14 アウトサイダー⑧
side拓真
———昔から、あいつはそうだった。
俺の言うことを何か一つでも素直に聞いた試しもないのに、何故か弟の真澄の言葉には従順で。
「真澄が言うのなら」と渋々ながらも甘受する様子は事ある毎に俺の神経を逆撫でた。
あいつの姉である桜とはまったく違う。桜は俺を見て「げっ」とあからさまに嫌そうな顔なんてしないし、俺のぶっきらぼうな言葉にもいちいち腹を立てたりしない。
桜の前だと俺は凪いだ気持ちになれる。心が落ち着く、というか。妹のように大切な存在。大切にしすぎて、当時付き合っていた彼女に振られたこともあるくらいだ。
桜が中学生の頃、高校受験に備えて俺は彼女の家庭教師を買って出た。桜の成績がなかなかに酷かったというのも一因であるが時間という時間を桜のために使い過ぎて、当時付き合っていた子に浮気を疑われた挙句なんの弁明もできずに結局振られてしまった、なんてこともある。
けれど後悔はしていない。過去に戻ってやり直すことができるとしても、やっぱり俺は桜を優先するだろうから。
『絶対に桃ちゃんと同じ高校に行くのっ!桃ちゃんに無理だって言われても、お母さんに宝くじを買って一等が当たるくらいの確率ねぇなんて言われても、お父さんは頑張れ桜って応援してくれたもん〜!!』
『別に、無理してあいつと同じとこに行く必要ないだろ?真澄と同じとこじゃダメなのかよ』
『桃ちゃんがいなきゃイヤ!』
『お前、ほんと桃が好きだな……』
正直、あいつと同じ学校を志望するには難易度が高すぎる気がしたが、桜の熱意に負けて応援してやることにした。勉強会を開くようになったのは親からの要請がきっかけだけど、桃と同じ高校に行きたいという桜の願いを叶えてやりたい気持ちが俺の中でも大きかった。
『兄貴って、桜のことが好きだったりする?異性として』
普段恋愛話など滅多に持ち出さないあの真澄が、そんな風に尋ねてくる程には、傍から見ても俺は桜にかなり尽くしていたようだった。
けれど改めて異性として好きかと問われれば、よく分からないというのが正直なところだ。
桜は可愛らしい容姿だと思う。性格だって良い。人の悪口は絶対に言わないし、いつも笑顔を絶やさぬ彼女を見ていると温かな気持ちに包まれる。
昔は泣いてばかりいた彼女が匂いやかに、そして花開くように成長してくれたことはなんだかとても誇らしく思う。俺の桜はこんなにも可愛いんだぞと周囲に自慢したくもなる。
しかし、やはり自分の中では妹に対する気持ちの方が勝ってしまうように思う。桜は俺には勿体ない。ひねくれた俺よりももっと実直で、彼女を決して傷つけることがないような男——そう、例えば弟の真澄のようなやつ。そういう男と付き合ってほしいと願ってしまうのだ。
だから俺は桜のことが異性として好きかという問いに『桜は可愛い幼なじみだろ』と答えた。変に真澄に誤解されたくなかったため当たり障りのない返答をしたつもりだったが、真澄は俺の回答があらかじめ分かっていたかのように、
『じゃあ、桃は?』と続ける。
桃。桜の妹であり、俺たちのもう一人の幼なじみでもある女。
生意気で可愛げがなくて、俺の前ではほとんど笑ったりもしなくて。桜に似た笑顔が見れるのは、いつも俺以外の誰かに向けられた時だけ。
昔からそういうやつではあったが、すっかり疎遠になった今は俺の姿を見かけただけでこれでもかと言うほど眉根を寄せ不機嫌そうにしてくる女だ。
ハッ、あんなやつ、異性として見れる男がいるんだろうか?という意味を込めて、俺は鼻で笑う。
『ありえねー』
