷も見ていい?出来たらカルテも一緒に見たいんだけど』
ラティマに被せる様にクレイグはそう言う。
『アレ……シア……に……』
ザイラはそう声を搾り出すと、その名前にクレイグはピクっと反応した。
『アレシ……アに……言っ言いつけ……てや……る』
ザイラの言葉を聞いたクレイグは、一瞬ハッとした顔をして顔色を変え、数歩後ろに下がり、ザイラの視界から完全に消えた。
そのままずっと消えていてくれると良い。
だがクレイグの顔を見たら、ザイラは急に必ず生きねばならないと気力が湧いて来た。
話せるまでに回復すると、ザイラは体を動かそうとぐっと力を入れてみるが、あちこちガッチリ固められていてそれは叶わない。
ゆっくりと、テレサと呼ばれる女性とラティマに支えられて上半身を起こしてみたが、ずっと寝ていたせいか眩暈が酷く、とてもじゃないが起き上がれなかった。
それでも体力を戻すためには続けるしか無い、とラティマとテレサは根気良くザイラの回復に付き添う。
背中に枕を入れて、段々と起き上がる時間が長くなってくると、ザイラの頭も体調以外の事が気になってくる。
どうやらここはフィデリオの屋敷で、ザイラはここで療養して短く無い時間が過ぎたようだった。ラティマが献身的に治療に当たってくれたのは、ザイラの微かな記憶の中にも確かに残っている。
いろいろと聞きたい事は山程あったが、とりあえずアイヴァンの屋敷に戻らねばならないと言うと、ラティマからまだ動かす事は出来ないと断られた。
だがそれ以外にはザイラは困る事も特に無く制限も無い。ただ利き手である右手は掌を縫われているのでペンは握れず左手も骨折して固定されているので手紙も書けなかった。
体もそうだが、大小あちらこちらを縫われている。
ようやく腕と胸以外の包帯が解かれザイラは初めて鏡を見た。顔にもしっかり縫い傷ができてしまっていて、目の周りは未だに内出血でどす黒くなっている。
酷い有様としか言いようがない。けれどこの状態で良く生きていた、と心底ザイラは思う。
顔の骨が折れなかったのはそれなりに手加減してたのだろうか……歯が抜けなくて良かった……ザイラはと呑気にも思ってしまった。歯が抜けてはラティマもクレイグもどうすることも出来ないだろう。
「顔の傷は心配しなくて良い。ラティマの腕は確かだ。軟膏を塗って陽の光を避ければ跡もそれほど残らない」
時折現れるクレイグはザイラにそう言った。
ご機嫌取りなのだろうか、アレシアに言いつけられる事を恐れているのか、あれから無断でザイラの体をあちこち観察するのは無くなった。
気分が良い時は、アレシアからの手紙やテオとリサからの手紙を何とか工夫して読む。
部屋から出られなくても、ザイラには随分と気晴らしになった。
アイヴァンからは1通手紙が来た。
体調を気遣う内容に終始して一目顔を見たいと綴られている。
ザイラはその白い厚紙の便箋と、美しい綴りを見て、この便箋の白さと同じくらいの白々しさに嫌気がさし、この美しいだけの綴りにどれほどアイヴァンの本心が込めらているのかを、疑わざる得なかった。
贈られたブローチと、〝すまない〟と書かれたカードをふと思い出す。
〝君のことはまだ警察にも届けられてないよ。アイヴァンが止めてるんだ〟
コリンの声が、嫌でもザイラの脳内に思い起こされる。
——フェルゲイン侯爵の顔色を窺ったのだろうな……とザイラは思った。
ミア嬢の妊娠で既に手一杯な所に、今回の事だ。
理不尽に巻き込まれて拐われ、生きて帰って来れたというにに、今後は侯爵から謀殺されるかもしれないと思うと幾ら理不尽でも生き残れる気がしない。
はぁ、とザイラは大きな溜め息を吐く。胸の骨が軋んで重い痛みが走った。
「……帰りたく無い」
そうポツリと溢す。
「帰らなければいい、では?」
ザイラの側には、いつの間にか妖艶なエルメレ人が居た。娼館で踊り、大男を軽やかにいなしていたテレサだ。たどたどしい王国の言葉で、その手には温かいお湯が入った銅製の水桶と、清潔な布巾を持っている。
『あなたの回復を心から願う人の所へ行けば良いのです』
テレサは娼館とは打って変わって、動きやすそうなな白いワンピースに、同じ素材のゆったりとしたパンツ、そしてエルメレらしい透かし模様が美しい布をゆったりと肩から腰にかけて巻いている。
黒髪が本当はブラウンだったのを、ザイラは看病されながら知った。
『いくら願っても……なかなか。この体では余計に……』
ザイラがそう溢すと、テレサは水桶を置いて、布巾を濡らす。袖を捲り上げて、ザイラの傷跡が残る手を取ると、ゆっくりと優しく清め始めた。
『この体?貴女は傷跡が気になるのですか?痛みますか?』
テレサの筋肉質な腕が、ザイラの体をゆっくりと痛みを和らげる様に温かい布巾を少しづつ滑らせる。
『いえ、いやまだ痛む所もありますが、それは大丈夫です。ただ傷を持つ女性は、この国では……好ましくないので』
『傷が?私も傷だらけですよ。傷は、貴女を醜くしましたか?』
テレサの問いに、ザイラはどう答えればいいか分からない。ただ柔らかな陽光と、爽やかな風だけが窓のカーテンを揺らす。
『貴女の傷が痛む時、その痛みを取り除こうとしてくれる人、貴女が苦しい時、その苦しみから貴女を遠ざけようとしてくれる人。
貴女の傷跡を見て、共に痛みを分かち合いたいと貴女に寄り添い貴女を労ってくれる人……。そんな人は貴女の傷跡なんて、最初から気にもしてません。
私の傷は、私の誇りなのです。誰にも貶しはさせません。貴女が、自分自身を貶してはいけない』
テレサはそう言って、優しく、そして強くザイラに微笑みかけた。
ふとベットサイドにあるテーブルが、ザイラの目に入る。
見覚えのあるドライフラワーの可愛らしいブーケが、エルメレの花瓶に挿されてベッドサイドに飾られていた。最近顔を見ていない人物から貰った物だ。
最早全てが夢かと思っていた。
誕生日の事も、ベッドで微かに見た男の沈痛な面持ちも——
夢でも良いとザイラは思っていた。
だがそのどこかくたびれたブーケを見ると、ドゥガルとロシーンをザイラは思い出す。
ドゥガル以上のロマンチックな男を、ザイラは知らない。だがあの男も、本当は負けず劣らずそうなのかもしれない。
今なら、ザイラもロシーンの気持ちがよく分かる。




