五月病
陽が随分と長くなって、街ゆく人の装いもひらひらと軽い。季節は夏至に向かって、止まることなく進んでいる。
一方、五月特有の病に冒された私は、こころ随分と重く、思考は同じところをぐるぐる巡っている。このところ、東京アレルギーが過剰に反応し、ひきつけを起こす日々なのだ。
なんの役にも立たない「私」の存在意義を、日がな「私」自身に問う日が続く。
自分にとって私とは
大切な人たちにとって私とは
社会にとって私とは
地球にとって私とは
自分にとって私とは、たいへんかわいらしい存在ではあるが、私がいなくなってしまえば、かわいらしい私もかわいがられる私も同時に消失するのだから考える必要はなさそう。
社会にとって私とは、いようがいまいが簡単に回っていくものだから、納めている税金が誤差の範囲で減る程度で、それはそれは全くムカンケイと言っても差し支えない。
地球にとって私とは、生死を問わない。物質として地球からなくなるわけではないから、形を変えるだけで、つまり物質として循環していく。私の意思は初めから介入の余地はない。
だが、大切な人たちに限っては、何かしらの影響を与えうる。いっそ今ここで命を絶ってしまえば、彼彼女らが今後不幸比べをするときに、近しい友人の死というジョーカーとなることができる。人生の足しにしてほしい。
などと、考えていると気持ちはどんどん泥沼に飲まれていき、息ができなくなる。たぶん東京は酸素が薄い。
ふと、酸素バーなるものを開業しようかと思った。朝早くから森へ行き、新鮮な酸素をボンベに詰めて、東京の人たちへと提供する。原価0円のボロい商売である。
こういうことを思いつくということは、きっと森へ行きたいのだと思う。森の、少し開けたところに寝転がり、星などを眺め明かしたいのだ。星は止まって見えるけれど、しかしゆっくりと動き続けている。