『そーなんだ。兄貴ってどんな子が好きなの?直近の彼女は大人しそうな感じの子だったけど、前カノはちょっと桃に似てたじゃん』
『………は?』
聞き捨てならない台詞だ。再びありえない、と一刀両断する。
元カノがあいつに似ている?そんなこと考えたこともなかったし、まあ言われてみれば確かに雰囲気は似てなくもないかもしれないが、だからと言って別にあいつに似ているから元カノと付き合っていたなんて事実はない。———ありえない。
だから。
『俺のタイプは、いつもニコニコしてて愛嬌のある、どっちかって言うなら妹より姉っぽい感じの子』
……なんて、あからさまに桃とは正反対の特徴をあげつらった結果、あれこれって桜のこと言ってるみたいじゃないか?と内心でツッコむことに。
真澄はあまり考えずに受け止めたようで、『ふーん?そうなんだ』とだけ反応し、それ以上根掘り葉掘り聞かれることはなかった。
そうして季節は流れ。俺が熱心に勉強を教えた甲斐があったのか桜の努力の賜物なのか、彼女は無事に桃と同じ高校に行けることになった。いや、マジで一時は桜の勉強レベルにどうなることかと焦ったが、どうしても桃と同じ学校に行きたいのだという強い意志が桜を覚醒させたらしくどうにかなった。受験を終えた後、記憶喪失にでもなったかのように受験勉強で叩き込んだ知識をほとんど忘れてしまった桜には流石に笑っちまったけど。せっかく覚えたのに忘れんなよ。
一方、桃の方は難なくといった感じだったらしい。桃が勉強している姿はほとんど見たことがなかったが、あいつのことだから涼しい顔して合格通知を引っ提げてくるんだろうなと思っていれば案の定、だ。
桜に勉強を教える時にあいつが兼用で使っている部屋で教えていたので、受験のためにあいつも交ざってくるかと思えばまったくそんな気配はなく。俺が桜に勉強を教えている姿を見ても自分には関係ないとばかりに俺の存在ごとスルーしている。こっちはお前の親からの要望もあって、桃がどうしてもって言うんなら勉強くらい見てやっても良かったのに……やっぱり可愛げがない。まるで俺なんかでは頼りにならないと言われているようで、あまりいい気はしなかった。
それでも入学祝いのプレゼントを桃の分まで用意したのは幼なじみとしての情だろう。桜だけに用意したのではきっと桜も分が悪い。というか叱られそうだし……それだけの理由だ、と誰にともなく言い訳をする。
プレゼントは二人が好きそうなものをお揃いで贈ることにした。自分から直接二人に渡すのは気恥ずかしかったので桜たちの母親経由で渡してもらう。俺からというのが分かれば桃から拒絶されそうだったので、桜たちには口止めしておいた。
「言っちゃえばいいのになぁー。だってほらぁ、見てよ〜!桃ちゃん、拓真くんからのプレゼント気に入ってお部屋の真ん中に飾ってるんだよ?拓真くんからだって分かれば、好感度アップだと思うんだけどなあ〜〜〜」
「別にあいつのためじゃない。受験勉強を頑張った桜への入学祝いのついでだ」
「えーー!こんなに桃ちゃん好みのぬいぐるみ贈っておいて?拓真くんってば、そんなこと言っちゃうんだあ〜?」
「……………」
そんな感じで、桜たちが高校生になってしばらくは入学祝いのプレゼントをネタにからかわれていた。
これは俺も予想外だった。あの桃が俺からのプレゼントを部屋の真ん中に飾り、大切に保管していること。俺からだと分かれば即座に捨てられそうではあるが……それでもこんな風に扱ってもらえるとは思っていなかったのだ、本当に。
