06 何度も岐路まで戻るだけ
前と同じような最底辺の暮らしである。貯金はまだ残っていたけれど、あまり派手には使いたくなかった。
しばらくの放浪ののち、あたしたちはとある集合住宅の最上階に腰を落ち着けた。
屋根裏部屋のダニまみれの寝台から、前の借主が使っていたシーツを引っぺがして井戸まで持って行き、ざぶざぶ洗って二人がかりで絞って、向かいの家との間に張られた紐にかけて干しておく。
こんな狭い部屋でくつろぐ気にもなれなかったから、あたしたちは揃って外に出た。振り返ると、左右に壁が立ち上がった狭い路地の高くに、あたしたちの洗濯物が風に揺れている。
金持ちは高潮の心配のない高台に住んでいる。対してあたしたちはちょっと歩けばすぐに海に出られる。
潮騒の音を聞きながら、あたしはファシェルに肩を寄せて囁いた。
「どうして、あの晩、武器を持っていたの。あいつが来るって知ってたの?」
あたしが部屋を出るまえ、袖を引いたファシェルの表情が、今になると別の意味を持って思い出されるのだ。
強い陸風があたしたちの髪をなぶる。ファシェルの白い髪があたしの腕をくすぐっている。
ファシェルはしばらく無表情であたしを見つめていたが、ややあって、「知ってたよ」と小さな声で呟いた。あたしは眉をひそめてファシェルに向き直った。
「知っていたなら、どうして言ってくれなかったの」
言ってくれれば、あたし、ルーイのことなんて放っておいてずっとファシェルのそばにいたのに。
どういうわけかファシェルの返事は苛立たしげだった。
「言ったよ。何度も言った」
うるさそうに首を振り、ファシェルの大人びた眉間にしわが寄る。
「でも、ヤァリは何度だってルーイを優先して、一度だってわたしのそばにいてくれなかったでしょう」
「何を言っているの?」
あたしはすっかり当惑して立ち止まった。ファシェルは同じように足を止め、目をつぶって黙っている。
いつの間にか日が傾き、西の空に鮮烈な赤色が広がっていた。夕陽に照らされた海面を眺めながら、ファシェルの言葉を考える。
何度も言った? あたしが何度もルーイを優先してファシェルを置いていった?
あたしがルーイの部屋に行ったのはあの晩の一度きりである。
ファシェルの発言は明らかにおかしかった。
「今出ている月、明日にはどうなっていると思う?」
不機嫌そうな口調で訊かれて、あたしは戸惑いながら目線を動かした。藍がかった空に、ぼやけた月が半円形で浮かんでいる。明日あの月がどうなっているか? だいたい同じような時間に昇って沈むだろう。まあ、強いて言えば……。
「ちょっと膨らむんじゃないの。そのうち満月になる。そういうもんでしょ」
「必ずしもそうじゃないんだよ」
こいつはいったい何を言っているのだ?
絶句するあたしを見つめながら、ファシェルの目は寂しそうだった。どういうわけか隠れ家を発つ前のルーイの目元にも似ていた。
「月が膨らむ明日を選んでいるの。そうでなければ、どこかで間違った道を選んでいるということ。気付いたなら、道を誤った角まで戻らなければならない」
ファシェルは根気強く言い聞かせるような調子で続けた。
「この世の全ては、はじめから運命で決まっているの。わたしたちはそれを見つけるだけ」
あたしが半歩下がると西日がファシェルの額を照らし、彼女の伏せた両目が金色に輝く。
その瞬間、あたしはようやく、いま目の前にいるのが、人間とは異なる生き物であることを本当に理解した。
海は月の呼吸。海を住処とする人魚は、月の使者。月が司るものは……。
ファシェルは昂然と額を上げて囁いた。
「――わたしたち人魚は、過去に飛ぶの」
立ち竦んでいるあたしを見て、ファシェルは足元の貝殻を放ってきた。両手を背に回してから、右か左のどちらかの手に握れと言う。
戸惑いながら、あたしはファシェルに見えないよう貝殻を右手に握った。ファシェルは迷わず右を指し示した。
何度繰り返しても同じだった。ファシェルは何度だってあたしが貝殻を握った手を答えた。目を閉じさせ、貝殻を握らずポケットに入れても、ファシェルはそれを言い当てた。
「なるほど」と呟くと、ファシェルはにこりと小首を傾げる。
正答するまで、何度でも数秒前に戻ることを繰り返せば、不正解はなかったことになる。
ファシェルはあの晩に何度もあたしを引き留めたが、何回やり直してもあたしはルーイを選んだらしい。
人魚の力ってのが分かってから思い返せば、納得のいく事柄はいくつもあった。
「家に追っ手が来たとき、あんた本当は、あたしたちが逃げ切れるまで、あの晩を何度も繰り返していたんでしょ」
ずっと疑問だったのだ。たった数時間ルーイに背負われていただけのファシェルが、どうしてあれほど疲弊して傷だらけになっていたのか。
あたしが無傷で逃げおおせるために、ファシェルはどれだけの回数やり直したのだろう? あんなに傷だらけになってまで……。
ふとその意味が分かって、あたしは眦を下げた。
「過去に飛べば、あたしの怪我はなかったことになるけれど、あんたはそのままなんだね」
ファシェルの成長が早いとずっと思っていた。髪も伸びるのが早いって。
ほんの一年とちょっとしか経っていないはずなのに、ファシェルはもうすっかりあたしと同じ目の高さである。
ファシェルは微笑むことで肯定した。
「そんな力があって、どうして、あたしのところに……」
思わず呟くと、彼女は手を伸ばした。憂いを帯びた眼差しで、あたしの頬に触れる。
ひんやりとした指の背が耳元を撫でて、あたしの髪を耳にかけた。あたしがよくファシェルにやってやる仕草だった。
遠くで日が沈む。月が高く昇っている。ファシェルの薄い唇が囁いた。
「わたしはこれから起きることを知っている。この海を正しい未来へ導く使命を負ってここに来た」
ファシェルが髪を払ってくれた頬とこめかみに夜風が吹き寄せる。
「あたしが何かを左右するって言いたいの?」
「ヤァリは自然体でいればいいよ。ヤァリに無理をさせようなんて思ってない」
暗い海を背景に、ファシェルは初めて会ったときと同じように真っ直ぐあたしを見つめていた。
疑いのない眼差しで告げる。
「わたしは、あなたに会いたくて、ここに来たの」
微笑みながら、ファシェルの顔は妙に切なげだった。
ほんの一年で大人びた目元を眺めて、あたしは頭の片隅でぼんやり考える――ファシェルにとっては、この会話も、初めてではないのかもしれない。




