第1話 忘れたはずの匂いがした夜
夜。
控室の空気は、息が詰まるほど重かった。
「ジェイ、準備しろ。
前にも話したが、今日は娘と見合いだ。」
社長の声が、冷たく頭に響く。
父親も横で頷いている。
胸の奥がざわつく。
息が浅くなる。
そのとき、スタッフが差し入れを置いていった。
スタッフ
「ここのパンが美味しいって聞いたので……」
袋を開けた瞬間、
甘い匂いがふわりと広がる。
……この匂い。
練習生の頃、毎日通っていたあの店の匂いだ。
懐かしくて、胸が痛くなる。
ずっと忘れたくなかった匂い。
でも、忘れたふりをしてきた匂い。
視界の奥に、
柔らかい笑顔の“誰か”が一瞬よぎる。
桃の花みたいに、
春の光みたいに、
優しい声でふわっと笑っていた“あの女の子”。
あの店で出会った、忘れられない子。
(……会いたい。)
理由なんて説明できない。
ただ、その匂いが胸を締めつけた。
気づいたら立ち上がっていた。
誰かが呼ぶ声がした。
腕を掴まれそうになった。
でも、もう止まれなかった。
裏口へ向かって走る。
ドアノブを掴む。
開ける。
──真っ暗。
足元が消えた。
「……っ!?」
落ちる感覚。
視界が回る。
柔らかいものにぶつかる。
息が詰まる。
「……いった……ここ……どこ……?」
暗い。
布の匂い。
服の山。
クローゼット……?
扉の向こうで、小さな足音が近づく。
そして──
扉が開いた。
光が差し込む。
その中に立っていたのは──
「……え、ちょ、待って、怖い怖い怖い……」
懐かしい声。
大きな瞳。
……間違いない。
あの匂いの記憶の中にいた“あの女の子”。
少し大人になって、
そこにいた。
「いやいやいやいやいや!?なんで!?え!?本物!?え!?」
俺は服の山から顔を出しながら、
息を整える。
「……追われてる。
とりあえず……閉めて。」
「いやいやいやいや、閉める!?閉めるの!?
え、これ夢!?現実!?ジェイ!?
なんで私のクローゼットから出てくるの!?」
「声……大きい。」
「無理でしょ!!」
「……お願い。」
その一言で、女の子の動きが止まる。
あの日と同じだ。
優しくて、
俺の心をほどく声。
扉が閉まる。
暗闇の中で、
俺は小さく息を吐いた。
──理由は言えない。
──でも、ここに来たのは偶然じゃない。
そしてこの夜、
俺の恋と人生は静かに変わり始めた。