「桜もこういうの好きだけどぉ、どっちかって言えば桃ちゃんの好みなんだよね〜。シンプルかわいいって言うの?それにこのシリーズ、桃ちゃんが持ってるスマホストラップのやつだよね?よぉ〜く見ないと分かんないと思うんだけど、拓真くんって昔から桃ちゃんのことよぉく見てるよねっ!」
「知らねーし。流行ってるっぽいやつだったから桜が喜ぶかと思って買っただけで……」
「うーん、もしかして。桃ちゃん、あんまり可愛いもの好きって周りに思われたくないみたいで一生懸命隠してるから、桜とお揃いで贈れば受け取りやすいんじゃないかって考えてたりして〜?やだ、桜ってば名探偵?!」
「……………」
桜は桃のことになると途端に暴走しやすくなるというか話を聞かないというか。そんなつもりはなかったと行っても一切聞く耳を持たず自分の都合のいいように解釈している。
俺は早々に反論を諦めた。
「これは桜からの助言なんだけどー。大切にしたいと思ってるなら、あんまり意地悪な態度はダメだよ?桃ちゃんは純粋だから、拓真くんのこと誤解しちゃってるよきっと」
少しだけ大人びた口調の桜。こういう時の桜が言うことは、大体正しい。それは分かっているのだけれど。
……誤解も何も、俺たちの間にできた溝はできるべくしてできたものだ。
先に距離を置いたのはあいつ。意図的に俺たちを避けるようになり、今じゃ会話もほとんどない。話しかけても憎まれ口しか叩いてこない。まるで俺たちに嫌われようと必死になっているみたいに。
真澄が関係の修復を試みようとしたこともあったが、“あの話”を聞いてからはどうしたらいいのか分からず、俺たちの間では一旦桃が望む関係を続けてみようということで落ち着いた。
だから、あの日———。
桜との勉強会を終え、自宅に戻った後、開けっ放しになっていた自室の窓から真澄と誰かの話し声が聞こえた時は桜が尋ねに来たのかと思った。けれど玄関先まで赴けば、そこにいたのは桜ではなく桃の方で。会話までは聞き取れなかったが、桃と真澄が二人で話しているという事実に衝撃を受けた。
二人で何をしていたのだときつく問いただしそうになった時、桃の方から「これ、忘れてったでしょ」とシャーペンを渡される。
ああ、と合点がいく。桜との勉強会で俺が忘れたものを届けにきてくれたのだろう。どうして桃が、と考えるもすぐに桜の仕業だと気がつく。こいつは桜の押しにとても弱い。俺とどうにか接点を持たせたいらしい桜がどうしてもと言って譲らず、こうして仕方なく俺に届けに来たに違いない。
「……あー、悪い」
「じゃ」
俺がそれを受け取った瞬間、役目は果たしたとばかりにさっさと踵を返す桃。素っ気ないのは相変わらずだが、きちんと忘れ物を届けてくれるあたりがこいつらしいというかなんと言うか。
立ち去ろうとする桃の背中に向かって真澄が声をかけていたが、あいつが振り返ることはなかった。
「……兄貴、どういうこと?何で桃が兄貴の——」
「なんでもねぇよ」
「兄貴!」
桃が去った後、珍しく食い下がってくる真澄を適当に言いくるめ、俺は桃から受け取ったシャーペンをクルクルと指で遊ばせながら家の中へと戻った。
◇◆◇
それはある日の朝の出来事だった。
家の玄関を出ようとした時、真澄と桃の言い争う声が聞こえた。こいつら朝っぱらから何をしてるんだと呆れながら、近所迷惑になる前に止めなければと二人の間に割って入ろうとして——
「あ〜もう、分かったから!次からはちゃんと連絡するから!」
と叫んだ桃の声に思わず動きが止まった。
次からはちゃんと連絡するだと?こいつら、いつから二人で連絡を取り合うようになったんだ?
