01 海は月の呼吸
海は月の呼吸である。
だから海に棲まういきものは、月の瞳をしている。
宵の口から降り続いていた雨がようやく止んだ。あたしは頭を浮かせ、小屋の窓からそっと外を覗く。
空に雲はなく、煌々とした月が海面に帯を作っていた。当然ながら深夜の浜辺に人影は見当たらない。
さいきん東の方にでるという海賊も、こんな遠浅の砂州には近寄ってこまい。
雨漏りを受け止めていた桶が八割ほど溜まっているのに気づいて、あたしは渋々寝台を出た。桶を片手に、小屋の入り口の垂れ布を掴んだときのことだった。
人がいる。
あたしは咄嗟に息を潜めた。
夜の海にいるのなんて、ならず者か夢遊病者か、それかまあ、桁外れの釣り好き……とにかくまともじゃない。
もう一度、慎重に垂れ布に手をかけ、わずかに隙間を空けて、首を伸ばして外を窺った。
……女の子だ。
あたしは束の間言葉を失った。
このあたりの浜はずっと遠くまで浅瀬が続いていて、ちょっと驚くほどの遠くまで歩いて行くことさえできる。だから、その少女は膝まで水に浸かって、月の方を見ていた。
あたしが動けなかったのは、こんな夜の海に女の子がいたからじゃない。
振り返った彼女の目が、満月のように金色に、きらりと光っていたからだった。
むかし、島にいたころに聞いたことがある。人魚の瞳は月を宿している。
長老のおじい曰く、海は人魚の住処である。
彼らは海そのものであり、月の子どもたちであり、ふしぎな力をもつ生き物なのだ、と。
でもあたしは島を出てから、人魚の別の呼び方を知った。――一攫千金のお宝!
ほかの魚と違って人魚は網にかからない。あたしたちが人魚をみるのは、ごくまれに瀕死あるいは死んだ人魚が打ち上がってくるとか、鱗だけが漂着するときくらいだ。
要するに人魚は珍しいのだ。人の上半身を持ち、下半身はきらめく魚のうろこでできているなんて、そんなの普通じゃない。
生きた人魚が捕らえられて広く人目に触れた例は今までないという。
その姿を一目見るなら大金だって払うひとがいるし、……生きた人魚を飼育できるっていうなら、金持ちは国一つ買えるくらいの金を出すというのだ!
あたしは慎重に桶を床に置いた。素早く台所へ取って返し、包丁を掴んでふたたび浜辺を覗く。
耳の中がどくどくと脈打っている。とんでもない金塊がすぐそこをうろうろしているのだ。
意を決して、みたび外を見て、そこであたしは違和感を覚えた。
足がある。
人魚じゃないじゃん。あたしは呆気にとられて脱力した。上が人、下が魚で人魚なんだから、下が人なら人人、だ。
脱力して包丁を置こうとしたとき、外で物音がした。野卑な笑い声に顔をしかめる。このあたりを縄張りにしている馬鹿どもだ。
街外れの浜辺に適当な木材で家を建てて住んでいる連中なんて全員ろくでなしなのに、自分たちがこの浜の王様で、一番のワル、みたいな面をしている集団である。
声のする方向へ、少女が顔を向けた。興味を引かれたように一歩踏み出す。
あたしは咄嗟に、梁から吊していたランプに火をつけて、垂れ布を大きく開いた。ほのかな月光だけが照らしていた砂浜にさっと光がさし、あたしの影が長く伸びる。
「こっち」と小声で呼びかけた瞬間のことを、あたしは何年経っても覚えているだろう。
あたしを振り返った瞳が、零れそうなほど見開かれる。
そして彼女は、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
笑顔の少女が水しぶきを上げて駆け寄ってくるあいだ、あたしは呆気に取られていた。
我に返ってランプを消すと、こころもち布を大きく開く。
その子はよたよたと走ってきてあたしの胸に飛び込んだ。あたしは左手で垂れ布を閉じつつ、そのまま尻餅をつく。
ふたたび薄暗くなった部屋の中で、あたしはまじまじと目の前の少女を凝視した。あたしにのしかかったまま、真ん丸な目をしてこちらを見つめてきている。
白くて長い髪が目を引いた。かわいい顔で、十二、三歳といったところだ。子ども特有の、心配になるくらい華奢な手足をしている。手足。……足である。
「誰、あんた」
呻くと、彼女は首をかしげた。そうして、口を閉じたまま、鼻歌のような音を発した。
一体何の冗談? あたしが絶句していると、また同じような音を出す。先ほどとは異なって、もう少し長く、節がついていた。
こいつ、あたしのことを馬鹿にしているんだろうか?
