この感情に名前を
フィンとは、セノーテホールを訪れた日以来の再会だった。
薄暗い洞穴回廊を二人で歩きながら、ラズリィはフィンと泉の前で話したことや、歌を歌ったこと、ここまでの険しい道のりを案内してもらったことなどを思い返し、とても懐かしくなった。
「久しぶりだね、フィン。元気だった?」
「はい、特に変わりありません」
よそよそしい態度のフィンに、ラズリィは首を傾げる。
「どうしてそんな話し方なの? 前みたいに普通に喋ってよ」
「以前とはもう状況が違うのです。ラズリィ様がエーデル様の夫君となられた以上、示しをつけなければなりません。今までの数々のご無礼を含め、どうかご容赦を賜りたく……」
「やめてよ、忘れたの? フィンは僕の命の恩人なんだよ。君に助けてもらわなければ、僕はとうに死んでいた。僕が今まで通りでいいって言ってるんだから、それでいいじゃないか」
「なりません」
頑なに拒むフィンの強情さに、ラズリィはだんだんと苛立ちを覚えていた。
「そこまで言うなら仕方ない。フィン、命令だ。僕と普通に話すんだ」
「ですから、それは……」
「聞こえなかった? 命令だと言ったはずだよ。いいから僕と――」
「ああ、もう、しつこい!」
かしこまっていたフィンが、ついに地を出した。
「これだけ無理と言ってるのに、なんて身勝手なやつだ。俺に感謝しているなら、少しは俺の立場でも物を考えてくれ」
「フィン! 良かった、いつものフィンだ」
「お前がしつこく命令してきたんだろうが。言っておくが、人目があるところでは、絶対こんなふうに話したりしないからな」
彼女がぶつくさと怒っていたが、ラズリィはフィンと今まで通りに話せたことが嬉しくて、とても上機嫌だった。
フィンは理解できないという顔をした。
「俺のことを恨んでないのか」
「どうして?」
「俺はお前を騙したんだぞ。お前が種として捕らわれるのを知っていて、ここに連れて来た」
「それは、僕を連れてくるのが君の任務だったからだろう? おかげでハーベルト……僕の兄にも会えた」
それに、とラズリィはつけ加えた。
「前にも言ったけど、どの道僕は、ここ以外に居場所なんてないんだし」
「……やけに、物分かりが良いんだな。気味が悪いくらいだ」
「そうかな」
ラズリィは、たしかにフィンの言う通り、自分はおかしいのかもしれないと思った。フィンに対して恨みや憎しみを抱くなど、たとえ努力しても無理な気がした。それほど、ラズリィはフィンのことが最初から好ましかった。
フィンは「変なやつ」と訝しがりながら、思い返したように、任務の経緯をラズリィに話し始めた。
「たしかに、俺は命を受けてお前をここに連れて来た。拒否権などは最初からない。種の捕獲任務は完遂すればそれなりに名誉なことだが、同時にひどく危険で誰もやりたがらない仕事でもある。道中に命を落とす場合もあるし、逆に自分が男たちに捕らえられる危険性もあるからな。だから、たとえ帰還できずとも、セノーテホールの大きな損失にならない俺のような人材が選ばれたというわけだ。
……で、俺は男たちの集落に乗り込んでいくまでもなく、運良く行き倒れていたお前と出くわした。お前は俺を信用してここまでついてきたんだから、裏切られたら、普通は恨むものだと思うぞ」
「う〜ん……。でも、やっぱりフィンを嫌いにはなれないや。君に拾ってもらった命だもの。どう使おうとフィンの自由だ」
「まったく、理解に苦しむな」
心底呆れられても、ラズリィは考えを変えるつもりはなかった。
「ねえ、どうして僕を迎えに来たの? 僕の世話係にでもなった? だとしたら嬉しいな」
「勘違いするな。お前の世話係など、たとえ指示があっても受けるものか。お前と接触したくはなかったが……俺はエーデル様のゲルダだからな。たまには、こういう役目を担うこともある」
「え……。君がエーデルのゲルダって……それ、本当?」
「嘘を言っても仕方ないだろう。まあ、驚くのも無理はない。本来なら、俺はこのような大それた地位を与えられる身分じゃないからな」
フィンは淡々と告げる。
