色眼鏡
いつまでも鈍った体ではいられないと、ザイラは散策を兼ねて辺りを散歩するのが日課になりつつあった。
今日もそのつもりでザイラは浴室を出て鏡台の椅子に座る。
本当は乗馬がしたいが、まだアイヴァンからザイラに馬は届かない。
馬を贈る……——そんな事があっていいのだろうか、という事をいともさらりと出来てしまうのが大貴族たる由縁だろう。
まさかアイヴァンからそんな提案があるなぞザイラは露程思わなかったが、純粋にその好意は嬉しく思っていた。
ただの気まぐれ、であったとしても……——
アイヴァンの眼差しや伸ばされた手に、嘘は無かった。
そうザイラが思うと、ミア嬢についてザイラが考えてしまうのは自然な流れで、北の氏族のドゥガルが言った言葉を思い出す。
アイヴァンは自らの命に代えてもミア嬢を守る為、フェルゲイン侯爵に屈し、ザイラと結婚したらしい。
鏡に映る自分の姿を、ザイラは改めて眺めてみる。
金色に輝く滑らかな髪も、目を引くような白い肌も、女性らしい丸みすら、そこには一欠片も無い——
ザイラは小さなため息を吐き、その目を鏡から逸らした。
結婚したからといって、アイヴァンとミア嬢の関係はそう易々と揺らぐものでは無いだろう——
だが、アイヴァンの葛藤や苦悶はよりいっそう深くなるに違いない。
妻、とされる女と信頼を築こうと思えば、最愛の人にとっては裏切りだ。とはいえ最愛の人を大切にしようとすれば、世間も妻も切り捨てる覚悟が要る。
それでも——
アイヴァンが侯爵家を捨てることは出来ないだろう——それはザイラの単なる勘だったが、外れはしない自信があった。
ザイラは自身のカラスのように黒い髪を一束手に取り、その絡まり具合をよくよく観察してみる。
何をしてもどこに転んでも、上手くはハマらない——とザイラは鏡台の椅子に座り、未だ夜着のまま、言うことを聞かない自身の黒い髪を眺め続ける。
ただ分かっていることは、皆が幸せには、決してなれない——それだけだった。
あのまま、ずっとコナーの家に居れれば良かった——そんな望みが叶わないのも、ザイラは知っている。
知っていても尚、恋しくて仕方がない。
その時、ザイラの部屋のドアは控えめに何度か叩かれる。
返事をすると、部屋に入ってきたアンナは、興奮を抑えられない遠足に行く子供のような顔でザイラに言った。
「奥様、アイヴァン様からお便りです」
アイヴァンからの便りを見て、すぐさまアンナは野暮ったい濡れた黒山羊のようなザイラの姿を、品の良い淑女へ変えた。
モスグリーンのジャケットと同じ色のワンピースは紫、黒、黄色の細かな小花模様で刺繍されており、帽子は黒でリボンは落ち着いた紫色だった。言うことの聞かない髪に、アンナは辛抱強く香油を染み込ませてお堅くなり過ぎない緩いシニョンに纏め上げる。ザイラの顔立ちを引き立てる控えめな化粧を施し、アンナは自身の仕上がりに満足そうに何度も頷いていた。
王国の婦人が使うものは、須くザイラん体には合わない傾向があった。ザイラに似合ものを探す方が大変な中、アンナはそれでも工夫や意匠を凝らして、ザイラはその腕前に舌を巻いた。
「もうすぐ迎えの馬車が来ますよ」
そうアンナに促されて、ザイラも玄関へ向かう。ザイラが馬車へ乗り込むと、アンナは相変わらず機嫌の良い笑みでザイラを見送った。その隣でベロニカは相変わらずの顰めっ面でむすっとしていたが、ザイラには見慣れた光景だ。
アイヴァンからの知らせは、珍しいものがあるから共にどうか、という内容で、行き先は首都で一番大きな植物園だった。
暫くして馬車は目的地に着いたが、ザイラが窓から覗くとそこはどうやら一般人が入る入り口では無いらしい。
促されるままに馬車を降り、ザイラが日陰の控えめなアーチをいくつか通ると、薄暗い室内にいかにも堅物のような白髪混じりの男がザイラの到着を待っていた。
「……ようこそお越し下さいました」
そう言って男はついて来いと言いたげにザイラに一度視線を向けて、歩き出す。
ザイラが会釈する間も無いまま、ザイラはその男の背を追った。ふと、男の歩き方に違和感を覚えてザイラはよくよく観察してみる。
白髪混じりの男は片足が不自由な様だった。
「……ここは植物園の中にある研究所です。普段関係者しか入れません」
男は背を向けたまま、ザイラにそう言った。その声色は刺々しく、苛立ちと僅かな嫌悪が混じっているのをザイラは感じ取っていた。
「それはまたとない機会を頂けて、光栄です」
ザイラは男の神経を逆撫でしないよう、当たり障り無い言葉で返す。
「断れるはずも無いのです。……この施設の研究室は、あなた方のような人達の寄付で成り立っている部分もあるので」
金の力でこの地に入る者を、この白髪混じりの男は軽蔑しているらしい。
男が足を引き摺る不安定なリズムの足音とザイラの吐き慣れないハイヒールの規則的な音だけが、廊下に響く。
「……ここにある植物は珍しいものばかりです。普通に生きてれば、まず見る機会もないでしょう。……貴女様の国のものもありますよ」
貴女様の——の言葉だけやけに大袈裟に男は言う。どうやら男はザイラがエルメレ出身者だと思っている様子だった。
「私はこの国の生まれです」
ザイラがそう言うと、男は立ち止まり、ザイラを上から下まで観察するような目で眺めた。
「これは失敬」
素っ気なく男が言うと、また足を引き摺り歩き出す。
「……私は10代の頃参戦経験がありましてね。学費を稼ぐ為でしたが……学費は稼げたが、足はこんな風になってしまいまして。私の足を砕いたのは、エルメレの兵でした」
ザイラはそれ以上何を言える訳でも無く、男が発した言葉を頭の中で反復した。
男は、エルメレに恨みがある——
それを晴らせるきっかけがあれば、どこでも誰にでも晴らすつもりのようだ——
ザイラは鳩尾の気持ちの悪さに顔を歪めた。




