第3話「愛わかつもの」 2
横北山総合病院までは、車で十五分くらい。あたしはそれまで触った事も無いなかったカーナビで最短のルートを検索しては、お母さんの運転に口出しした。
「ここ、そこ、ほら、あそこ! 右、右だってば。信号変わるよ、早くっ!」
「もう、美弥!? こんな時こそ、急がば廻れよ。事故なんかに遭ったら元も子もない――」
「そか。ごめんごめん……」
謝りながら、あたしは『事故』のフレーズに引っかかった。
そうだ。あのバス事故さえなかったら、あたしも鈴木田さんも大下さんも、今頃普通に暮らしている。あたしたちだけじゃない。何人も犠牲者を出した今回の事故は、それに関わる多くの人たちの人生を、狂わせてしまっただろう。家族、恋人、友人。みんな、未だに現実を受け入れられないでいるはずだ。
だから奇跡的に助かったあたしが、犠牲者二人の心を受け持った事は、当たり前の役割なのかも知れない。
そんな事を思いながら、車はいつの間にか病院の駐車場に入っている。大病院で、あたしは自分が搬送された病院の事を思い出した。
(あの、おじいちゃん先生。確か、小根山院長だったっけ――)
アットホームなそことは違い、大病院は冷たく静かで、受付に立ったあたしは圧倒された。お母さんが居なかったら、帰っていたかも知れない。
「あの、大下梨夏さんの入院を聞いて、まいりました。面会とか……」
お母さんの言葉に、受付の人は事務的に内線電話の受話器を取る。
――いちいち見舞客に構っていてはもたない。
そんな感じの、受話器の取り方だった。
「三階の面会室へどうぞ。そこに関係の方がいらっしゃってますので――」
受付の人は、病院の見取り図のその場所に丸を付けて、無造作に置いた。あたしとお母さんは、それを持ってエレベーターへと歩いた。
「三階は、血液内科? ――大下さん、(入院は)事故よね?」
お母さんがそんな事を言ったのが、あたしにはすぐ疑問だとは結びつかなくて、鈴木田さんの指摘はその為に出た。
「美弥ちゃん。事故なら大抵『外科』だ。なあ、大下さん。もう、こんな時だ。わけを教えてくれないか?」
エレベーターの密室で、あたしたちだけの会話は続く。
「そう。あたしはそういう病気。余命僅か。事故がなくたって、もう人生諦めてた――」
「――え?」
エレベーターは三階のランプが光り、扉が開く。でも大下さんは心を閉じた。面会室は目の前。そこには例の記者――上岡文也――が立っていた。
「ここまで来てくれて、申し訳ない。彼女は面会謝絶で――」
お葬式から直接、此処に来たのか、記者は黒いネクタイをしたままで、だけどそれは曲がっていた。あたしがそれをじっと見ていると、記者はネクタイをスルスルと外し、ポケットに突っ込んだ。
「そこに、どうぞ」
記者は、あたしとお母さんをイスに座るよう促すと、紙コップのお茶を用意してテーブルの上に置いた。
「その……事態がつかめないんですが。上岡さんと言いましたね? 結局、この子に何をさせたいんですか? あなたは何がしたいんですか?」
見た目かわいらしいお母さんだけど、怒ると怖い。今、どう見たってお母さんはイライラしている。まるで意味不明の今の状況には、あたしだってじれている。でも記者は、そんな事お構いなしに、言葉を接いだ。
「おれは横北新報の記者です。ですが、この事は一切、記事にするつもりはありません。おれは一つに、ただ真実が知りたい。そして、彼女が今、何処にいるのか知りたい――」
記者の突然の意思表明に、あたしは身も凍る。記者の目は刺すように、あたしだけを見ていた。
「――まるでわかりません。彼女が何処にって……病室に居るんでしょう? 今、面会謝絶って……。それに『真実』って何ですか? まるでこの子が、加害者みたいじゃないですか!?」
お母さんの剣幕に、さすがの記者も少しひるんだ。けれど、謝る事もせず、面会室に他に誰も居ない事を幸い、勝手な言葉を並べ始める。
「鷲尾美弥子さん――。おれはこれまで、多くの事故現場を取材してきた。だから知っている。人はパニックに陥った時、そう都合よく行動できるものじゃない。訓練を受けた者ならいざ知らず、ちょっとくらい運動神経が良かったりしても、何の役にも立たない。だから、きみがあの横転したバスの中から、一人で脱出したとは考えられないんだ――」
質問は、確かにあたしに向いている。けれど、どうしてそんな事にこだわるのかが、あたしには分からなかった。でも記者の声は整然と、まるで台本でもあるかのように止まる事を知らない。
「おそらく――。君を手助けした者が居る。一人、いや二人かも知れない。あのバスに、訓練を受けたような者は乗車していなかったから、きっと相当の覚悟できみを助けることだけに専心したに違いない。でも、パニックで、他人を気遣うゆとりなんて、普通は持てないだろう?」
記者は何が言いたいのか。でも矛盾だけど、意味は分かる。あたしもあのバスの中で、他人の事を考えたとは言い切れない。やっぱり、自分の事で精一杯――。
記者は続ける。
「きみの事を、鈴木田賢二氏は最後まで気にしていた。『窓から放り出したあの子は無事だったか?』とね。重傷の彼の命を支えていたのは、その事だったかもしれない――」
(それが鈴木田さんの最後の言葉……)
この記者は偶然、それを耳にしたのだろう。知る事が出来て、あたしは少しだけ感謝の気持を持った。
「話を戻すが――、横転したバスの横幅は二メートル五十。きみの背はせいぜい百五十センチ、手を伸ばしても、座席に足をかけても、窓には届かない。きみは多分、鈴木田氏の力によって、バスを脱出できた。だが、鈴木田氏も重傷だった。つまり、あと一人、助けた者が居たんじゃないか? それはバス停で毎朝、きみが見ていた女性――大下梨夏。彼女には君を助ける理由は無かったが、自分よりきみを優先していい理由はあったと思う。どうだい? 何か――思い出したことは?」
あたしはこの時、ハッとした。まるで思い出せない夢を、はずみで思い出した時のようにするすると糸のほどけたような感覚を持った。
(そうだ! あの時……大下さんはあたしの体を支えてくれた。そして、バスの窓を出て伸ばしたあたしの手を……取らなかったんだ――)
あたしはその時の、哀しそうな大下さんの目を思い出して、泣けてきた。
でもどうして、大下さんは手を取らなかったんだろう。十分その余裕はあった筈なのに。
《そう。あたしはそういう病気。余命僅か。事故がなくたって、もう人生諦めてた――》
「――――――――っ!?」
あたしは、聞き流していた大下さんの言葉の意味を、此処でやっと理解する。
廊下に見える『血液内科』のゴチックが、あたしの体に重く暗くのしかかってくる。
「あの……大下さんの病気、いったい!?」
「白血病だ。見込みはない。そして大下梨夏はおれの婚約者だ――」
その言葉を聞いた時、あたしの中の大下さんは更に深く、あたしの中に埋まっていった。