真澄からは何も聞いてない。まさか、隠れて二人付き合うようになったのでは——というありもしない妄想が先走る。
真澄が何も言ってこないのだからそんなことはありえないと分かっていながら、それでも嫌な想像ばかりが膨らんでゆく。
真澄にあいつは似合わない。真澄にはもっと性格が良くて優しいやつ……桜のような子と結ばれてほしい。
桃は——ダメだ。
極めつけはその日の夕方、桜の母親がポロッとこぼした言葉。
「今日は桃、委員会で遅くなるみたいなんだけど、真澄くんも優しいわよねぇ。暗くなったら危ないからってわざわざ送ってくれるなんて」
なんだ、それは。そんなの聞いてない。
今朝の言い争いは、そのことが発端だったのだろうか。
桜の自室で勉強を教えながら、俺は真澄と桃のことで頭がいっぱいだった。上の空になっていた俺に気がついた桜が少し意地悪く笑う。
「桃ちゃんが心配?それとも真澄くんかな」
「別に、あいつらのことなんて……」
「拓真くんは昔からそうだよねぇ〜、ふふ。いつもは頼れるスマートなお兄ちゃんなのに、桃ちゃんのことになると途端に子供っぽくなる」
「……」
桜は周囲が思っているほど鈍くはない。むしろ誰よりも他人の心情の機微に敏いというか、たまに心を見透かされているのではないかと思う程に鋭い。
俺は今日、桜の前で真澄と桃の名前すら出した覚えがないのに一体どうやって結びつけたのか。
「ねぇ、拓真くんたちは知ってるんでしょ?あの事。……桃ちゃんが二人と距離を置くようになったのは、桜が原因だって分かってるよね?」
いつになく慎重に口火を切った桜。
彼女があの件について言及したのはそれが初めてだった。俺も真澄も二人を傷つけてしまうのではないかと思って詳しい事情は聞けず終いだったから。
「だから桃ちゃんは悪くないの。拓真くんたちに素っ気ない態度とるのも、ぜんぶ桜のことを思ってだから、拓真くんたちが嫌で避けるようになったわけじゃないの」
「それは……分かってる」
分かっているつもりだが、後で本人以外の口からその話を聞いた時「どうして」と苛立ったのもまた事実だ。
どうして何の相談もしないんだ。そんなに俺たちが頼りないか?俺はともかく、真澄とは相当仲が良かったはずなのに、その真澄だって何も知らなかった。
まるで俺たちが重荷だと言わんばかりにあっさり切り捨てられ、あれから月日が経過した今ですら距離を置くことをやめようとしない頑なさ。
何があっても一人で立ち上がろうとするその強がりが気に食わなかった。
「分かっている」などと宣いながら、俺はずっと納得できてなどいなかった。
「うん、分かってるならいいの!桃ちゃんには優しく接してあげてね。昔みたいに間違ってもブスとか言っちゃダメだよ!」
「……ああ。ありがとう、桜」
「ふふっ。どういたしまして?桃ちゃんにも、そうやって桜に接するみたいに優しく接してあげてね」
そうするべきだと頭では理解しているのに、昔から俺は桃に対してだけぶっきらぼうな態度をとってしまう。喧嘩腰で話しかけるのをやめれば相手の態度だって軟化すると分かっていながら、それでも俺は桃を前にすると平静を保てない。
桜が「友達から電話が来たから少し席を外すね〜っ!」と言って部屋を出た後、何気なく窓の外に目をやるとそこには真澄と桃が並んで歩いている姿があった。
日が沈みかけ夕焼け色に染まった道を歩く二人はまるで付き合いたてのカップルのようで。朝に言い争っていた二人ではない。二人を纏う雰囲気がと言えばいいのか、朝とはまるで違って少しだけ甘さを孕んだような柔らかいものになっているのを肌身に感じたのだ。
桃が嫌がっている様子はない。仕方がないなと渋々ながらも真澄を受け入れているように思う。
真澄だから、なのか。
そこにいるのが俺だとしたらあいつはあんなにも和やかにはいられないだろう。眉根を寄せ、居心地が悪いのを隠すように悪態をついてくるだろう。
この違いは何なのか?答えは分かっているのに苛立ちが隠せない。
俺が真澄のようにあいつに優しくできないから——そうと分かっていながら、俺は……。