そう思った瞬間、脳裏をよぎったのは故郷の島の近海で聞いた鯨の鳴き声だった。
水の中で口を開けて喋ったことはないけれど、どうなるかは想像がつく。きっとろくに声も出ないだろう。
おとぎ話みたいに、人魚があたしたちと同じ言葉で話すわけがないことくらいは思い至っていた。あたしたちと人魚は互いに交わることがないんだから当然だ。……でもまさか、人魚が鼻で喋るだなんて、どうして想像できるだろう?
そこまで考えて、あたしは頭を振った。なぜだか自然と、この少女のことを人魚だと考えてしまっていた。こんなに足が生えているのに!
あたしはとりあえず少女の肩を押して膝から降りさせると、椅子を引っ張ってこようとした。
密かに体を強ばらせる。あたしはまだ包丁を持っていた。
ひんやりとした柄を握りしめながら、急速に現実感が迫ってくる。
三年前、あたしは今より無鉄砲な少女で、小さな島で一生魚を捕って暮らす人生を拒んで故郷を飛び出した。
海峡で最も大きく、栄えている島へと渡ったが、そこは大陸から来た民族が開拓した土地で、あたしのような移民に居場所はなく、いまでは島でも最下層ともいえる海辺の不法住居群で暮らしている。
もちろん暮らしに余裕なんてものはない。
少女は床に尻をつけて座ったまま、興味深げに部屋の中を見回している。大して珍しいもののない、小さな小屋である。床に置いていた雨漏り用の桶に恐る恐る手を突っ込み、舌を出して指を舐め、首をかしげている。
あたしは馬鹿みたいな結論に達しつつあった。要するに、いまあたしの家にいるのは、生きた人魚……の、ひれが足になったものである、と。
「あんた、人魚なの?」
わからないと思いながら、小さな声で問いかける。彼女はきょとんと瞬きをして、控えめな笑顔であたしを見上げている。
無防備で純真な表情である。警戒心がないんだか分からないけれど、この馬鹿は完全にあたしを信用しているらしい。
「ちょっと見させてもらうよ」とあたしは少女の服の裾を掴んでひと思いに捲り上げた。
きらりと光るものがある。膝から下は人間と全く同じ足。でも太股の外側は、不思議に輝く鱗に包まれている。
学がないあたしだって分かる。これはつまり、なんというか……普通の人間じゃない。
こいつは人魚としては売りづらそうだ。でも、鱗は売れる。
あたしは生唾を飲んで包丁を握り直した。ちょっと腕でも切っておどかしてやれば、大人しく言うことを聞くだろうか?
人魚もどきは床に両手をついて身体を斜めに傾け、絵本で見る人魚そのままの姿勢であたしを見上げている。ぴたりと揃えられた両足の爪先がなぜだか眩しい。
人間に似ているけれど、なにか違う。見た目だけあたしたちの真似をして作ったみたいな、変な生き物。
「あんた、いんぎょ。なの」
たどたどしく発せられた声に、あたしは息をのむ。人魚は鼻で問いかけるような音を追加し、あたしの反応を待っている。
あたしの呼びかけを真似している。こいつは人の言葉を覚える。
……ひれがなくても、芸を覚えさせればそれなりの金にはなるかもしれない!
「あたしは、ヤァリ」
胸を押さえてゆっくりと告げると、人魚はしばらく不思議そうに瞬きをしていたが、不意に目を輝かせると、同じように胸に手を当てて応えた。
「ファシェル!」




