鷲の目
なんだか……酷く厄介な事になった気がする……——
ザイラはベベンの店を出た後から、足が鉛のように重い。
——皆、最初は大した理由は無いのかもしれない。
好奇心とか、痛みを紛らわす為とか……現実から、目を背けたい、そんな時に偶々それがあったから——
後付けしようと思えば、いくらでも理由はある気がした。
だが、果たして彼女はそんな安易に得体の知れないものに手を出すだろうか。
記憶をめくると、どちらかというとザイラは思慮深く慎重な性格に思える。
手を出した……
いや………
もしくは、無理矢理飲まされた?——
急にゾクリととてもつもなく大きな悪寒が走った。
もしそうだとしたら、誰か他の人間が、ザイラの側にいたということだ。
悪寒は電流のように全身を駆け巡り、指先さえも痺れさせる。訳も分からない涙が溢れて、ザイラの頬をつーっと伝った。
命を絶ったんじゃ無かったら?——
もし、誰かに奪われたとしたら?——
足に力が入らない。遂に鉛と一体化してしまったのかもしれない——ザイラは歩みを止めた。
人が多く行き交う商店街は、皆早足で時に人を掻き分けて進む。道の真ん中で突っ立っているザイラは、邪魔だと言わんばかりに後ろから何度も強く肩をぶつけられた。
それでも、これだけの喧騒の中にいて、ザイラの耳は音が籠ったように他の音が入ってこない。
なんとか足を前に出そうとするが、涙は視界を遮り、その方向さえ認識出来なかった。体が言うことを聞かない……ザイラさえ、助けを求めるわけにもいかず、荒くなる自身の呼吸音のみがはっきりと耳に聞こえた。
「おい!おめぇ何突っ立ってんだ!」
後ろから思い切り肩をぶつけられた拍子にザイラがよろけると、ぼやけた視界のまま強烈な酒の匂いが鼻をつついた。
反射的にザイラが顔を上げると、中年の男性らしい姿は、ザイラが認識できるほどに顔を真っ赤にしてその顔面をぐいっとザイラに近づける。
「邪魔なんだよ!おめぇ、……その成り、エルメレの奴か!何やってんだここで!さっさと国に帰れ!」
酒の匂いに思わずザイラがうっと声を漏らすと、男は酒臭い息を吐き続けながらザイラの首を片手で鷲掴みにした。
背は同じくらいだが、男装していても力は並の男には到底敵わない。
そうだよな、裏路地とは本来こういうものだ——
弱ければ強いものに押し潰される。鼠のように俊敏に、狐にように狡猾に生きていく場所だ——
法律なぞここでは通用しない。ザイラは息苦しさに耐え切れず、本能的に首を掴む男の手に両手で爪を立てる。
「っ!この野蛮人め、 死 ね!」
男の手は食い込む爪から血が滲み、痛みに耐え切れずザイラの首から手を離した。
すると男の手が大きく振りかぶる。殴られる、とザイラにも認識出来た。
逃げなければ——
頭では分かっているのに、ザイラは防御の動きさえ取れない。
いつもなら全く響かない、酷く酒臭い口から放たれた暴言が、いやに今日はブスリと突き刺さって抜けないのだ。誰にいくらなにを言われても、平気だ——
ザイラには自信があった——
一体、私が何をしたんだろう
ザイラ、あなたもこう思ってた?
恐怖と絶望が入り乱れ、ザイラは呆然と立ち尽くして動けなかった。
夢の中と同じだ——
結局、何も出来やしない——
振り下ろされる拳の痛みにも、逃げることは出来ない——
その時、横からの衝撃で酒臭い男が一瞬にしてザイラの視界から消える。道にその中年の男が倒れ込んでいるのが、ザイラの目の端で見えた。
酒の匂いと違って、品の良い高級な香水の香りが漂うと、目の前には質の良いジャケットを着た男の背中が見えた。
『こちらへ』
エルメレ語……——
耳元で、音粒が弾けるように艶のある低い声が響いた。現れた男はザイラの手を掴むと、素早くその場所を後にする。ザイラには手を掴んだ相手の顔は見えなかった。
黒革の手袋をした男は、ザイラの手を掴んだまま、ズンズンと足を速めていく。随分と背が大きいので、ザイラの肩は引っ張られて微かに痛みが走った。
ザイラからは男の背中しか見えないが、髪色は金に近い柔らかなベージュで、それが陽の光に透けると眩い光が男が動くたびに揺れる。
その光にザイラが見惚れていると、ベベンの店を出てからおぼつかなかった足は不意に小石に躓く。そのままバランスを失い、立て直す間も無いままザイラは体勢を崩した。
男はすぐにそれを察知し、掴んでいた手をぱっと離すと、風のように体の正面をザイラに向け、転ぶ前にザイラの体をしっかりと受け止めた。
転ぶ事を覚悟したザイラだったが、計らずしも男の胸に顔を埋める形になり、品の良い香りに包まれると腰が抜けそうになった。
『大丈夫でしたか?』
上から降ってくる声に応えるため、ザイラは顔を上げる。
陽に透けて美しいベージュの髪、白い肌色、一見すれば王国の人種の特徴に似ているが、妖艶で神秘的な顔立ちはどこの国ともとれない。その顔立ちには、どこか見覚えがある。
その瞳は灰色と金色が混じり合った、決して忘れることの出来ない鷲のような目だった。