「地盤調査任務のときに、たまたま視察に来られていたエーデル様が、俺をお目にとめられて、おそらくは物珍しさとほんの気まぐれで、俺をゲルダの一人にと指名された。……とはいえ、エーデル様のゲルダなど、俺以外にも何人もいる。俺はその中でも限りなく下位だ。そんな末席でも、上層部は俺がエーデル様に召し上げられることに大いに反発したらしい。ゲルダへ認定するには何か功績が必要だと提言してきて、その結果、俺は種の捕獲任務を命じられた」
「そうだったのか……」
ラズリィは、フィンの話にいろいろな意味で驚いていた。
そして、ふと疑問に感じたことを口にする。
「フィンは、エーデルのゲルダになりたいと思っていたの?」
その質問には答えず、フィンは皮肉げに笑った。
「知ってるか? 歌姫に指名されれば、つがいの契約を拒否することはできない。ましてプリマ・ソリストともなれば、断ればどうなるかは想像に難くないだろう」
「……じゃあ、フィンは、エーデルに指名されたせいで、結果的に危険な任務につくはめになったってこと?」
ラズリィが非難めいた口調になったので、フィンはそれを静かに制した。
「そのことについては、特になんとも思ってない。魔力を持たずに生まれた時点で、この身はどこかの歌姫のためにあるものだと幼い時分から心得ていた。俺は今後も与えられた役割を、歌姫のために、それからセノーテホールのためにこなすだけだ。――と、初めはそう思っていたけどな。ゲルダになって、エーデル様のおそばにいる機会が増えた今では、あの方の慈悲深さや偉大さがよくわかった。今では指名していただけたことを、誇りに思っている」
「本当に……?」
「疑り深いやつだな。エーデル様を愚弄するつもりなら容赦しないぞ」
「そうじゃなくて。フィン自身は、ゲルダになるより、自分で子供を産みたいと思ったことはないの?」
そのラズリィの言葉には、フィンは少し目を見開いた。
「どうしてそんなことを聞く?」
「エーデルが言ってたんだ。誰でも、自分の子供が欲しいと思うのは自然なことだって。だから、ゲルダの中には、子供を持てないことを不満に思う人もいるんじゃないかって」
それを聞いて、フィンは「なるほど」と頷いた。
「エーデル様らしい。たしかに、本心では不満を持っているゲルダもいるだろうな。だけど俺は、別に自分の子供が欲しいとは思わないよ」
「本当に?」
「ああ」
「本気で?」
「……さっきからしつこいぞ。なんだってそんなに俺のことを疑う」
「ごめん……。それがフィンの本音なら、別に構わないんだ。だけどなんとなく、セノーテホールに来てからのフィンは、前ほど僕に本音を言ってくれなくなった気がしてさ。単なる僕の気のせいなら、それは謝るよ」
「……ははは」
突然フィンが笑い出したので、ラズリィは目を瞬かせた。
「僕、何かおかしなこと言ったかな」
「言ったよ。……そういえば、そういうやつだったな、お前は。ぼうっとしているように見えて、変なところで察しが良いんだ」
フィンがひとしきり笑ったあと、ひどく穏やかな目をして言った。
「――たしかに、何も知らない幼少期には、母親というものに憧れたこともあった。でもそんな時期は、幼い時分には誰にでもある。児戯だよ」
「フィンも女の子だったんだね」
「茶化すな。……まったく、これで満足か?」
ぞんざいな言い方をされても、ラズリィは反論もせずにただニコニコと笑っていた。フィンといるだけで、なぜか例えようもない多幸感に包まれた。
「本当に気持ち悪いやつだな。俺をからかっているのか」
「違うよ。フィンとこんなふうに、普通に話せることがただ嬉しいんだ」
「……ラズリィ、変なことを言うようで申し訳ないんだが」
そう前置きをして、フィンがいかにも言い出しにくそうに口を開く。
「お前にそのつもりがないのは承知の上だが、どうもわかっていなさそうなので、あえて言わせてもらう。エーデル様をさしおいて、俺と親しげに接するのはよくない。エーデル様にも周囲にも示しがつかなくなるし、変な疑いをかけられるかもしれない」
「変な疑いって?」
「それはだな、その……。たとえば、俺とお前が恋仲だと誤解されたり……」
フィンは自分で口にしておいて、言ったそばから顔を赤らめていた。言ったことを、心の底から後悔している様子だった。